まろやかな暖かさが素晴かった。
亡母の遺品の中に父親の結婚前のものと思われる山日記があった。
1939年(昭和14年)に日本山岳会が岩波書店を通じて発刊したも
の。
父親は大正元年生まれなので、この年29才か? 母親と所帯を持った
のが翌15年と聞いているので、独身最後の年となる。カバーの裏面(右
の小さな部分をクリックすると読める、以下同様)にマッターホルン南東
稜を史上最初に登ったり、ヒマラヤのマナスルに初登頂した際の日本隊隊
長だった槇有恒氏の序文があって、思わず手に取って読んでみた。
巻末には日本の近代的登山の黎明期に活躍された有名な先達が理事とし
て名を連ねている。私がその紀行文を読んだ数名の方々の名前もあった。
田部重治氏や冠松次郎氏の本は素晴らしかった。初期の南極観測隊隊長
西堀栄三郎氏の名前もある。この方々の本を読むと山が持つ懐の深さを
感じさせる。登る技術を語っているのでなく山と同化してしまうような
内容だ。100名山の深田久弥氏の文章よりも更に山の神秘性が漂う。
山好きな父親だったと聞いてはいたが、戦後まもなく病魔に侵されて家
で療養していたので、私には元気な父親というイメージはない。中島飛
行機製作所の関連企業の技術者だったので幸い兵役を免除されていた。
日中戦争はすでに泥沼化しており、日米開戦もまじかに迫った時期にも
関わらず好きな山登りができたのだろう。
山行の記録が技術者らしい几帳面な字で書かれてあったので以下2回に
分けてブログとして日の目を見させてやろうと思う。おやじの死後60
年が経過したが供養になればと思う次第。
開通後間もない上越線で沼田に行き、この時代ならバスの便があったの
だと思うが、尾瀬沼湖畔の長蔵小屋まで行っている。先々代の長蔵氏の
時代だろう。
余程の山好き以外はまだ尾瀬には入らなかった時代なのかなと思う。
どんな格好で山に入ったのか? 多分古い背広あるいはチョッキ、足は
ゲートル巻きといったものではなかったろうか? もう想像するしかな
い。同行者がいたのか否かもはっきりしない。
80年後の現代を生きる私は日記をはじめ写真の保存や手紙の類を殆ど
パソコンで済ませ磁気媒体ないしは最近流行のクラウドを利用して保存
している。がさばらないし、身の回りが整理されるので便利な事この上
もない。
しかし後世こうした存在感をもって人の眼に触れることなんてないだろ
う。それどころか一瞬の操作ですべてが無になることもあるだろう。
そして私がこの世に生きたことが墓碑銘に記される以外は忘れられてい
くのだろうなと考えると無性に寂しく悲しくなる。少なくとも子孫だけ
にでも、その生きた証がこうして日の目を見て父親は幸せと言ってもい
いのかな・・・