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toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

531-021107元養蚕県の石仏

2020年11月07日 | 名所旧跡

みどり市大間々の渡良瀬川の渓谷が少し開けたところに

見応えの石仏があると、同期のT氏から連絡があったの

のは半月前。彼は野仏の専門家で「野仏の見方」という

本も出している。

晩秋の晴天に恵まれ、1時間ほどのドライブで現地に飛ぶ。

 

江戸中期の作品らしいが、6本の手が養蚕使われる道具

手にしている石仏。落ち着いたたたずまいの晩秋の野に

秋の日を一杯に受けて座していた。

養蚕農家の人々が願いを込めて作り、以後養蚕の隆盛と

共に守り神としての役割を担っていたのだろう。

右は明かり窓のない灯篭、これは珍しい。

 

丹念に見た後、渓谷を更に奥に走り、小中大滝を見てき

た。若干時期が遅れたが、滝と紅葉のバランスがいい。

素人写真でも構図が取りやすい。

 

車中ずっと国会予算委員会の質疑を聞いていた。

野党の若手の論客の鋭い質問に菅総理がどう答えるか? 

聞く限りでは答弁がお上手とは思えない。前総理に比

較すると、他の大臣に答弁を振ることが多い。たまに

ある少ない総理自らの答弁は抽象的、概要的なものが

多いな、と感じる。発足間まないので安全第一なのか?

 

時を同じくして行われている米国大統領選挙の開票作

業。世界を引っ張る大国の政治家にしては首をかしげ

るが、両候補の原稿なしの肉声との隔たりに少し寂し

くなる。

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428-310316藤岡市白石稲荷山古墳

2019年03月16日 | 名所旧跡

当地は3世紀後半から6世紀にかけて作られた古墳の宝庫。藤岡白石稲荷山古墳を見る

 

この時期花粉症の症状が強く出ている。今までは鼻水ダラダラの状態

ったが今年は鼻は比較的問題ないが、目に症状が強く表れてかゆい。

子供が幼い頃さけんだ「お父ちゃん、目ん玉取り出して洗って・・」 

この辛さだったのだと今にして知る。成人して子持ちになり社会の中堅

で活躍しているだろうと思うが、今でもこんな症状に悩まされているの

だろうか。 

 典型的な前方後円墳。その方墳部分から円墳を振り返る。

1月に下旬に風邪をひきその後のうつ状態以来、顕著になった気力の減

退を憂えている。今まで普通にやれたことができない、いやできないの

ではなくてやる気が湧いてこないだけなのだが。

週一度のブログの更新も少々負担になってしまうことがある。毎日気の

いた内容で更新される同世代の皆さんのエネルギーには脱帽。古今東

西の歴史から宗教の話、更に今起こっている政治経済の話題、社会現象

まで幅広くしかも毎日更新される御方。文書のどこかにご自分の意見を

さり気なく織り込ませる。

大阪在住の方のブログ。昭和時代の知らなかった歴史の裏側を中心に不

定期だが中身の濃い内容。

私と同じように土曜日に関西地方の寺院の紹介する御方等、尊敬してし

まうとともに随分と勉強になる。

ブログを初めて7年が経過するが、私程度の内容でも覗いてくれる方

られる、ありがたいことです。年齢相応の心身になった私には大きな

励みです。しかし私は人様のブログを通して得るものの方がはるかに多い。

梨の樹がきれいに剪定された春本番を待っている。 


さて、

NHKのアナウンサーでも時に出てしまう「***みたいな」という

なかった話し言葉。なかったのではなくて使われる場面が少なかったの

で目立たなかっただけかもしれない。最近の使われ方は少し異常ではな

かと思ってしまう。「***のような」これが私らの年代の言い回し。

これもそんなに頻繁に使ったわけではない。今は名詞であれ形容詞であ

ひどいときは動詞にまでこの「みたいな」を付けて話している。話こ

とばは時代により地方により変化するのは当たり前であること十分承

知している。連れ合い共々生まれてこの方上州を離れたことがない。上

の空っ風と桑畑の荒れた土地が作りだした上州弁というあまり品の良

ない乱暴なことばを日常は使う

識者は、最近の若者たちの話し方が断定を避けたあいまいな表現が強く

っているという。単なる流行か、責任を回避しようとする表現を無意

に使ってしまう時代背景なのか。

一番気になる言い回し「僕的にはこう考えます・・」。初めて耳にした

は10年も前か、ショックを受けた。使った若者の顔を今も覚えてい

る。「・・みたいな」、「・・的」 どちらもほとんど場面で付けなく

ともなんら差支えないと思われる。

 

満開と聞いたので12日に榛名山麓の箕郷梅林を散策してきました。

 

梅の実採取のための梅林がこの時期ばかりは開放される。観光用に後か

植えた紅梅や早咲きの河津桜も彩を添える。この高台に立つと四方

花の海になる。実用のための梅林なので管理が行き渡り、老木と若木

の世代交代も順調に進んでいる。

 

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210-270307 30年ぶりの群馬の森

2015年03月07日 | 名所旧跡

  女の子のいない我が家。 下駄箱の上が唯一の女の子(?)の表現の場

 

   

地元の皆さんには改めて説明するまでもありませんが、我が市にもなかなか立派な公園があります。

「群馬の森」と市民が親しみを込めて呼び、かつそこでの散策を楽しむ公園です。

もともとは旧陸軍の弾薬廠のあった場所で、100年は経過していた手付かずの森を群馬県が40年程

前に整備して公園とした場所。 我が家の子供たちが幼き頃よく遊んだ公園だったがその後行く目的も

なかったので、非常に懐かしかった。

 

   

主にクヌギや樫そしてケヤキといった大木になる木が多く、その昔弾薬を保管した土塁がそこかしこに

残っている。それらのありのままの状況をできるだけ保存したやり方は正解。 一部に美術館があるが

何もない空間が広く確保されている、それが公園としては一番望ましい環境だと思う。

 

  

土塁の脇にダイナマイトの碑なるものがあった。昔はなかったと思う。 我が市は新幹線が交差したり

高速道が交差する交通の要点であると共に、車で15分も走ればうっそうとした森に埋もれた丘陵もある

都市として大変に恵まれた立地条件を備えている。

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192-261101四万川渓谷の紅葉

2014年11月01日 | 名所旧跡

   朝から夕方まで雨の1日だった。 紅葉は青空の背景でなければと思っていたが、雨に煙る

紅葉もまた違った趣がありますね。

 

朝食後日帰りで四万温泉の風呂を味わうかとなり、榛名山麓を回って一番の近道を取り直行する。

あいにくの雨で紅葉は冴えるとは行かないが、それでもかなり楽しめました。 無料も含め、湯どころは

沢山あるが、以前からそのレトロな建築に興味があった積善館と決める。

     

写真では何度も見てはいますが、実際に来てみると写真では味わえないなかなかの風情。赤い欄干の向

こうの建物の1階部分がお風呂。 ドアを開けるといきなりいこんな感じでそこが脱衣場、そして奥から振

り返れば一段高いところが脱衣場、各湯船に湯を供給する蛇口は温泉成分が堆積しご覧のとおり。 5つ

ある小ぶりの湯船は源泉かけ流しの湯が惜しげもなく溢れこぼれている。サウナが2つあったが息が詰ま

りそうなほど小さいので利用はしなかった。 文化庁のお墨付きの明治か大正の建築であることが判ります。 

使用されなくなった遺産ではなく、現役の建築物であることに価値を認める。

昼下がりの時間、このレトロな湯船のうち手前の一番大きなのを独り占めして心行くまで湯につかる。 湯

はきわめて滑らかで温度も良い。 (本当は内部は撮影禁止でした。誰もいなかったので・・ ごめんなさい)

 

  明治末期の入湯料と宿泊料金の表示。湯治場としての歴史

感じます。

 

四万川に沿った狭隘な谷間に川に沿って大小多くの温泉宿が散在する。 今まで殆ど素通りだったので、

どんな温泉地なのかよく判らなかったが今回じっくりと温泉街を見て回ったので大体のことが判りました。

  

四万温泉発祥の湯とある無料で入れる温泉。 中を覗いてみると大人3人入ると一杯にになってしまいそ

うな狭さ。 この狭さでは偶々一緒になった他人様と話をしないわけにもいかないので、ほんのひとときの

友人になってしまいそう。 狭い路地の反対側には重要文化財の日向見観音が秋の色彩に映えていた。

ゆっくりと四万を見て周り、ここは草津や伊香保温泉にはない湯治場の雰囲気が色濃く残っており好印象

でした。

 

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190-261018赤城自然園散策

2014年10月18日 | 名所旧跡

 新幹線高架下で幼稚園児が簡単な組み立て体操の練習を繰り返していた。 

今まで使用していたOCNブログにアクセスした場合に、10月16日午後7時より5秒後、

自動的に引越し先のGOOブログに切り替わる設定になりました。いろいろと変な現象

出現し、何じゃこれはと思われたのではないかと危惧していました。多分もう大丈夫

思います。今後ともご高覧いただければ励みになります。

 

9月最終の日曜日に渋川市方面から赤城の斜面を標高650mほどのとこ

にある『赤城自然園』に行ってきた。

セゾングループが運営している園だが、自然に対して最小限の整備しかな

されておらず、ほぼあるがままの姿が保たれている。 ちょっとした広場はあ

るが遊具の類は殆ど設置されていない。 無垢に近い自然がそこにある。

こうした園の存在は貴重だ。 そこには有名な渡りをするアサギマダラという

が群れていた。

子供たちは少々飽きるかもしれないが 子供連れでも子供は自由に行動さ

せれば何かしらの遊びを作り出すだろう。 私にそんな子があれば木登りで

もさせた有頂天になるだろう。

 

   

遊歩道はこんな感じ。 簡素な池が設けてあり、秋の花々が咲き乱れていた。 

奥に進むと赤松林に出る。 スッキリとした青空と赤松の赤のコントラストが

素晴しい。

 

    

遊歩道脇には季節の花々が競い合うように咲いている。 左からフジバカマ、

オミエシ、シモツケソウ、シラネセンキュウ。どちらかと言えば地味な花々。

 

 

  

左から、マムシ草と赤く熟れた実、ぶなの木の根本に母親に寄り添う子供、

ノハラザミと蝶(アギマダラではない)。 

 

日曜日だというのに入園者は少なく、経営は大丈夫かなと心配になる。 

一度閉園たことがある聞く。入口の脇の建物に季節の写真が展示して

あった。 最も華やになるのは5月、ついで10末の紅葉の季節。 

今はいちばん地味な季節だったも知れない。

 

 

 

 

 

 

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138-251019山王廃寺(前橋市総社町)

2013年10月19日 | 名所旧跡

Pa165216 台風26号の雲、東に遠ざかる。 高崎市総合福祉センターにて 10.16. am10

先週は柄にもなく重たい問題を論じてしまいました。 今週は軽い話題で済ませま

す。

久しぶりで「うまかうどん」食べに行く。 相変わらず胃袋を充分に満足させてくれるう

どんだ。 食後にこれも近くの総社町の「山王廃寺」を見学する。

1300年間の聖武天皇の御世に全国に建てられた「国分寺」の遺跡から直線で1km

ほどの住宅地の中にひっそりと位置する。 建築されたのは同時代の模様。

 

Pa055199 Pa055202

寺の全体の想像図                       発掘を祈念して建立された記念碑

Pa055200 Pa055205

五重塔の柱の礎石                        礎石に太い木柱がこのように建つ

 

Pa055203 Pa055204 Pa055201_3

発掘された「しび」 屋根の両端に鬼瓦のように備え付けられていた。

この寺院も平将門の乱の際に国分寺と共に消失してしまったとか。 現存していれ

ば第一級の貴重な文化財としての価値があったはず。 同様の建築はさすが奈良に

は現存する。 代表的なのは唐招提寺や薬師寺。

奈良中心の文化が栄えていた頃に、はるか500km離れた上毛の地も奈良朝の

世下にあったということになる。

Pa055206 太平洋戦争で奮戦した各種戦闘機。

遺構をはさんだ住宅地の道の反対側のタバコの自動販売機にこんなものがあった。

プラモデルの設計図のようだが、その時代を振り返りながら暫く眺める。

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106-250316 1500年の時の重み

2013年03月16日 | 名所旧跡

P2264281_2 嬬恋村パルコールスキー場上部、前日の吹雪で「しらびそ」の樹が見事な樹氷と化した。   (3月5日)

 

新聞で渋川市金井遺跡から古代人の甲冑をまとった人骨が発掘されたとの報道があった。 紙面での写真ではどこが頭で、どこが足か判然としない。 先日群馬県埋蔵文化財保管センターで一般公開があったので見学し、数枚の写真を撮ってきた。 以下コメントをつけて説明します。

榛名山の大噴火の際に膨大な量の灼熱の火山灰が振りそそぎ、男は幼子を抱えて迫りくる黒雲を背後に見ながら懸命に逃げたのだろう。(雲仙普賢岳の噴火を思い出す) 利根川まで逃げ切れれば何とかなっただろうが、重い甲冑も災いして、行き着く前に熱い灰に追いつかれ、子供をかばう様な姿勢で埋もれてしまった。

50年も経たないうちにこんな姿になったのではないだろうか。 その後この土地は原野や水田に形を変え、何度かの利根川の氾濫も経験する。彼らの上を奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸そして現代へと1500年の時が流れていく。時には北条や真田、武田あるいは上杉、徳川の軍団が覇権を争っての戦場にもなったであろう。 華やかな参勤交代の大名行列が近くを通る三国街道を行き来したはずだ。

降灰から子を守るかのようにうずくまる男の姿が迫ってくる。

P3074343 P3074353

挿入した文字は私の見方なので、間違いがあるかもしれません。 

P3074349 P3074347

5世紀の榛名山の噴火は大規模なものだったようで、山麓一体は殆ど例外なく、 約150cm掘ると、明らかに色の変わった黄色の地層が10~20cm現れる。 その地層を丹念に除去すると、当時の姿が再現される。 私の勤務する会社の場所もその例外ではなかった。 水田の遺構であり、足跡が残って居るところから、噴火は田植え時だったのだろう。

地中に杭を打つような建築は、最初に埋蔵文化財保護法による調査をしなければならない。 こんな貴重な遺構等が見つかると、建築そのものが中止になってしまうことがあるという。 一般的に施主は何も出ないことを期待し、建築が予定通りに進むことを願う。 この土地はどうだったのだろうか?

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102-250216上州歴史探訪

2013年02月16日 | 名所旧跡

P2124181 珍らしい鳥「シメ」が今年も現れた。 スズメより大きくヒヨドリほど。 

 

こんな題名をつけると、後がなかなか大変です。 黒岩重吾の小説で読んだ聖武天皇しか知らず。 かの天皇の御世に全国に国分寺を建立したとある。

多くの国分寺はもはや痕跡はないが、今でも地名にその名を残している(例えば東京国分寺市や国分などなど) 上野国すなわち現群馬県には、関越道脇に建物こそ残っていないが広大な国分寺跡が保存されている。 何度も行ったことはあるが、写真を撮ったのは初めて。 古代の天皇の政治力は大和を遠く離れたこの地まで及び、壮大な大伽藍が人々の信仰を集めたことだろう。

関越道を100mほど西に入ると案内板がその場所を示す。

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野球場が10個ほど取れる広場が拡がり、遺構が残っている。 大講堂の基壇、柱を支えた基礎石が当時のまま残る。

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近寄ってみると、自然石に何のためなのか明らかに人の手で加工が加えられているのがわかる。

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築地塀が広場の南側に当時の工法で150mほど復元されている。 セメントの無かった時代に土を固めて塀としたと案内版にあり、 アップすると付き固められた土の性質と板枠とでいくつもの層になっている。

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人目を引く七重の塔の基壇。 高さ60mあまりの塔を支えた基礎石が整然と残る。

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七重の塔の基壇と復元図。 1300年も前に良くぞこれほどの建築物を立てる技術があったものだと感心する。

この国分寺は建立後150年ほど経過した頃、 平将門の乱の際に破壊されその後1000年もの間朽ち果てていたという。 将門は天皇の中央集権的政治に始めて反旗を翻した坂東武者の魁で魅力的な武将だが、由緒ある建築物を破壊した行為は残念。

 

 

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090-241201ヒデヨシの高松城水攻めを思い浮かべる

2012年12月01日 | 名所旧跡

 

 

Img_0394 ポプラのように品種改良されたケヤキの並木。 R245が藤岡から埼玉に入ると児玉町まで続く。

信長が本能寺で光秀の手勢に討たれた。 そのとき秀吉は現岡山市郊外の毛利方の高松城を長大な堤防を築き水攻めの最中だった。 その知らせを聞くや、直ちに毛利と停戦を約し、とって返して光秀を討ち、主君信長の仇をとった。 歴史上有名な話です。

Img_0396 破壊され応急措置をした井野川の堤防。上がサイクリングロード

この水攻めのための堤防は資料を見る限り、よく走る井野川サイクリングロードの堤防と同規模と思える。 この井野川は普段はなんの心配もない穏やかな流れだが、一度夕立や台風のもたらす大量の雨が降ると、決壊寸前まで行くほどの暴れ川。 古老に聞くと昔は堤防もなくかなりの幅で蛇行していたようだ。

今は改修され堤防の間を素直な曲線で流れている。 それでも毎年堤防が破壊される。そのままというわけにはいかず改修される。翌年は未改修の弱いところが崩される。 10年余自転車道を走るが、毎年どこかにこんな風景が見られる。

秀吉の信頼厚き部下に石田三成がいる。 秀吉亡き後、天下分け目の関が原の戦いで西軍の総大将となり、家康率いる東軍に敗れ、斬首される。西暦1600年の出来事。

この三成が秀吉の小田原城攻めに先立ち、現行田市にあった忍城(おしじょう)を攻略するのに秀吉の戦法を真似て水攻めを採用した。 短期間で7里(20kmを越える)堤を築き、利根川と荒川から取水して城を孤立させた。 ここまでは良かった。 忍城の総大将は「のぼうさま」と呼ばれた至って気のいい殿様。 百姓衆にも人気があった。

我等が「のぼうさま」を救おうと、百姓衆の何人かが月のない夜、密かに堤防の一部を破壊した。 一度破壊されると水の勢いはすさまじく、間もなく水は流れ去り、忍城は三成の攻撃に耐えることができた。

Pa153413 Pa153426 復元された忍城                                           

小田原城に立てこもる北条方が秀吉に屈して間もなく、忍城も秀吉の前に膝を折るのだが、秀吉は寛大な処分をしたという。 晩年の秀吉は老害そのものだったが、この頃の采配は見事なもの。

「のぼうの城」として出版され、最近映画化された。

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054-240331東京スカイツリー

2012年03月31日 | 名所旧跡

団体さんバスツアーという観光名所めぐりは今まであまり利用したことがない。 夕飯時の何気ない会話の中で東京見物に行くかということになり、手ごろなツアーに申し込んだ。 幸い席が空いていたので実行。  ツアー名は「東京うまいもの食べ歩き」

高崎→築地→羽田→ゲートブリッジ→浅草→新大久保コリアタウン→高崎  の順路

先ずは築地。 有名なすし屋での朝食だったが大したことはない。食後に築地市場を散策。屋台風の店が雑然と並び安くて旨そうなのがたくさんある。(ウニ丼、イクラ丼、マグロ丼や海鮮丼それから分厚い熱々の玉子焼きなどなど) 気取りがなく、屋台のラーメン屋のように腰掛けて食べる。 次回個人で行ってここで食べようと思った。築地が移転すると気取った店になってしまうのか?

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続いて羽田第一TBのこれも有名だというレストランで飛行機の着陸を間近に見ながらのバイキング。 まあまあ。

2月に開通したゲートブリッジ見物。 大型船が通過できるだけの海面からの高さ、飛行機の離陸、着陸に安全な低さの矛盾をカバーすると、こんな格好になるんだ。 近づくとかなりの迫力。

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浅草。 半世紀ぶりに訪ねる。 原発事故の影響で外国人が減ったといわれるが、周りは中国語だらけ。 仲見世は成田山新勝寺の参道と比べると劣る。 スカイツリーのほうがはるかに見に来た甲斐があった。 結構周囲とマッチしている。 今はないが、母親の生家は時刻によりツリーの影が届くあたりにあったと聞く。  東京タワーの2倍の高さだが、すっきりと見える。

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夕方の混雑を抜けて最後がコリヤタウン。 新大久保の一角にこんな街があるとは・・・    この雑然とした横丁にコリヤが溢れている。 本場のキムチとマッコリを手にしてにやり。 マッコリにははまりそう。

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時間ができたので、何十年ぶりのハトバスで東京見物も悪くないな。 見所はたくさんある。

 

 

 

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038-240108日高遺跡

2012年01月08日 | 名所旧跡

職員の駐車場を増設するために、水田を農地転用して造成工事が始まっています。                  

P1051011Pc290965

この場所は静岡の登呂遺跡を凌ぐともいわれる国指定の日高遺跡と隣り合っている。 したがって地中には古代の水田の跡地が埋もれているとみて間違いない。

上の右の写真(1.5mの深さ)の中央に色の異なった地層がはっきりと顔を出している。 この層は榛名山の西暦500年頃の火山噴火による火山灰の厚さ15cmほどの堆積層で、この下に当時の水田跡が埋まっているはず。今回の造成はこの層の上までなので埋蔵文化財保護法による発掘調査の対象ではありません。 

Pc290968 P1051015

今は茫々たる冬枯れの草むら。 春になると一面の菜の花畑。遠景は雪雲のかかる赤城山(同じ名前の群馬の地酒は辛口で私のひいきの日本酒)

関越道が上越線と交差する場所は遺跡があることが確認されており、野球場2面ほどをわざわざ高架にすることによって保護されている。

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古代以来1500回の稲の田植え、収穫を繰り返したことにより出来上がった土壌が火山灰の堆積層の上に1.5m形成されたわけです。1年に1mmの繰り返しを1500年続ける。     尾瀬ヶ原の泥炭層の形成にかかった時間は10万年とも20万年ともいわれる。 一度破壊された自然が元に戻るには気の遠くなる時間が必要とされることに納得がいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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033-231211高崎今昔その1

2011年12月11日 | 名所旧跡

今朝(12/10)は今冬初めての氷点下我が家の庭の温度計はマイナス3度を指しており、当然初氷が見られました。

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近代的に発展し、便利になることばかりが良いとはいえないか。 幸せとは相対的なものでしょう。 小学校の頃我が家も極貧の状況にあり、生卵が手に入ると病気の親父に食わせるため、育ち盛りの私の目の前を通り過ぎてゆく。 祖母いわく「病気のお父さんに栄養をつけさすんだよ。 がまんしなさい。」 子を持つ親となってみて、あの時病気療養中の父の心境はどんなにか辛かったろうな。

遊びまわった友達のほとんどが似たかよったかの生活で皆が貧しかったから、特に我が家がどうしようもない貧乏でひねくれてしまうこともなかった。 町内のお大尽はK材木店(N元総理の生家)と川向こうのH田屋くらいで、そこの子達はこぎれいな服を着て、靴なんか履いていたな。 うちらはつぎあてのあるズボンと下駄だけど、みんな似たような環境ならば貧乏も苦にならなかった。

先週取り上げたブータン国もそうでしょう。 我々の感覚からすればお世辞にも生活環境が保たれているとは思えないが、そんなもんかと思い、3食に不自由せず、争いがなければそれが幸せというものでしょう。

さて今週は高崎今昔と称して戦前と今を比較します。 戦前の写真は高崎市発行の写真集から抜粋したので、もし著作権等に抵触する場合はコメントに載せてください。即、削除します

大河ドラマに登場する江の長男竹千代(後の家光)の弟国松(後の駿河大納言忠長)の墓(大信寺にある) 兄より利発がゆえに家光に憎まれたのか、徳川家存続の秩序のために犠牲になったのか、諸説はありますが、高崎藩に幽閉され助命嘆願もむなしく28歳で自刃した悲劇の男。 墓は当時のままだが、背景はすっかり変わりました。

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本町三丁目交差点を南から北に見る。 屋根に小さな塔の建物は戦後の一時期市役所がありました。  火事で全部焼けてしまった。単線の路面電車はこの交差点ですり替えをし、右角のU田青果店はしばらく前まで営業していた。

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八島町の駅前通を西から見る。 道の突き当たりは今も昔も高崎駅です。 建物はすっかり現代的になりましたが。 この風景はかなりよく覚えています。

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なんといっても変貌が著しいのが、高崎駅周辺。 車の形からみて昭和10年頃でしょうか。当時としては意外に道が広いです。すでに環境にやさしく、お年寄りに好かれる路面電車が走っていました(単線であるというところが時代を感じさせる)。 これは西口です。 またの機会に回しますが東口の変貌はもっとすごい。

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031-231204 沼田城址散策、 そして郊外をぶらつく

2011年12月04日 | 名所旧跡

所用にて沼田を訪れたときに少々時間があったので、沼田公園の「御殿桜」を鑑賞してきました。 といっても花の時期ではありませんが。

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沼田公園は言わずと知れた沼田城址です。 六文銭の旗印で戦国時代末期に大暴れした真田一族の一人、連続ドラマ「江」にも登場する真田信幸 (弟の幸村は過日放映された大阪夏の陣で家康を今一歩まで追い詰めたが果たせず戦死) の居城として有名です。

また沼田は地理の教科書にも必ず載っている日本有数の河岸段丘の地形でも有名です。城は利根川の支流の薄根川が本流とともに浸食してできた段丘上に位置しています。 沼田の上町からみると平地ですが、北側の薄根川側から見ると、70Mくらいの崖の上に位置し、天然の要害です。 、また少し北に位置する名胡桃城(月夜野町)をめぐる真田と北条両軍による争奪戦が秀吉の小田原城攻めの口実になったことも歴史好きな方はご存知でしょう。

沼田城址の天守閣があった石垣の一角に見事な桜の古木があります。 沼田市民の誇りの桜で4月20日ころ見事に咲き乱れます。 公園内にはそのほか多くの桜があり、環境との組み合わせの見事さは県内一かもしれません。 関東10大桜というのがあれば間違いなくその1本になること間違いなし。

古樹めぐりをしてきましたので、いくつかを紹介します。

薄根の大桑    沼田市を流れる四釜川を少し遡ったにあり、個人所有の木です。国の天然記念物の指定されていますが、国からの1年間の維持費は1万円だそうです。 昔より樹勢が衰えたようですが、れっきとした桑の木です。 樹齢1500年ということは、名胡桃城の争奪戦のあった頃、今の2/3位の太さで既にこの場所で繁茂していたわけです。

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西川田の村主八幡神社の大けやき    村の主 と書いて すぐり と読む。 有名なフィギュアスケート選手がいたので読めますが、 普通読めませんね。 村長さんと関係あるのかしら?

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