toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

161-260329八ヶ岳連峰をぐっと引き寄せる。

2014年03月29日 | もろもろ

 

 

 

 

P3185660  大雪で完璧に倒壊したガラスハウス。無情にもイチゴの甘い香りが周囲に漂っていた。 砕けたガラスの撤去は危険を伴う。(藤岡市内にて 3.18)

前日の冬型の天候がおさまった翌朝は会社の屋上は周囲の山々の絶好の展望台。

 

 

今朝は100キロ離れた八ヶ岳連峰をズーム一杯に引き寄せてみた。 3倍ズームに

安物の望遠レンズで撮ったもの。 これ以上の倍率では山並みが画面に入りきら

ず。

 

P3155624_2

昭和37年の大晦日から元旦にかけて、この山に登った。 強い冬型の天気で大晦

日は夏沢峠の東の谷間にある本沢温泉に泊まり、翌朝新雪が20cmほど積もった

峠への道を登っていった。 八ヶ岳連峰は南北に連なっているので北西の季節風が

まともに吹きつける。 しかし夏沢峠への道は連峰の東側の谷筋をたどるので、あま

り風に悩まされることはなかった。 その分峠に着いたときの強風には恐怖を覚え

た。 峠から南に進路を変え、硫黄岳に向かって登る。 強風の中、東側にあるであ

ろう雪庇に注意しながら少しずつ高度を上げていく。 右側面をはたく強風はおさま

気配はない。

行した温度計はマイナス13度を指している。 体感温度はマイナス20度ほどあっ

のではないか。

3人のパーティーで登ったのだが、硫黄岳の中ほどまで登った地点でリーダーの判

断で退却する。 初めての冬山でいささか興奮していた私はこの判断に異を唱える

だけの技量なく指示に従う。 パーティに初心者がいることを念頭に置いた適切な

断だった思う。

峠までは今度は左側面を強風にさらす。 しかし登りのトレースがあるので迷うこと

なく戻れた。 下山して3日の新聞で各地の山で遭難者が続出した報道に接する。 

八ヶ岳でも2名の遭難者があり、滑落死と凍死とあった。

P3155626

携帯電話等の普及で冬山登山者が安易に救助を要請する傾向が強まったいう。 

山は基本的には全て自己責任のスポーツ。 あの時われわれは3日分の食料を

行し、テントや燃料も持っていた。 風の影響を少なくする岩影を見つけ日は凌

げたと思う。冬型が3日以上続くことはあまりない。 引き返さずに退却地

近で、ビバーク(露営)しても人気のあるルートなので遭難する事態にはならない

はあった。

Img_0978 3月29日例年より一週間ほど遅れて会社の庭の桜の一本が開花。

 

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160-260322県内にも宇宙関連産業があった

2014年03月22日 | 街歩き

 

 

 

P3165649    P3165651_2    P3165647_2   

下仁田町虻田地区に早春を訪ねる。 定年退職後、この地区で田舎暮らしを続けている高校の同級生KSD君を尋ねるも留守。 26.3.16撮影

このマークを付けたマイクロバスをここ数年、駅東口や国道18号線でよく見かける。

 

 

P3125597

 

 

 

 

IHIとは昔の石川島重工業と播磨重工業が合併して出来た会社。

 

Ishikawajima Harima Industry の頭文字をとったのだろう。 県道板鼻富岡線

富岡に向かい峠を越えて間もなくの左側に大きな工場が見えてくる。 もともとは

産自動車の宇宙開発事業部として建設されたもの。 日産の業績が落ち込んだ

時にIHIに事業売却を行ったと聞く。

P3165634

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何を作っているのか細かなことは知らないが、種子島宇宙センターから打ち上げら

るH2Aロケットの重要なある部分を製造しているらしい。 見かけたバスは東京

から新幹線通勤する社員の送迎用のバス。 乗る社員の横顔が最先端の宇宙技

開発に携わる誇りに満ちていると見えるのは褒めすぎか?  IHI Aero Space 

マークが田舎には不釣合いに格好いい。

そして今シーズン3回目のスキーは、絶好の練習ゲレンデ湯の丸スキー場。 例に

り広いスキー場を独り占め。 天気は良かったがこの時期特有の春霞がかかり、

アルプスは見えなかった。

 

 

 

 

 

 

P3125600_2 山ガールに人気の湯の丸山(右)と烏帽子岳(左)を眺め、抜群の雪質を足に感じながら気持ちよくロングターンする。 重心がきちんとスキーに乗っていると疲れることもない。 画面の人物は私ではありません。

 

 

 

P3125603_2 P3125601

これも人気の山。 唐松林の合間から望む、左は篭の登山西峰と東峰。 右は四阿山。

 

ここ数年人気のあるスノーシューを履いて、鹿や野うさぎの足跡のほか何もない雪

原を歩き回るというのもスキーにはない楽しみがありそうだ。

 

 

 

 

 

 

P3125609 帰途御代田町の黄檗山普賢寺に立ち寄る。 一月前の豪雪はいまだ豊富に残っており、本堂裏で住職が懸命に雪かきをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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159-260315敗戦確定(S20.8.15)直前の秘話

2014年03月15日 | もろもろ

 

P3251325 この時期を彩る葉ぼたん。

 

デイサービスご利用の84歳の老女にこんな話を聞いた。

敗戦直前のある日、米軍の3人の乗員の乗った飛行機が大八木町の田んぼの中を

貫く道路に不時着に失敗して大破し搭乗員は全員死亡した。

米軍機不時着の知らせに接した大八木の住民は、大人は手に手に棒をもち、子供た

ちはチョコレートがもらえるとの期待で現場に駆けつけたそうな。 子供は何時の時

代でも天真爛漫。しかし大人達はもしも乗員が生きていたら、手にした棒で殴り殺し

たかもしれない。 現に福岡県ではそうした事件があった。 戦争だからしかたないの

かも知れないが、乗員は殴り殺される前に死亡していて正解だったかもしれない。

今のイオンモールのある南側に陸軍の飛行場があった。 一夜のうちに地主との交

渉がまとまり軍用地になったという。 交渉と言うより当時のことだからお国のためにの

一言で強制的な接収だっただろう。 目的は少年飛行兵の飛行訓練の場。しかし戦

は悪化の一途をたどり、昭和20年に入ると、30名余の特攻要員の訓練の場と

P3065591 飛行場跡地(その痕跡は皆無)

 

なった。 彼ら若き飛行兵は赤城や榛名を見ながら離陸、着陸の訓練をしていたの

だ。その後70年が経過しても山は揺るぐことなく同じ景観を保っている。中途半端の

まま特攻に出撃した若者の大半は目的を果たすこともなくむなしく南の空に散って

いった。 そんな歴史がすぐ間近にあった。

http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/maebashi-airfield  ← 参考リンク

 

 

私らの世代は、戦争の悲惨さの一部を実体験し、覚えている最後の年代(そのとき

歳)。 終戦前の夕食後の爆撃で、我が家のガラス窓は吹き飛び、屋根のスレー

ト瓦はあちこがずれてしまい、戦後の長い間雨が降れば雨漏りに悩まされた。成長

して屋根にがれるようになった小学6年生くらいまで続いた。 屋根に登れたときの

高揚感を今でも覚えている。

集団的自衛権の行使は是か非かの論議がなされている。歴代内閣は非としてきた。

安倍総理は是とすることが今の国際情勢の変化に応じたものとの認識に立ってい

る。 同盟国に向けたミサイルが上空を通過しても見過ごすだけで良いのか? 日本

船舶を守ろうとする同盟国の艦艇が攻撃を受けても知らぬ存ぜぬで済むのかと問

れれば、それはないよね・・と答えるしかない。 そうした事態に備える軍備を持ち

つ訓練しているのは何のため?

肝心なのはこの自衛権の行使を拡大解釈しないことしかない。 拡大解釈というのが

また問題で、その繰り返しが先の大戦の悲劇をもたらしたことを忘れてはならないと

思う。 素直に読めば憲法9条は戦力の保持を禁じている。 しかし発布後の国際情

勢の変化に対応して戦力を保持し、ほぼ合憲との判断になっている。憲法は自衛力

で禁じた訳ではないとの解釈に立脚している。 ぼやかすのも一つの選択かも。

衛権行使は合憲とはっきり決めればスッキリするが、今度はそれを既成事実として

に解釈が拡大される。これが歴史なんでしょう。

集団的自衛権は行使できると明確に決め、その枠を外さない方法をきちんと国民の

少なくとも過半数に理解してもらう。 これが私の頭で考えられうる限界です。

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158-260308パソコンの黎明期

2014年03月08日 | パソコン・IT

 

 

 

 

 

P3045585 あの大雪の下に埋もれていた木々にも新しいいぶきの誕生を見る。これはアジサイ

 

 

 

 

電子図書に無料で見られる興味ある本を見つける。 題して『パソコン創生記』

昭和44年(1969年)ごろから10年間、コンピューターを相手に仕事をしていた経

がある。その後転職し、コンピューターには縁のない仕事に就いた。そして平成

12年頃から仕事上の必要からコンピューターとの付き合いが再開した。 

したがって1985年から2000年にかけての15年弱のコンピューターの進歩は知

なかった。再開して中央処理装置と呼んでいたものがサーバーと呼ばれ、端末と

んでいたものがクライアントと呼ばれるようになっていたことに違和感を感じた。

訳すれば、サーバーは召使い、クライアントはお客様。 昔は今言われるサーバ

が主人公だった。 クライアントはその下僕。 まさに主客が逆転した。

そして現在、細かなことを知らなくても誰れもが簡単にコンピューターをいじれるよ

になった。 しかしアプリを開発するにはやはりベーシック等の言語を使用してプ

ログラミングを行うようだ。 それは専門家の領域であり、我々使用する側はその

技術を知らなくても快適に利用できる。

 

P3045576 ねこやなぎ

 

この本は空白の15年間を充分に埋めてくれる内容だった。 理解できな専門用

語が飛び交い、理解に苦しむ部分もかなりあったが、1000ページを越る内容を

昔を振り返りながら読みきった。 当時の業界の覇者IBMを向こうに回して、マイ

ロソフトのビル・ゲイツ、アップルのスティーブ・ジョブス、日本ではアスキ西和

彦、ソフトバンクの孫正義、そして彼らを取り巻く有名無名の挑戦者。 メカー

本電気の98シリーズ、富士通FMシリーズ、IBM5501、ソフト分野ではMS/D

OS、日本語ワープロ「一太郎」を開発したジャストシステム等々。 

メモリーが8ビット、16ビットと飛躍したところで本は終了。その後メモリーは32ビッ

ト、64ビットと更に高性能になった。

この変遷をたどれて大変面白い内容でした。

P3045587 しゃくなげ

パソコンと普通に言われるまでになるには、多くの試行錯誤があり、現在に繋がっ

いる。 ここまで機能を高めたコンピューターの発展に寄与した人々は私より一

回り下の世代が中心。田舎のコンピューター技術者がそれなりの頑張っていた時

代に、同世代を含む若者たちがむちゃくちゃに頑張っていたんだな、コンピュータ

ーの大きな変革(社会の変革といっても過言でない)の真っ只中にいたんだと感慨

に耽る。 

個人的にはここまで機能を高めたパソコンにこれ以上の機能を望む気持ちは殆ど

い。もう私には充分です。 時代に遅れないように懸命に頑張ってきたが、さす

がにこれ以上は消化しきれない年代に入ってしまった。 

P3045584_3 ぼたん

過日電車の中で隣に座った女子高生のスマホを横目で盗み見した。 彼女たちは

を見ているのだろう? やはりメールだった。そして見終わるとゲームを楽しんで

た。 私はもっぱら電子本を読む。 他人から見ればあの爺さん年がいもなくゲ

ームをやってるよと見られているのか、それとも年にしては頑張るじゃん、と見られ

ているのか? 君たちが生まれるはるか前にはこれでもコンピューター技術者の

端くれだったんだぞ・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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157-260301橋のデザイン

2014年03月01日 | もろもろ

P1295510 夕日に染まる岩櫃山

・ 

過日のスキーの帰途、八ツ場ダムの関連工事の現場を通る。 ダム本体の工事は

まだまだ先の話だが、やがて出現するダム湖を横断する橋が完成ないしは工事

中。 そしてこれらの橋のデザインが多様性に富んでいる。 あるもの軽快にそして

あるものは重厚にその姿を表している。

 

以下、上流から順次見ていこうと思う。 最も上流に架かるのは典型的なアーチ状

の橋。 これは昔からの伝統的な構造。

P1295485

 

続いて登場する橋は、Y字上の橋脚を持つ、単純明快なそして軽快感を印象付け

る。橋げたは単に板状に見えるごくシンプルな形。

P1295486

 

 

 

3番目は2番目と似ているが、良く見ると橋げたを何本もの鋼索で釣っている。 こ

の左側に川原湯道の駅がある。 歩道もあるので真ん中まで進むとその高さで吾

妻川の様子が手に取るように見える。昨年8月にUPした130号ブログの写真はこ

の橋上から撮影した。

 

P1295487 P1295489

 

 

今度はまだ工事中で橋脚ずっと短くなるが構造的には前の橋と同じか? ここまで

下るとダム完成後はダムの下流となる。

 

P1295491_2

 

 

一番下流が非常に個性的な今まで見たこともない構造で重厚感がある。 上流の

各橋がコンクリートを最小限しか使用していないのに、これはコンクリートの塊。

ごつい作りなのに幅が他の橋より狭い。 おそらく吾妻線が通る橋かもしれない。

それにしては必要以上に頑丈な印象を受ける。

P1295494 P1295499

 

 

 

名勝吾妻渓谷の核心部は北側に開通した2kmのトンネルで通過してしまうので、

以前のように渓谷に沿って道がある光景はなくなってしまう。 ダム完成後は観光

客専用の歩道に生まれ変わる予感がする。

 

ここまで長い時が経過すると地元民は一刻も早い完成を期待していることと思う。

そして新たの観光地として生まれ変わり、長年の問題も一件落着となる。 川原湯

温泉や地元の当事者は随分と振舞わされた半世紀であったことか。

 

 

 

 

 

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