toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

231-270801毎日が日曜日の2ヶ月が過ぎて??

2015年07月27日 | もろもろ

  行田市の古代ハス公園にて。

 

真夏の寝苦しい夜が明け、今日もまた睡眠不足気味の目覚め。 シャワーでも浴びて頭をスッキリしようと風

呂場に駆け込む。 2ヶ月前まではそれから朝食となりあわただしく仕事に行かねばなりませんでた。 昨日

の仕事の続きを今日はどういう順番で手をつけるか、職員同士や客先とのトラブル、資金繰りは? こんなこ

とも考える必要が無くなって2ヶ月が経過しました。 まだ初めて体験する環境への新鮮さが頭に残っています。 

現役時代は懸命に仕事をしたんだと考えていましたが、振り返ってみると大したことはやっていなかったような

気がします。 猛烈には仕事に没頭しておらず頭の中が100%そのことばかりでなかったがゆえに、対極的な

環境への軟着陸ができたのかなとも思います。

人生を3つに分ければ、勉学の時代、仕事を通じての社会への貢献時代そしてそのごほうびとも言えなくもない

これからの時間を有意義なものであったら・・・

 

さて、先週月曜日のNHKテレビで埼玉県加須市の休耕田を利用したホテイアオイの花の群落が紹介されてい

ました。 布袋さまのお腹のように茎の部分が大きく膨れた水草です。 金魚屋さんで入手することができ、水

槽に浮かべて楽しんだあの植物です。

 

今は予定に束縛されないので、翌日現地に行って見てきました。 途中行田市の古代はすの公園に立ち寄りま

したが、残念ながら盛期を過ぎていていました。 最後に咲いていた花が冒頭の写真です。 古代ハスと銘打つ

からには有名な大賀ハスでしょうか。 花オンチには今回初めてハスと睡蓮の区別ができました。

テレビの画面ではこの3倍の花があったような気がします。 隣接する道の駅の売店で聞いたら、朝に花をつけ

夕方にはしぼんでしまう。 明日どれだけ咲くかは夜が明けてみないとわからないのだそうです。 ただ九月まで

次々と咲いてはしぼむので花の期間は長いようです。 お客さん、運が悪かったねと慰められました。

上部に写っている土手は利根川の堤防です。 このあたりがカスリーン台風で決壊し、埼玉県や東京都が水に

浸かったようです。今はどう考えても決壊しそうにないほどのスーパー堤防になっており、付近は記念公園になっ

ています。

 

 

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230-270725古希越え男性合唱団

2015年07月25日 | もろもろ

   夏の花(東京深大寺にて)

沼田の旧知の方からのお誘いで、平均年齢が古希を越えた15名ほどの男性合唱団の公演を聴く機会

がありました。 勿論アマチュアの皆さんです。 右から4人目の方が知人です。肝腎の公演場面の写真

が電池切れで撮影することができませんでした。 プログラムの表紙でご容赦ください。

音楽にとんと疎い私ですが、合唱の素晴らしさに圧倒されました。 磨きぬかれた人の声は最高の楽器

であると、どこかで聞いたか、読んだ記憶があります。 どんな素晴らしいCDプレーヤーでもこの迫力に

満ちた生の音を再生することは難しいのかも知れません。 去年まで右耳しか十分に聞き取れなかった

私の耳が今年1月の鼓膜再生術で左も聴こえるようになったのも理由の一つかも知れません。写真右か

ら4人目の方が知人です。

   当日の披露された曲一覧。 オープニングの『いざ起て戦人よ』が特に素晴らし

いハーモニーでした。 その後知ったのですが男声合唱団の定番の歌曲なのだそうです。

 

全く楽譜が読めない私は、小中学校の生徒時代の音楽の時間で2部合唱というのが苦手で、どうまじめ

に取り組んでも主旋律に引きずられてしまい、合唱の役目を果たすことができませんでした。 多分今も

駄目でしょう。 テナー、バリトンそしてバスの三つの旋律が融合し、ボリューム感あるまとまった歌曲とし

て歌われる。素晴らしいものです。 こんな文化的香りの高い老後をおくれる方々に乾杯!

 沼田城址(現沼田公園)にある鐘楼。

 

縁があって沼田の地に度々仕事でも遊びにも出かけることの多かった20年です。 沼田は来年の大河ド

ラマの舞台になります。 眞田幸村です。 幸村の兄信之は父と弟と袂を分かち、関ヶ原決戦を契機にし

て徳川方につきます。 大阪夏の陣で幸村も奮戦及ばす豊臣方は敗れ彼も戦死します。 この幸村の兄

信之が築城したのが沼田城です。 徳川幕府の初期に何らかの問題が起こり、取り壊されてしまいました。

五層の堂々たる天守閣だったようで、もし残っていれば城址の地形をも考慮すると国宝級の城として沼田

の名声を高めたでしょう。 郊外に出るとこれまた秀吉全盛期に小田原北条氏を壊滅させた原因の一つに

なった名胡桃城址の掘割等の遺構が残っています。 群馬県でも小さな市ですが、文化的香りのする街

です。

 

 

 

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229-270718近藤勇、土方歳三が京へ、和宮が江戸へ向かった街道

2015年07月18日 | もろもろ

 夏の朝(埼玉県神川町にて、度々走るサイクリングコースの途中の池にて)

 

時計の針を半世紀逆に回すと、群馬の一地方でも随分と雰囲気が変わるものです。完全に歴史上の一こまに変化してしまいます。

 

 

                               同地点から松井田方面を眺める。

中山道の安中宿と松井田宿との間に、郷原という村落があります。 この写真はその郷原を東西に貫く昭和38年頃の中山

道です。時代劇映画が撮影されているところと聞いています。 右の板塀は知人の家です。 白いシャツ姿の青年が見える

ので、侍の時代ではないことは明白です。 昭和38年といえば東京オリンピックの前年今から51年前です。 東京はオリン

ピックを控えて大改造が進んでいた反面、ちょっと田舎ではこんな江戸時代を彷彿させる光景がまだまだ一般的だったので

す。 家々の屋根は瓦でなくまだ檜か杉の板葺きだったんですね。

街道の家並みは幕末から明治中期にかけての建築のようです。 正面の民家が本家、板塀は新宅、共に中に入ると太い柱

と梁が黒光りしていて、まさに世界文化遺産の養蚕農家の典型です。 骨組みががっちりできていれば家は優に150年持ち

ます。

 

写真の時代まで幕末から100年、 それから50年経過して今があるわけです。 高度成長時代はこの写真の頃から始まっ

たわけですが、なんという急激な変化を日本は成し遂げたのでしょう。 いつもこんなことを考えます。 江戸時代に生まれた

人は社会の変化はともかく、生まれたときの生活環境と亡くなる時のそれとは殆ど変化がなかったと思います。 それに引

き換え私の世代は生まれて頃は写真のような環境、そして今は・・・。   こんな変化の激しい変化の時代を生きて体験した

世代は日本の歴史上なかったわけです。 貴重な歴史体験をした稀有の世代というと誉めすぎか?

 

この往還(街道筋の人は中山道のことを今でもそう言います。 とてもいい言葉です)を、皇女和宮がお籠に載って江戸へ向か

い、策士清川八郎率いる京都警護の浪人が隊列を組んで京に向かいました。 その後この隊列の中から新撰組が登場し、一

定の役割は演じましたが、大きな時代の流れの中で消滅します。 明治維新を迎え, 人気者土方歳三は函館で壮烈な戦死を

遂げます。 

「土方歳三」の画像検索結果土方歳三。  男前ですね。   Wikipediaより拝借

彼もまたこの石ころ道を踏みしめて京に向かったと思うと何か歴史が身近のものに感じられます。

 

6月になって、愛読している皆さんのブログに沢山のアジサイが紹介されていました。 北海道は知りませんが、

日本各地でアジサイの名所が沢山あることを改めて知り、桜と並んで国民的な花だと思いました。

 

 

 

 

 

 

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228-270711浅間山でふとどきのことをしたっけ・・・

2015年07月11日 | もろもろ

 一晩中降り続いた雨が朝にはやんでいた。 

 

東日本大震災以後、日本各地の火山の活動が活発になっているようです。 当地にも火山警報が発令されている活火山

が2山あります。ひとつは草津白根山、ひとつは浅間山です。 過去両方の山に登っています。特に浅間山は3回その火口

まで登りました。

15年以上前のまだデジタルカメラが普及し始めた頃のものです。場所は軽井沢の西の御代田から撮った南面です。 

警報レベル2で火口周辺2kmは立ち入り禁止となっています。 このときもそうだったようで噴煙が季節風に流され

東にたなびいています。 現在の状況もこんなものではないでしょうか。 梅雨空が続きはっきりとは確認できませんが・・・

 

      小諸出て見ろ 浅間の山にけさも煙が 三筋(みすじ)立つ

      ここはどこだと 馬子衆(まごしゅう)に問えば
      ここは信州 中山道
 
      浅間山から 出てくる水は
      雨も降らぬに 笹にごり
 
      黒馬(あお)よなくなよ もう家(うち)が近い
      森の中から 灯が見える
 
 
民謡「浅間馬子唄」 に歌われているように、この程度の煙が立ち上っている状態が普通であり、近年は不気味なほど
 
おだやかな状態が続いていました。私が登ったのは昭和35年から40年にかけての時期です。 当時は火山警報など
 
なく、したがって、噴火すればともかく多少の噴煙では怖いもの見たさで登ってしまったものです。
 
 
2回目に登った時だと記憶しています。 午前3時に小諸駅からかなりの道のりを踏んで正午頃頂上に着きました。 噴
 
煙はあまりなかった。 そこで私は尿意を我慢できず、火口に向かって放尿してしまいました。 火口の底は噴出した硫
 
黄で岩石が黄色く染まっていました。 東側の斜面を降り、峰の茶屋経由で信越線沓掛駅(現中軽井沢駅)まで戻りまし
 
た。 そして2ヶ月程後突然噴火したのです。 そのとき運悪く火口にいた登山者が噴火に巻き込まれてどこかに飛ばされ
 
て行方不明となったとの新聞記事が今でも頭に残っています。登山の原則「自己責任」そのものの結果です。 この山の
 
溶岩は粘性が高く、爆発的な噴火になるブルカノ型噴火と言われているとWikipediaに説明が載っています。 国鉄時代
 
の信濃追分駅の改札口に噴火したときの写真がありました。 噴火口の直径(300mくらいか)を超える太さの噴煙の柱が
 
天を突き、それはすさまじいものでした。
 
神聖なるお山が私のふとどきな行為に怒ったのだと思ったものです。 今考えれば冷や汗もの。
 
 
 
一番お気に入りのパルコール嬬恋スキー場から見た冬の浅間山の北面です。 天明の大噴火の際の火砕流の跡がはっきり
 
と残っています。何もなければ穏やかな女性的な山容です。 これ以前は滑らかな山肌だっただろうと想像されます。
 
 朝日に染まる浅間山の噴煙(東面) 
 
 
18世紀後半、今から250年ほど昔、大爆発し鬼の押し出しを形成し、北斜面の村々が火砕流に飲み込まれ、その勢いは吾
 
妻川から利根川中流まで押し出したといわれています。 その痕跡は吾妻川の各所に今も残っています。 その上噴煙は成
 
層圏に達し、太陽光線をさえぎり世界規模で冷涼な時代が続いた。 その冷涼な気候は農産物の減収をもたらし、フランス革
 
命や天明の大飢饉他様々な歴史が変わる遠因になるほどだった、とこれまたWikipedia に書かれています。
 
計り知れないエネルギーを持った恐ろしい火の山なのです。

 

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