今朝(12/10)は今冬初めての氷点下我が家の庭の温度計はマイナス3度を指しており、当然初氷が見られました。
近代的に発展し、便利になることばかりが良いとはいえないか。 幸せとは相対的なものでしょう。 小学校の頃我が家も極貧の状況にあり、生卵が手に入ると病気の親父に食わせるため、育ち盛りの私の目の前を通り過ぎてゆく。 祖母いわく「病気のお父さんに栄養をつけさすんだよ。 がまんしなさい。」 子を持つ親となってみて、あの時病気療養中の父の心境はどんなにか辛かったろうな。
遊びまわった友達のほとんどが似たかよったかの生活で皆が貧しかったから、特に我が家がどうしようもない貧乏でひねくれてしまうこともなかった。 町内のお大尽はK材木店(N元総理の生家)と川向こうのH田屋くらいで、そこの子達はこぎれいな服を着て、靴なんか履いていたな。 うちらはつぎあてのあるズボンと下駄だけど、みんな似たような環境ならば貧乏も苦にならなかった。
先週取り上げたブータン国もそうでしょう。 我々の感覚からすればお世辞にも生活環境が保たれているとは思えないが、そんなもんかと思い、3食に不自由せず、争いがなければそれが幸せというものでしょう。
さて今週は高崎今昔と称して戦前と今を比較します。 戦前の写真は高崎市発行の写真集から抜粋したので、もし著作権等に抵触する場合はコメントに載せてください。即、削除します。
大河ドラマに登場する江の長男竹千代(後の家光)の弟国松(後の駿河大納言忠長)の墓(大信寺にある) 兄より利発がゆえに家光に憎まれたのか、徳川家存続の秩序のために犠牲になったのか、諸説はありますが、高崎藩に幽閉され助命嘆願もむなしく28歳で自刃した悲劇の男。 墓は当時のままだが、背景はすっかり変わりました。
本町三丁目交差点を南から北に見る。 屋根に小さな塔の建物は戦後の一時期市役所がありました。 火事で全部焼けてしまった。単線の路面電車はこの交差点ですり替えをし、右角のU田青果店はしばらく前まで営業していた。
八島町の駅前通を西から見る。 道の突き当たりは今も昔も高崎駅です。 建物はすっかり現代的になりましたが。 この風景はかなりよく覚えています。
なんといっても変貌が著しいのが、高崎駅周辺。 車の形からみて昭和10年頃でしょうか。当時としては意外に道が広いです。すでに環境にやさしく、お年寄りに好かれる路面電車が走っていました(単線であるというところが時代を感じさせる)。 これは西口です。 またの機会に回しますが東口の変貌はもっとすごい。