世に歴史小説好きは大勢いる。 私もその一人。 時代の波に翻弄され、人を使う
ことの難しさ、業績を上げることに疲れ、振り返って何であの時に・・と思う。 それ
が人生さと悟り済ましたようなことをブツブツ言いながら納得させる。 それでも
何とかやってきた人間が現役と別れを告げ、ゆっくりと本を読む時間を手にした。
日本史を彩る人物に自分の生き様を重ね合わせて振り返ってみる。 こんな時間
が持てることが幸せなんだよ、と言い聞かせる。
このあたりで鉾を収めるのが人間の持って生まれた器の限界でしょう。
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いろいろと歴史上の出来事を頭に叩き込むと、次に彼らの舞台を訪ねてみたいと
いう気持ちが強くなる。 まとまった5日間ができたのでその旅に出かけた。
旅の一番の目的は織田信長が中世の倫理観を越えて、新しい時代の到来を誇示
すべく築城した安土城の跡地を訪れてみることだった。
以下3回に分けて旅行記というほどのこともないが書いてみる。
初日は日本海に沿い北陸地方を西に進む。 親不知の険。 北国街道、北陸本線
そして北陸道が急峻な地形を避け、トンネルでここを通過する。 これほどの地形
とは知らなかった。 その昔旅人は潮が引いた僅かな時間に急いで渚を通過して
いったという。 そんな瞬間があるとは到底思えない程の急傾斜と波。
親不知のSAから眺めた日本海(左)。 かすかではあるが佐渡や能登半島の山
並みが見渡せる。 日本中どこにでもある平凡な海岸は間もなく様相が一変する。
親不知の全景を見渡せる場所から眺める(右)。 陸地は日本海から垂直に近い
角度でいきなり立ち上がる。それはそのまま長大な県境尾根を形成し、尾根を登
りに登ればやがて北アルプス北端の白馬岳(2932m)に立つことができる。 途中に
平地は全く無い。僅かな地形をくり抜いて3本の幹線が通過する。
このSAの食堂のたら汁は絶品でした。
その一つ。 北陸本線の旧線路が走っていたトンネル跡。明治末期の建造とあ
り、東京オリンピックの頃まで使用されたと書いてある。
海岸線まで急な崖を降りると、豪快に打ち寄せる波が砕け散る。 冬の日本海は演
歌にも歌われているが、もっと壮絶な光景だろう。 こんなきわどい海岸べりを京
都から奥州に向かう義経、弁慶の一行が800年の昔、通過していったのか。また
謙信が織田方が占拠する越中へ派遣した軍勢がこの隘路をどうやって通過した
のか? 少人数ならばまだしも、軍勢というからには少なくとも千人を越える規模
だったと考えられるが・・・
上杉謙信が越中に軍を進めた際つくった漢詩。
九月十三夜陣中作
霜軍営満秋気清 (シモはグンエイにミちてシューキキヨし)
数行過雁月三更 (スーコーのカガンツキサンコー)
越山併得能州景 (エツザンアワせエたりノーシューのケイ)
遮莫家郷遠征憶 (さもあらばあれカキョーエンセイをオモう)
30年前、社命(???)で詩吟を習った。 その時この詩は吟じていてとても
良い気持になったのを覚えている。
更にトンネルばかりの北陸道を西に進み、砺波平野に出る。 蜃気楼を期待して
魚津の海岸に出てみた。 沢山の見物客がその現象を待ったいた。 しかし地元
のボランティアガイドは天気が良すぎて今日は出ないだろうという(左)。
1時間粘ってみたがそのとおりだった。あきらめて先を急ぐ。振り返れば立
山、剣岳の前山が豊富な残雪をまとって連なる様が目に飛び込んでくる(右)。
木曽義仲がツノにたいまつを結んだ多数の牛で平家の軍勢を蹴散らしたという倶
利伽羅峠を過ぎると金沢は間もなく。
加賀百万石前田氏が作ったご存知兼六園。 4回目だがいつきても絵葉書です
ね。 年齢からいって、もう次はないだろうと思うと見るほうも真剣になる。
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