中学校の同級生であるN君の研究成果が来月早々にシティギャラリーで展示される。我々同級生も若干
協力した。
4月3日からシティギャラリーで5日間、その成果を展示しますのでご覧になってください。 かなり見ごたえが
あると確信しています。 開催期間中、同級生も交代で説明役を務める。
さて、今日3月23日は晴は約束されていた。 スキー良し、自転車良しまた山登りもいいかなと思っていたが
北風が吹きまくり、薬のお陰で鼻は問題ないが、涙目になってしまう。 午後3時までコタツで本を読んでいた。
ちょっと物を取りに立ち上がるとき足が突っ張ってうまく出られない。 コタツで腰から下だけを温めていたため
か・・ これはいかんと散歩に出る。2時間かけて長野堰に沿って並榎町まで歩く。
左から我が家付近、こんな水路の分岐のための水門が随所に、川端の薬師様、堰の由来を記した石碑、市内に
水を供給する水門。 石碑のある場所は今は駐車場になっているが、実は小生はここで生まれ18歳まで過ごし
た思い出の地。 石碑に何が書いてあるのかいっこうに理解できなかった。変体仮名が刻まれているので今でも
読むことはできない。 今度の展示では読み下しが展示され、近くその内容が碑のそばに立てられる予定。
住吉町の水門から旧市内の各所に供給する水のお庚申さま取り入れ口。 車の往来が盛んな高崎渋川線の下
を暗渠となって市内に分散する。お堀の水もここから供給されていると聞く。
懐かしい満来軒があった。子供の頃特別な行事の時にこの店からラーメンを出前してもらった。 電話がないので
100mの距離を走って注文した。 一杯30円だったと記憶している。 子供心にも大変なご馳走だった。
そして帰路、芝塚町で水路JR在来線と新幹線の下を東に向かって流れていく。 数百年続く現役と新幹線の組み
合わせが絶妙。 円筒分水まで残り1km。
市内和田橋付近で烏川との高低差は10m以上あって無理。 広大な原野の北の端を流れる井野川は水を引くに
は細すぎて荒野を潤すには水量不足。 茫々たるススキの原か、雑木林が広がる原野は野生動物が跋扈する状
況だったと推測される。
この水路ができたお陰で稲作が可能になり、人が集まって街が形成され発展した。展示会ではその様子を模型や
ジオラマまた古文書を使って説明をする。 高崎の発展はこの用水なくしては考えられなかった事を皆さんに理解し
ていただければ幸いです。