toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

213-270328同級生渾身の研究成果をご覧ください。

2015年03月28日 | お知らせ

 伊勢崎しみんのもり森公園の満開のボケの花。

 

中学校の同級生であるN君の研究成果が来月早々にシティギャラリーで展示される。我々同級生も若干

協力した。

4月3日からシティギャラリーで5日間、その成果を展示しますのでご覧になってください。 かなり見ごたえが

あると確信しています。 開催期間中、同級生も交代で説明役を務める。

 

さて、今日3月23日は晴は約束されていた。 スキー良し、自転車良しまた山登りもいいかなと思っていたが

北風が吹きまくり、薬のお陰で鼻は問題ないが、涙目になってしまう。 午後3時までコタツで本を読んでいた。

ちょっと物を取りに立ち上がるとき足が突っ張ってうまく出られない。 コタツで腰から下だけを温めていたため

か・・  これはいかんと散歩に出る。2時間かけて長野堰に沿って並榎町まで歩く。 

    

左から我が家付近、こんな水路の分岐のための水門が随所に、川端の薬師様、堰の由来を記した石碑、市内に

水を供給する水門。  石碑のある場所は今は駐車場になっているが、実は小生はここで生まれ18歳まで過ごし

た思い出の地。 石碑に何が書いてあるのかいっこうに理解できなかった。変体仮名が刻まれているので今でも

読むことはできない。 今度の展示では読み下しが展示され、近くその内容が碑のそばに立てられる予定。

 

   

住吉町の水門から旧市内の各所に供給する水のお庚申さま取り入れ口。 車の往来が盛んな高崎渋川線の下

を暗渠となって市内に分散する。お堀の水もここから供給されていると聞く。 

懐かしい満来軒があった。子供の頃特別な行事の時にこの店からラーメンを出前してもらった。 電話がないので

100mの距離を走って注文した。 一杯30円だったと記憶している。 子供心にも大変なご馳走だった。

そして帰路、芝塚町で水路JR在来線と新幹線の下を東に向かって流れていく。 数百年続く現役と新幹線の組み

合わせが絶妙。 円筒分水まで残り1km。

 

市内和田橋付近で烏川との高低差は10m以上あって無理。 広大な原野の北の端を流れる井野川は水を引くに

は細すぎて荒野を潤すには水量不足。 茫々たるススキの原か、雑木林が広がる原野は野生動物が跋扈する状

況だったと推測される。

この水路ができたお陰で稲作が可能になり、人が集まって街が形成され発展した。展示会ではその様子を模型や

ジオラマまた古文書を使って説明をする。 高崎の発展はこの用水なくしては考えられなかった事を皆さんに理解し

ていただければ幸いです。

 

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212-270321墓場に眠る戦艦武蔵と乗組員

2015年03月21日 | もろもろ

      先週の暖かさで一気につぼみを開いたミツマタの花。

 

1000mの深海に眠る戦艦武蔵のリアルな動画がインターネット上に掲載された。全部を見ようとすれ

ば1時間はゆうにかかる。 英語のナレーションを消して画像だけを見詰める。

いろいろなことが思い浮かぶ。  ↓  興味のある方、時間のある方はクリックしてみてください。

                      http://musashi.paulallen.com/

掲載期限が過ぎて消されていることも考えられますが、3月21日現在は見ることができました。

 

戦艦武蔵が大和型2番艦として三菱長崎造船所で建造されたことを知ったのは30年も前か。吉村昭の

ドキュメンタリー作品であった。 

九州一円にいままでなかった妙な現象があちこちで始まった。 棕櫚(しゅろ)の樹を求める人々が民家

をおとずれて、棕櫚の樹を覆う繊維状の皮を買い求めていく。 今まで値段がつくものだとは思ってもい

なかった家人は頭をかしげる。 こんな書き出しではじまる小説だった。

 

長崎造船所は当然海岸に位置する。 長崎の街は海岸を底辺にして、家並みが山のほうにすり鉢状に

競りあがっていく。 家から造船所は非常に良く見通せる。 やがて造船所の周りに棕櫚の繊維を編んだ

カーテンが目隠しのように張り巡らされていく。 街には目の鋭い男たちが警戒する姿が目立ってきた。

造船所のあるほうを眺めている者がいると不審尋問を受けた。 また造船所に面したガラス戸は目隠

指示が出る。

こうした環境の中で武蔵の建造が始まる。 日本が大和に次ぐ2番艦を作っている事実を米英に知られた

くなかった。 完成したのは日米開戦の直前の昭和15年。当時の最新技術を盛り込んだ巨大戦艦武蔵も

結果的にはたいした戦果をあげることができず、フィリッピンのシブヤン海でアメリカ軍機の猛攻撃を受け

1000人を越える乗り込み員と共に海底深く沈んでしまった。

 

さて画面に戻る。 70年の歳月を経て、静かに上から降ってくるプランクトンの死骸が破壊された艦を埋

め尽くしている。 時々深海鮫が画面を横切ったり、名も知らぬ魚がカメラに驚いて逃げていく。

70年間漆黒の闇の中で静かに横たわっていた船体は突然のライトの中に浮かび上がる。

はっきりとわかるのはスクリューやいかり、そして45センチ砲があったと思われる大きな穴くらい。後は素人

の目にはなんだかわからない。 それにしてもまっすぐなものは何もない。何らかの形で破壊されている。 

それらをカメラはゆっくりとまた冷徹に映しだしていく。

 

船体と共に1000人の乗員が眠るこの姿のままにそっとしておくのが一番適切な鎮魂であることに異をとな

える人はいないと思う。 戦艦大和や撃沈された他の日米英の艦船と乗員も同様に・・・

戦争とはとてつもないものを作りそして破壊し、同時に兵隊、一般人を問わず多くの人間を死に至らしめるも

のだ。 昨今あの戦争の規模に匹敵するものは発生していないが、戦闘状態にある地域は各所にある。 

人類とは争わずにはいられない生物なのか。

 

小生、国を守る軍隊の存在を肯定する意見に賛同するものであるが、軍事力の存在そのものが争いの抑止

力となることを切に願うものである。 と同時に現在論議されている集団的自衛権の発動の諸条件について

は更に論議を深めてもらいたいものです。 あれだけの犠牲を払いながらもここまで立ち直った日本人の民

意レベルが戦前のような状態になる恐れがあるとは、どの角度から見ても思えないのだが・・・甘いでしょうか?

 

 

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211-270314前橋の公園もなかなかのもの

2015年03月14日 | 花・樹木

 年が変わって最初に咲く樹は「ろうばい」、次にこの「マンサク」か。 共に黄色の特徴ある花が

何もない野に目立つ。 続いて咲くのは「ミツマタ」か・・(嶺公園にて)

 

我が市と前橋市はいろいろなことで昔から張り合う。 合併して政令指定都市になるという案が昔からあるが、

意地の張り合いが解消しないと難しいと思う。 大きければ全て良しというわけでもなし、今のままで互いに

競い合ったほうが私は良いと思うのだが。 人口、学校対抗、スポーツ自転車によるヒルクライム競技、まだ

まだあるのだが、圧倒的に我が市が差をつけるのは交通の利便性でしょうか。

先週は我が市の公園を取り上げたが、今週は前橋を紹介しましょう。 赤城山の闊達な裾野が緩やかになる

場所に位置する。 裾野は利根川にえぐられて終了する。我が市同様に街の中心から車で15分も走れば深

い森に到達する。

緩やかな赤城の裾野を車で登り、畜産試験場の交差点を左折して暫く走ると、「座禅草」の自生地がある。

少し早かったのでまだまだ小さなものだが、既に冷たい谷川の水際に可憐な姿を見せていた。

   

かなりの規模の道の駅で買い物をして、その足で少し東にある嶺公園に回ってみる。 途中でマンサクの花が

満開だった。 

赤城の広大な裾野を覆う雑木林を整備して公園墓地として開発したのはいつのことか?  自然との調和を意識

したなかなか素晴らしい公園となっていた。 墓地も規格が統一されていた整然としているので、特有の暗さや

不気味さは全くない。公園の一部として溶け込んでいる。 ここは水芭蕉で有名なところ。 ちょとした谷間の湿地

に咲き始めていた。 満開になると風情に欠ける。 この咲き始めというのがこの花に似合う。

     

街の中心から車で20分も走ればこんな幽玄な場所に出会える街、前橋は住むにはいい街だと思う。生活に欠かせ

ない水がうまい。 我が市が音楽の街を目指せば、前橋は詩の街を目指す。 大好きな萩原朔太郎もこの愛すべき

土地を題材にしていくつもの詩を書いている。 街の感じは東北の盛岡を連想させる。 

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210-270307 30年ぶりの群馬の森

2015年03月07日 | 名所旧跡

  女の子のいない我が家。 下駄箱の上が唯一の女の子(?)の表現の場

 

   

地元の皆さんには改めて説明するまでもありませんが、我が市にもなかなか立派な公園があります。

「群馬の森」と市民が親しみを込めて呼び、かつそこでの散策を楽しむ公園です。

もともとは旧陸軍の弾薬廠のあった場所で、100年は経過していた手付かずの森を群馬県が40年程

前に整備して公園とした場所。 我が家の子供たちが幼き頃よく遊んだ公園だったがその後行く目的も

なかったので、非常に懐かしかった。

 

   

主にクヌギや樫そしてケヤキといった大木になる木が多く、その昔弾薬を保管した土塁がそこかしこに

残っている。それらのありのままの状況をできるだけ保存したやり方は正解。 一部に美術館があるが

何もない空間が広く確保されている、それが公園としては一番望ましい環境だと思う。

 

  

土塁の脇にダイナマイトの碑なるものがあった。昔はなかったと思う。 我が市は新幹線が交差したり

高速道が交差する交通の要点であると共に、車で15分も走ればうっそうとした森に埋もれた丘陵もある

都市として大変に恵まれた立地条件を備えている。

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