toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

666-060511古民家再生の現場

2024年05月11日 | 街歩き

ご近所でいわゆる古民家再生が進んでいる。想像するに元の家屋は昭和初期に建てられた家で8畳間が

二つのどちらかといえば狭いお家だ。歯医者さんの別宅といった様子だったが、ここ20年は住んでい

る気配はなかった。

 

着手前は庭の木々が生い茂り外部からは家のたたずまいも判らないほどだった。再生作業が始まりやが

て1年になる。遅々として進まなかったがようやく終盤に差し掛かった感じ。散歩のコースなので時に

作業現場をのぞいて職人さんたちとお話しした。

 

施主はあくまで古い昭和の雰囲気をできるだけ残すことにこだわりがあると思われる。放置期間が長か

ったので基礎部分はしっかりしていても、部分的には痛み方も相当だったようだ。こんな純和風の再生

物件はそうはないので、技の匠たちが精魂を込め、施主も工費に糸目をかけず(?)に良質の材を使用

させて傷んだ個所を取替え、雰囲気を損なわない範囲で一部増築をした。

 

腕の良い匠たち、良質の材さらに決して急がせず、こんな条件下での作業に匠たちは楽しみながら作業

しているなと感じる。

家の外壁部分は古色蒼然とした鎧張りの羽目板だった。それを断熱材を挟さみ上部は漆喰の白壁、下部

は厚さ1cmはあるヒノキ節無しの板を使用した鎧張りに全面的に張り替えた。両者の調和が素晴らしい。

この壁、塗装はしないで雨風にさらして自然の風合いを出していくそうだ。

 

ご近所なので完成したら、中を見学させてもらえるといいなと思いながらその時期を待っている。

 

 

 

 

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600-040604小学生のやさしさ?

2022年06月04日 | 街歩き

田植え前の準備のために大量の水が必要となる時期。いくつかある散歩コースのひとつで見かけた光景。

上流15km程の烏川から引水した水は、途中いくつもの堰で旧市街地の生活用水や周辺の農地を潤す。

最下流のここに設けられた円筒分水施設で東西5km程の台地に公平(公平の見える化)に分水される。

説明版には、戦前この時期なると水争いが絶えなかったとある。

更に遡り用水が開発された戦国時代までは、国木田独歩が語る武蔵野の雑木林のような光景が拡がって

いたと思われる。高崎の東に拡がる関東平野の北西端の原野は地形上水に恵まれなかった。

 

分水装置直前の堰に可愛らしい臨時の台場が設けられていた。すぐ前の小学校の生徒のアイデアか?

この春にふ化したと思われるカルガモの幼子が5匹お昼寝していた。

少し離れた堰の梁の上に母親か? 成鳥がその姿を見守っている。

小学生たちも登下校時に見守っているのだろう、こんな優しいことを提案したのはどんな子だろうか?

ほっこりした気持ちになる。

 

今回の投稿で600回となりました。 ここ1.2年投稿内容がお粗末になったなと感じていますが、

もう八十路に入った老爺にはこの程度が精いっぱい。もう少し続けられそうですが今後も見ていただけ

ら嬉しい限りです。

最も愛読するブログ「林住記」の作者八十路真ん中の森生さんも、病気で倒れたらしい。4月末までは

唸るような内容の記事を更新されていのに、5月になったら更新が途絶えてしまいました。お見舞いし

ようもありません。

私の身の上にも十分あり得ることですが、今のところ、こんなことも張り合いの一つにしながら、もう

少し元気で暮らしていけそうです。

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537-021221「竜馬脱藩の道」を車で通過する

2020年12月21日 | 街歩き

何度か取り上げたが、司馬遼太郎著「街道をゆく」も残り2巻となった。今読むのは司馬氏が名付けたか、読者が名付けた知らないが「竜馬脱藩の道」と言われている高知県西部の梼原川に沿った街道。

例によりgooglemapのStreetViewで現地確認しながら読み進める。我が住む関東地方を流れる利根川や荒川とその支流は概ね南か東に流れ下る。ところが四国西部の四万十川、仁淀川や肱川などは山中で複雑に流れの向きを変える。国土地理院1/25000地図で追っていると迷路に迷いこんだ感覚になってしまう。それが地図好きにはたまらない魅力なのだが・・

梼原川もそんな川の一つで中流域の四万十川に流れこむ。現地を辿ってみたいがその気力もない。

この街道の雰囲気に似ているので、当地の神流川に沿って車を走らせてみる。何度も通った街道で十石街道とも呼ばれている。梼原街道をイメージして走れば司馬氏が感じた道の雰囲気の一端を感じられたと思っている。

冒頭の写真は梼原がそうだったように、斜面に張り付いた集落を望む。

 

旧地名である鬼石町から山は始まる。いきなり出くわすのが下久保ダム。高さ130mほどの重力ダムだ。くの字に折れた珍しい形をしたダム。水需要が少ない季節なのかしばらく雨も降らないのにほぼ満水状態。ダム湖の幅が狭まるころ、瀬戸内の島のミニチュアのような光景が現れる。異郷を感じる。

この山間地と万葉集と何の関係があるの? と思わせる名前の道の駅が現れれる。中に入って事情が分かった。ここは現在行政区は神流町となっているが、平成の合併前は万場町だった。万場では知名度が低いので万葉としたらしい。過疎化に悩まされる山村の知恵だなと感心する。

若き頃の二輪愛好者には宝物のようなバイクが停まっていた。英国製トライアンフのオートバイだ。しばらく見とれる。仮面ライダーが乗るようなスタイルでなく、バイクの原点を守った形が好ましい。

旧道のようす。

そして新道。

神流川が小刻みに屈曲を形成して流れ下る。往時の街道(往還という表現がピッタリ)はその川に沿って走っている。新しい道は串を刺すがごとく流れは橋で、尾根はトンネルで直線で貫いている。竜馬脱藩の道をイメージして走るには旧道を探して走らないといけない。

思ったほどではなかったが、それでも往時を感じさせる建物や石垣が残っている旧道は先を急がない旅人には楽しいひと時を与えてくれる。上野村に入ってからはハイウエイのような山村に不似合いの道が旧道とはここで合する。

1kmほどで日航機墜落事故犠牲者追悼の慰霊の園に到着。犠牲者の御霊に合掌礼拝。事故関連の資料館を覗く。遺品の腕時計が3個陳列されている。いずれも6時56分を指して止まっている。見つめているとこみあげてくるものがあった。

この先で道は二つに分かれる。右に1km走り橋のたもとを右折すると新しい湯ノ沢トンネルを通過して下仁田の街へ、更にその先で信越道下仁田インターに続く。高速道に乗れば1時間余で東京の玄関口の一つ練馬出口だ。かっては1日かかっていた上野村に3時間余で着いてしまう。

先の分岐をそのまま進めば十国峠から信州北相木村へと街道は続く。このあたりの雰囲気は梼原街道に酷似する。昨年の台風豪雨の復旧工事で通行止めになっている。

一方その前の分岐で左折すれば、その先は昔の浜平鉱泉、今はしおじの湯と名付けた日帰り温泉施設を通過すると人家が途絶え、更に険しく狭くなった道を進めば日航機墜落現場の御巣鷹山に通じる。1時間はかかろうか? 事故当時はまだなかった日本最大の揚水発電所用のダムがある。県境を挟んで両県に作られたダム間で高低差を利用して発電している。壮大な施設だ。

こうして私なりの竜馬脱藩道の行った積もり体験をしてきた。次回は枯葉舞い散る季節でなく、新緑に埋まった5月に訪れよう。より雰囲気ある旧街道を楽しめそうだ。

*明治17年に自由民権運動に触発されて起こった秩父事件。田代栄助率いる秩父国民党がことならずに敗走した街道でもある。地元の資料館でじっくり腰を落ち着けて調べればどこぞにその痕跡が残っているかもしれない。

 

 

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304-281119この仲間に参加したらこんな栄誉に浴した

2016年11月19日 | 街歩き

  数年前に手にしたときは人の頭くらいだった。

 

この写真に写っているのは間も無く後期高齢者になる中学校の同級

生です。

ここに私も写っています。敢えて指摘はしませんが適当に推量して

ください。

当地を含めた利根川支流の烏川とそのまた支流の井野川に挟まれた

土地は古代水の便が悪く、多分茫々たるススキの原か武蔵野に代表

される雑木林が主体だったと思われれる。ここに上流から分水し堰

が作られたのが数百年昔と聞く。その名を「長野堰」という。

以後原野は開墾されて田になり、中山道の宿場としてまた関ケ原の

戦いで天下の趨勢が決まってからは井伊直政を城主として迎えて町

とした発展してきた。そんな歴史を同級生のN君以下の諸兄が調べ

あげて、昨年来市民に紹介してきた。その功績が評価されてこの度、

世界かんがい施設遺産に登録された。そして市の広報誌の表紙を飾

ことに相成った。

街中を流れる堰。右の茂みが生まれ育った地。こんなに整備はされてなかったが

夏になればこの流れで泳いだ。

今は更に整備された水路だが往時は両岸石垣でうなぎやなまずが生息し

夏になれば蛍が飛び交った。

 

この堰の傍で生まれて、住所は変わったが今もその堰のほとりに住

む者として、この研究グループの末席に加わることとなった。一つ

目的を共有した同期の集まりというのはなかなか珍しい取り合せ

だ。

長野堰は田を潤すほか防火用水として町の通りをいくつかの水路で

貫いている。また城址の堀に水を供給する水路にもなっている。

昭和時代には染物屋さんや鯉池がいくつもあった。子供時分はこの

堰で泳いだ。調べれば調べるほどこの町に深く関わっていることが

解る。広報の表紙写真の前景は江戸時代末期の街を1/2000で再現し

た模型。市役所の2階ホールに飾られて市民に好評だったもの。

 

 

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281-280709時には過去のブログを見たりして・・・(082-241006大関と横綱)

2016年07月09日 | 街歩き

 Pa0132741 台風17号は重苦しい雲を残して東に去った。

本年はようやく台風1号が発生した。猛烈な台風に成長し台湾を狙う。

 

P9243255  VS  P9243252                                        

   正横綱 Y電機の本丸                                    大関 Bカメラの出城 

 

10年の歳月を経て正横綱として押しも押されもしないY電機本丸。 

かたや大関のBカメラの出城。西の横綱を目指して奮闘中。

家電製品の価格を指導するのは、メーカーではなく両巨頭をはじめ

とする家電量販店に完全に移行した。 その横綱、大関がせめぎあ

っている。 創業者は前橋出身のY氏と高崎出身のA氏。

Y氏は本丸を前橋から高崎に移した。 A氏はそれを東京に置き、出

身地高崎に君臨するY本丸から150mのところに小規模ながら出

城を構え続け、出身地の意地を見せる。 この店舗の意義は横綱の

横腹に突き立てた矢かナイフであろうか。

そんな心意気が気に入っている。 少ない売り場面積を有効に利用

し、量的には負けるが、種類は豊富。 そのアキハバラ的な陳列が

好きでこちらを利用する。

A氏が通町に小さな店舗を構えていたのは35年ほど前になるか。 

業界の一方の雄にまで発展するとは思わなかった。 Y氏の店もそ

の頃は前橋の普通の電気店だったと聞く。近江商人は商売上手とい

われているが、伊勢崎出身のBシアのT氏を含め、上州商人もアッパ

レなものである。

流通業界に革命を起こしたダイエーはその巨大さがもたらす重みに

耐えらず、昔日の栄光と過去形で語られることが多くなった。 

両巨頭もその轍を踏まずに発展し続けることは果たして可能か? 

 

以上は平成24年10月に公開したY電機とBカメラの戦いの象徴的

な店舗を紹介した記事です。この間に東芝とシャープの凋落が家電

業界に大きな変革をもたらた。特にタブレット端末やスマートフォ

ンの普及に伴い家庭用パソコンの需要は伸び悩んでいる。中国、台

湾そして韓国勢はいつの間にやら日本に並びそして追い越していっ

た。この分野では追いつくことが不可能な状況に変化した。東芝は

巨額の損失を埋めるために優良子会社の売却や減資を行い、シャー

プは台湾企業の軍門に降った。このほかにもミノルタカメラはソニ

吸収された。日立はパソコン事業から撤退。三洋電機は消滅。産業

用半導体分野でも統合化が加速等々。さらに5年後は業界地図はど

のように変化しているだろうか・・・

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266-280326分岐と同時に合流

2016年03月26日 | 街歩き

 秋の名残のカラスウリとまんさく

 

わが町は古くから街道の分岐点がいくつもあり東西交通の要所と教え

られた。今も前市長時代からの「交通拠点都市」が行政の目標になっ

ている。昔の面影が残るところは少なくなったが。 

中山道と三国街道、左は中山道で碓氷峠に通じる。右は三国街道で三

国峠を越えて新潟に通じている。画面中央に標識があるが目立たない。

子供のころ正面駐車場は黒壁土蔵つくりの薬問屋だった。

 

 

何とか昔の面影が残る分去れ。中山道と例幣使街道が分かれる倉賀野宿。

右が中山道で江戸へ、左が日光に通じる例幣使街道。画面中央お堂の前

に常夜灯が昔の姿で残る。

  

台座には江戸大相撲で活躍した横綱谷風の好敵手雷電為右衛門や柏戸

と読める字が刻まれる。寄進者のひとりだったのか。200年前の文

化XX年と刻まれている。クリックして拡大してご覧ください。古い商

家の大屋根の立派な鬼瓦が往時を偲ばせる。

 

信越本線と上越線および両毛線が分岐するところ。線路は上越線。奥の

高架が旧信越本線、新幹線登場で横川駅止まりとなってしまった。手前

上の暗い部分は上越新幹線。新旧線路がここで別れ合流する。

 

続いては

先にできた上越新幹線(左)から北陸新幹線(右)が分岐するところ。

北陸が上越をまたぐように分かれている。

 

東京へ向かう関越道(右)から長野方面への上信越道(左)が高架で

分岐する。

一昨年のみどりの日の未明、トラックが見えるあたりの上り線で金沢

から東京を目指していた夜行バスが道路側壁に突っ込んで車体が二つ

に裂け7人の尊い命が失われた。向こう側ののり面に慰霊の植樹がさ

れており今でも線香や果物が供えられる。

高崎JCTで関越道から北関東道が分岐する。関越道は練馬からこの先

前橋インターまで3車線の堂々たる高速道。近く最高速度が120Km

になるそうだ。練馬まで順調にいけば50分くらいか。

紹介した分岐のほかに国道17、18号の分岐、JR高崎線と八高線の

分岐など。まさに東西交通がこの地に集まる。

 

日本列島のほぼ中央に位置するわが県、そしてそのまた中央に位置す

るわが町。昔は4~5時間鉄道や車で移動しないと見られないのが海

だった。海洋国家日本の中でいちばん海に遠い内陸にあるのがわが県。

小生、海を初めて見たのが小学校5年生のとき。その感激は60年以

上経た今でも鮮明に覚えている。

街道を利用して多くの人や荷物が集まりそしてさらに各地に散らばっ

ていった。上州に空っ風といわれる畑作中心の荒い風土。江戸時代は

大藩がなく幕府直轄の天領が多い。他国の人々をよそ者扱いしない風

土が出来上がった。総じて上州人気質は、あけっぴろげなところ、あ

まりものにこだわず、執着心が薄いこと、ばくち好きなこと。言葉使

いが荒いこと等々。公営ギャンブルが全部あり、パチンコ製造メーカ

ー上位2社がある。

わが先祖も新潟、長野から東京へそして群馬に生活基盤が移動して本

来この地と縁がなかった家系がすっかりと上州人となってしまった。

人の動きがせわしいためか、はたまた気候によるのか北陸金沢に代表

されるようなしっとりと情緒豊かな都市文化ははぐくまれなかった。

大都市を別にすれば地方でこれだけの幹線交通網が集中し、そして各

地に分岐していく町は珍しいと思う。交通の要所だけに活気のある駅

周辺だが古くからの繁華街はご多分にもれず衰退し、シャッター通り

と化してしまったことは残念。

さらに特筆すべきは大きな災害に縁がないこと。逆に人為的な大事件

はよく起こる。ここ半世紀でも大久保事件、連合赤軍事件、日航機墜

落事故などなど、群馬県警も大変です。

いずれ避けられない首都直下地震の際にはこの安定した地盤が復興に

寄与できるのではないかと思ったりする。

 

 

 

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233-270815戦後70年、これもひとつの歴史

2015年08月15日 | 街歩き

今日は戦後70年目の終戦記念日。 この日の正午にはどこにいても時報に合わせて1分間の黙祷を長年続けています。 

親戚では義理の伯父がアンガウル島で戦死していますが、亡父を含めて5人の伯(叔)父には戦死者や負傷者はおらず

比較的幸運に恵まれた一族なのかも知れません。

 

神社仏閣が100年を越えて存在し続けるのは珍しいことではありませんが、高崎のような商業で発達した街で一般の民

家が100年近く存在するのは珍しいかもしれません。 先日自転車で旧市内の北半分をカメラ片手に探してみました。

 家を出て半時計周りに2時間ほど移動してみました。 最初は末広町の一昔前まで小料理屋だった

家。 元の高崎ハム、現在保健福祉センターがある付近です。小料理屋さんだった時期もあります。

 

大橋町の北高崎駅前の昔学生相手の自転車預かり屋さんです。 大橋町を南北に貫く三国街道には戦前からの建物は

この一軒のみ。

 

請地町に移動しました。 現役の写真スタジオです。 昔は生糸を扱う会社の事務所だったような気がします。小学生時代

この道を毎日通学していました。 右隣には職業安定所があり、毎日職を求めて沢山の人々が列を作っていました。 

 

 そして母校の北小学校の榎の大木。校庭の真ん中に今もシンボルとして旺盛な樹盛を誇っていま

す。 一時衰えたかに見えましたが最近は元気一杯です。 当時から65年経過し、枝の茂りが倍くらいになっています。

 

上和田町に回ります。 典型的な戦前の建物。 今も現役です。少々縁のある方がお住いになっています。

 四屋町の民家。 私の生まれ育った家はこんな感じの家でした。(こんな立派ではありませんが)

 

三国街道が分かれた直後の中山道赤坂町です。 高校時代はこの坂を3年間通って学校に通いました。市内在住の生徒

は運動部以外は自転車通学は許可されませんでした。 自転車通学したいその一心でバレー部に入部ししごかれました。

その割にはあまり強くはなかった。 いい加減な動機の部員がいてはね・・・

  更に坂を下ると古くからの醤油屋さんがあります。 この先に交番があり、中

山道は直角に右折します。 酒造会社の前を過ぎるとまだまだこんな家が残っていました。

 

Uターンして中央小学校の前から坂を登りあげると柳川町となります。 嘉多町交番がありました。交番の角から高崎

神社に向かう左側がすきやきで有名だった信田肉店です。 写真は信田の裏道。 柳川町の花街が盛んだったころは

芸者さんを抱える検番があったところです。 大正昭和の雰囲気が一番濃厚に残っている路地です。

 本町(もとまち、ほんまち、ほんちょうと各地でいろいろ呼ばれますが高崎はもとまち)は道が広が

り昔の面影は殆どありませんが、一つ裏道に入るとありました。 原田産婦人科の建物です。今は閉鎖になっています

がこのあたりには同級生が沢山いて、よく遊びました。 昭和初期のモダンな建物で保存状態が大変よろしい。

 

山田町には私のブログに何度も登場した品格ある古民家があります。 

 

高砂町の五本辻。車が顔を出している道はさほど古くはありませんが、写真手前から伸びる二本の道は明治初期の

地図にも乗っている歴史ある道です。一本は芝塚町を経由して前橋に続く道。一本は江木村を経由して京目方面に

通じています。 明治大正期はこのあたりが市街地の東のはずれ。

 

 長野堰に沿った道にある民家。江木町でも一番古い家ではないでしょうか。

以上かけ歩いて大正昭和の雰囲気を残す家を見て回りました。 機会があれば今度は南半分を探して見たいものです。

 

なお掲載した写真は古さを強調するためにセピア色に加工してみました。

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195-261122高齢化率の高い町が新築ラッシュ

2014年11月22日 | 街歩き

 なにやら意味ありげな空間。 六本木ヒルズ展望階の一角にて。 

私の住む町は町内の規模としては小さい。 ご他聞にもれず高齢化率が相当に高い。 おそらく

50%を越えるのではないか。 駅に徒歩15分。うまくいけば家を出て1.5時間で東京駅に到着す

ることもできる地の利を持っている。 にもかかわらず高い高齢化率はどうしてなのだろうと考える。

 

町内のほぼ真ん中に3反歩ほど農地が2年前まで残っていた。 そこが夏から宅地化されて土地分

譲され、10軒分の住宅地が生まれた。 住宅展示場さながらにいくつものメーカーの手になる住宅

が作られている。 どんな住宅地になるのか他人の家なのに興味津々。 朝、新聞を取りにいくつい

でに進行状況を確認に行く。

年が変われば、ここに若い世代が子供をつれて住むことになるだろう。 そして高齢化率はずっと下

がると思われる。 小学生の町内対抗の運動会に子供が集まらずに他の町内と合併チームで出場

することもやがてなくなると思う。 私らが子育て時代のような活気が戻ってくると期待している。

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188-2601004いつも診てもらう内科クリニックより立派だ

2014年10月04日 | 街歩き

  黄色と黒のコントラストは一番目立つ

 

仕事場からの帰り道、一ヶ月ほど前から工事が始まっていた。 個人の住まいに

ては大きいな、と思っていたら、動物病院が開業した。

 

普段お世話になっている内科医院よりも建物は立派です。 

ほんの少しの間子供にせがまれて犬を飼ったことがある。 40年も前か。 残り

に味噌汁をかけて犬の食事とした。 何度かは肉か残った魚をやった覚えが

ある。あの当時それが犬を飼う人の常識だった。 現代のペットはそんな食事に

は見向きもしないという。 栄養たっぷりの専用食が用意されている。 注意して

見ればメタボの犬も多い。

 

お犬様も具合が悪くなれば病院(?)を受診する。 聞い話だがペット専用の透

析治療まであると言うではないか。 ついにここまできたか・・・

 

さてこの動物病院の先生は獣医師だと思う。 彼は馬や牛は診察しないのだろ

うか? この瀟洒な建物に馬、牛や豚が連れてこられても診られないよね。

将来においても、馬・牛科、豚科、鳥科なんてことにはならないだろう。 なぜな

ら彼らは家畜であり、治療の受け方は在宅診療(?)が基本です。 病が重くな

れば獣医さんが向うから厩舎まで来てくれます。 訪問診療です。

 

私は特に犬が苦手です。 ほんのチンコロでも吼えられると逃げ腰になる。 

今年も熊が里に出没する。 2mほどの丈夫な樫の棒を手にしていれば一人で

熊に対峙できるか? 襲いかかる熊の喉辺りを冷静に突きまくれば退治できる

かも。 ところがこんなときは冷静にいられるはずがない。時代小説の決闘の

場面、切り倒す側はなんと冷静に相手をみていることか。

 

 

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160-260322県内にも宇宙関連産業があった

2014年03月22日 | 街歩き

 

 

 

P3165649    P3165651_2    P3165647_2   

下仁田町虻田地区に早春を訪ねる。 定年退職後、この地区で田舎暮らしを続けている高校の同級生KSD君を尋ねるも留守。 26.3.16撮影

このマークを付けたマイクロバスをここ数年、駅東口や国道18号線でよく見かける。

 

 

P3125597

 

 

 

 

IHIとは昔の石川島重工業と播磨重工業が合併して出来た会社。

 

Ishikawajima Harima Industry の頭文字をとったのだろう。 県道板鼻富岡線

富岡に向かい峠を越えて間もなくの左側に大きな工場が見えてくる。 もともとは

産自動車の宇宙開発事業部として建設されたもの。 日産の業績が落ち込んだ

時にIHIに事業売却を行ったと聞く。

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何を作っているのか細かなことは知らないが、種子島宇宙センターから打ち上げら

るH2Aロケットの重要なある部分を製造しているらしい。 見かけたバスは東京

から新幹線通勤する社員の送迎用のバス。 乗る社員の横顔が最先端の宇宙技

開発に携わる誇りに満ちていると見えるのは褒めすぎか?  IHI Aero Space 

マークが田舎には不釣合いに格好いい。

そして今シーズン3回目のスキーは、絶好の練習ゲレンデ湯の丸スキー場。 例に

り広いスキー場を独り占め。 天気は良かったがこの時期特有の春霞がかかり、

アルプスは見えなかった。

 

 

 

 

 

 

P3125600_2 山ガールに人気の湯の丸山(右)と烏帽子岳(左)を眺め、抜群の雪質を足に感じながら気持ちよくロングターンする。 重心がきちんとスキーに乗っていると疲れることもない。 画面の人物は私ではありません。

 

 

 

P3125603_2 P3125601

これも人気の山。 唐松林の合間から望む、左は篭の登山西峰と東峰。 右は四阿山。

 

ここ数年人気のあるスノーシューを履いて、鹿や野うさぎの足跡のほか何もない雪

原を歩き回るというのもスキーにはない楽しみがありそうだ。

 

 

 

 

 

 

P3125609 帰途御代田町の黄檗山普賢寺に立ち寄る。 一月前の豪雪はいまだ豊富に残っており、本堂裏で住職が懸命に雪かきをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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113-250504昭和初期の一般住宅

2013年05月04日 | 街歩き

P4234618 P4234625 今年もたくさんの桜を愛でることができた。 シーズン最後に沼田市発知の無名の古彼岸桜を見てくる。 この桜は緩やかな棚田のあぜ道に群れずに孤高に咲く。 案内板も説明板もなく ”知る人ぞ知る” 山村の風景に溶け込んだ姿が好ましい。 樹形の素晴らしさはいままで見た中で一番。

 

 

 

高崎の街はここ10年間で何棟ものマンションが立ち並び、子供の頃の光景がすっかり様変わりしてしまった。 だが仔細に見て回ると懐かしい家並みが残っているところがある。

山田町や竜見町の一部など。 近代的な町並みに変貌したことは非難されるべきことではないが、加齢と共にこんな風景出くわすと懐かしさがこみあがってくる。こんな造りの家はほとんどなくなってしまった。 我が生家はこんな感じの平屋だった。 跡地は今駐車場になっている。

Img_0684Img_0685

この時期の住居に共通しているのは、当然土壁であろうが、その上をスギ板を横に並べて貼り付けてある。 アルミサッシにペアガラスなんて縁のない時代。 もちろん外断熱だとか内断熱だとかは考慮されていない。 

Img_0687 Img_0692

土壁に白の漆喰を塗り、黒い柱と柱の間を埋めた家のたたずまいは風情があり、見た目は大変好ましい。 住み心地はどうだろうか? これらの民家に共通しているのは、柱とはりが堂々としていること。 100年経った農家の構造もそうだが、シロアリにさえやられなければまだまだ健在。

したがってこうした古民家を解体して移築し、優雅な雰囲気に親しもうとするお金持ちがいても不思議はない。 上右の住宅は北陸地方のとある場所から数年前に移築したものと聞く。 移築中はお寺さんができるのかと思っていた。 駅東口から近い住宅地に古民家の外観と現代の設備が組み合わさって再現した。

 

 

 

 

4月29日に昭和の日の式典があった。 菅官房長官の式典終了の挨拶の後に式次第にない椿事がおこった。 会場の誰かが「天皇陛下万歳!」と叫んだ。 安倍総理、麻生副総理以下参列者の大多数がその声につられて三唱したという。 陛下ご自身は大いに戸惑われたのではないだろうか?

地方巡幸での沿道からのそれは特に云々すべきものとは思わないが、国主催の公の式典で万歳三唱が行われたとなると、これは問題だ。 周囲が万歳を叫んでいる中、瞬時に疑問をいだき一人黙っているのは難しかったのだろう。 連られてという表現がピッタリであり、多くの人には他意はなかったと信じたい。

先の大戦では多くの兵士が特攻や玉砕でこの言葉を叫びながら突撃し死んでいったという。 結婚式や選挙当選者の万歳三唱とは同じでも、天皇に対してとなるとその持つ意味は重く深刻である。

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112-250427曳き屋の現場を通りかかる

2013年04月27日 | 街歩き

P4154555 P4154553 樹木や草花の春の生命力には毎年心を打つものがある。 左はブナの豪快にして繊細な芽吹きと今年も楽しませてくれた藤の花。

倉賀野宿は中山道50数宿の中でも、かなり繁栄した宿場。 30年前には旧家がいくつも残っていて、往時の雰囲気を残していた。今は数えるほどしか残っていない。 その中に本陣(脇本陣か)の一部が昔の姿を残している。建物と往還をはさんで反対側の石碑。

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先日所用で通りかかったら、この歴史的建物に工事の手が入っていた。 ついに解体かと思いきや、これが珍しい曳き屋。正確にいうと建物全体を材木、鉄骨と油圧ジャッキを使って家全体を均一に持ち上げ、土台を作り変えている。

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途中までの工法は曳き屋と同じ。 曳き屋ならば持ち上げてその下にレールとコロを置き、ワイヤを使って引く(曳き屋の名の由来か)。 

高崎神社前の浄土真宗「覚法寺」は道路拡張のために、本堂を曳き屋をし、移動しかつ向きを正反対にした。 何事もなかったように納まっているが、この本堂にはそんな歴史がある。

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歴史的価値のあるものでないと曳き屋はまではしないと思う。 宿場町倉賀野の象徴的な家屋であるがゆえに、こうした工法で更に後世に残そうということなのだ。 この費用はどこから出ているのか? 所有者個人の財布からではないだろうと、余計な心配をしながら一回りして写真に記録した。

 

 

安倍政権と黒田日銀が協調して打ち出した景気刺激対策。一口に言ってしまえば世の中に異次元のお金を放出すれば、国民の気持ちが明るくなり、それが経済を活性化させ、適度なインフレ感は景気上昇につながる。その目安が2%といったところか。

といわれても心配は尽きない。 本当かいな? 社会現象は筋書き通りにはいかないものだぜ。

バブル崩壊やリーマンショックで痛い目をみたことを反面教師にし、賢者たちがうまく舵取りをするだろう。

片や歴史は繰り返す。 必要以上の金融緩和は必ずやしっぺ返しに見舞われる。 過ぎたるは及ばざるがごとし。そのとき人間はそんなに賢明には振舞えまい。 今回の措置で手段は皆使ってしまった。 とっておきの手段はもう殆どない。 そして借金大国日本はギリシャの運命をたどる。 膨大な借金は今の若者たちにしわ寄せされる。 なんとしても前者であって欲しいが・・・

円安は進み、株価は上昇してきた。兵力の逐次投入は稚拙な戦術といわれる。小出しの政策ではいつまでたっても閉塞感から脱却できない。 これもまた正論。

アベノミクスの政策の方向性は正しかったか否か?  その回答が出るのは1年後だ。 正しければ総理は歴史に名を残す名宰相となる。

 

 

 

 

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108-250330M本酒造解体作業

2013年03月30日 | 街歩き

 

 

 

 

Img_0622 Img_0619 代表的な雑草(野草)である「ほとけのざ」の花。一つ一つは小さくて地味なものだが(マクロで撮影すると雰囲気が変わる)、こうして集団で咲きそろうと、なかなか見事な花の群落になる。 安中市高別当にて。

酒が飲める体質に生まれたことに感謝している。 普通に入手できる酒は一通り飲んだ。 飲みすぎて馬鹿な体験やら失敗もあった。 ここ数年は落ち着いた気持ちで純粋に酒を楽しむ。   

結局日本酒に落ち着いた。 毎晩一合の熱燗。 家庭用の一合徳利だから、料理屋の二本弱に相当する量か。 これ以上は飲まない。どうしても飲みたいときは徳利に白湯を入れてお猪口で口にすることが暗黙の約束。

酒なら何でも良かった若い頃、日本酒といえば全国銘柄の月桂冠、松竹梅、剣菱や白鶴などが酒だと思って何の疑問もなかった。 今は違う。 日本酒は地酒を味わうべきだ。 個性が際立つ。 

 

全国銘柄に比べると一升瓶で3~500円ほど高いが、この価格差以上の満足感を得られる。 

群馬の地酒は大間々の「赤城山」、吉岡の「船尾滝」、倉渕の「大盃」や藤岡の「巌」、川場の「水芭蕉」などなど。 これらを順番に飲む。 夕飯時が待ち遠しい。

ところでこの業界も淘汰の波にさらされているのか?  前橋市駒形町のM本酒造の工場解体現場を通りかかった。 杜氏が活躍した大きな仕込タンクが放置され、重機が入って解体の真っ最中。 年季の入った建物が壊されていくのを見るのはつらい。 ここの酒の銘柄は知らない

 

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県道からは解体中の倉庫の屋根しか見えず。 中に入ると瓦をはがされた屋根。 崩壊した土蔵の壁。 酒造会社の工場内には工場特有の発酵菌が住み着いていて、これが独自の風味をもたらすと聞く。 この無残な土蔵に住み着いていた発酵菌はどんな酒のもとになったのだろうか。

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解体された釜と煙突。 醸造米はここで炊かれ、大きなタンクに移されて杜氏の持つ棒で攪拌され酵母の作用で原酒になっていった。 醸造タンクがむなしく放り出されている。    

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100-250202この町内住民のセンスの良さ

2013年02月02日 | 街歩き

 



P1204088_2寒さにちじこまって季節の到来を待つ「みつまた」のつぼみ



P4031444 春きたりなば・・・



火曜日は一般ごみを集積場に出す日。 時間ができたのでごみ出しはもっぱら私の仕事。 特に苦にはならないし、そのくらいは手伝わなければと思っている。 当市はごみの分別基準が比較的ゆるく、中が見えれば所定の袋を使用しなくても回収してくれるので助かる。



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各町内でいろいろな集積場所が指定されている。 私の町内は何故か電信柱の根本に集めることになってる。 ごくありふれた集積場所である。



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上のこの写真をご覧ください。 電柱はごみの集積場所のためにあるのではないぞ・・・根本を避けてかくのごとくきれいに一線に置かれている。 量の多いときは多分複線になるのでは。 町内の住人のセンスの良さがうかがわれる。 集める皆さんも乱雑の置かれた場所よりもこんな整然と並んだ場所から収集するのは、気分が良いのではないかと想像する。

大変な仕事だが住民の声なき感謝の気持ちが通じるのでは。 昔の言葉に「篭に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」というのがあるが、いろいろな役割を担ってくれる人々が居ることで社会生活が成立している。 ごみを「護美」と表現しても気休めに過ぎないが、最初の人がきれいにすれば、後の人は真似る。 公衆トイレも然り。 誰だってきれいなほうがいいのだから。



我、タバコのポイ捨てをやっていないか・・・・反省

そろそろタバコを断つか。 半世紀にわたり充分に煙を吸いそして吐いた。食後の一服に何物にも変え難い満足を味わったし、ストレス解消にも役だった。 残りの人生で煙と縁を切った生活とはどんなものなのかを体験してみよう。 もう手遅れかもしれないが・・・ トレーニングジムで体力維持を、あわよくば向上を決意した者がタバコを吸っていてはシャレにもならない。

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093-241222使い込んだ機械に感動

2012年12月22日 | 街歩き

Pc140910 師走の田んぼは、きれいに片付けられて春までの眠りに入る。(安中市下秋間にて)

近所に個人でやっている豆腐屋さんがある。 ほとんどがスーパーで買うのが普通の豆腐だが、料理に使うから買ってきてと頼まれる。 歩いて3分のところなのでこのお店に行ってみた。

そこで油揚げを製造する機械を目にする。 店主に聞いたら50年間使い込んでいるという。 大量の食用油を使用するのでその油が装置にこびりついてご覧のような状態。 磨きこまれたSLの動輪とは大違い。

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油揚げが並ぶ部分の毎日の手入れと年に一度分解掃除をしてきたが、モーター、チェーン部分やガスバーナー部分などは飛び散った油がこびりつき、装置と一体となり掃除のしようがないという。 それでも50年間故障もせずに使い込んでいるんだよ、との話。

ここまで使い込むともう感動もの。 私も比較的電気製品や車を長期間使うほうだが、50年間使ったものはさすがにない。 

機械が故障する原因は ①電気接点の接触不良 ②ねじの緩み ③回転部分の潤滑不足 そして④錆の発生 この4つが8割いや9割以上を占めると思われる。

このロートル機械は大量の食用油を使用しているので、③と④とは無縁であろう。 ①の接点といってもICチップを使用しているわけではないので、モーター部分の電気抵抗の増大くらいしか考えられない。 ②にしてもこれだけの油が固着してしまえば緩みようがない。 多分店主は店をたたむまで使い続けることだろう。 それはそれで素晴らしいことだ。

 

衆議院選挙では野田氏率いる民主党は惨敗してしまいました。総理の決断を評価したのですが・・・  安倍さんの積極的な景気対策に期待すると共に、民主党には野に下るのを機に、まとまりのある党への再建に頑張って欲しいものです。

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