toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

108-250330M本酒造解体作業

2013年03月30日 | 街歩き

 

 

 

 

Img_0622 Img_0619 代表的な雑草(野草)である「ほとけのざ」の花。一つ一つは小さくて地味なものだが(マクロで撮影すると雰囲気が変わる)、こうして集団で咲きそろうと、なかなか見事な花の群落になる。 安中市高別当にて。

酒が飲める体質に生まれたことに感謝している。 普通に入手できる酒は一通り飲んだ。 飲みすぎて馬鹿な体験やら失敗もあった。 ここ数年は落ち着いた気持ちで純粋に酒を楽しむ。   

結局日本酒に落ち着いた。 毎晩一合の熱燗。 家庭用の一合徳利だから、料理屋の二本弱に相当する量か。 これ以上は飲まない。どうしても飲みたいときは徳利に白湯を入れてお猪口で口にすることが暗黙の約束。

酒なら何でも良かった若い頃、日本酒といえば全国銘柄の月桂冠、松竹梅、剣菱や白鶴などが酒だと思って何の疑問もなかった。 今は違う。 日本酒は地酒を味わうべきだ。 個性が際立つ。 

 

全国銘柄に比べると一升瓶で3~500円ほど高いが、この価格差以上の満足感を得られる。 

群馬の地酒は大間々の「赤城山」、吉岡の「船尾滝」、倉渕の「大盃」や藤岡の「巌」、川場の「水芭蕉」などなど。 これらを順番に飲む。 夕飯時が待ち遠しい。

ところでこの業界も淘汰の波にさらされているのか?  前橋市駒形町のM本酒造の工場解体現場を通りかかった。 杜氏が活躍した大きな仕込タンクが放置され、重機が入って解体の真っ最中。 年季の入った建物が壊されていくのを見るのはつらい。 ここの酒の銘柄は知らない

 

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県道からは解体中の倉庫の屋根しか見えず。 中に入ると瓦をはがされた屋根。 崩壊した土蔵の壁。 酒造会社の工場内には工場特有の発酵菌が住み着いていて、これが独自の風味をもたらすと聞く。 この無残な土蔵に住み着いていた発酵菌はどんな酒のもとになったのだろうか。

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解体された釜と煙突。 醸造米はここで炊かれ、大きなタンクに移されて杜氏の持つ棒で攪拌され酵母の作用で原酒になっていった。 醸造タンクがむなしく放り出されている。    

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107-250323身を削られても立ち直りつつあるイチョウ

2013年03月23日 | 花・樹木

 

Img_0582_2 Img_0587  P3204373 暖かな気温に誘われて、自転車で走り出す。 今日は久しぶりに島村の渡し迄走る。 なんだかとても調子が良く、通り過ぎて10キロ先のR17号新上武大橋まで走ってしまう。 都会人サイクリストには申し訳ない程整備された自転車道。 そして島村の休憩所付近のほころび始めた河津桜 (3/12)。  そして梅の花 (3/20)

手のひらを返したように春になってしまった。

下横町にある興禅寺の門前のイチョウの樹。20年ほど前に道路幅拡張のために、切られる運命になったが 地元小学生の助命嘆願で生きのびた。
が、何とかしないと規定の道路幅を確保できない。 工事担当者は寺側と協議の結果、幹を削ぐことになった。
直径50cm程の幹は長さ2mにわたり、可哀想なほど削りとられた。そのあとにコールタールを塗られたイチョウの写真が上毛新聞に掲載されたのを覚えている。 イチョウの生命力はやはり大したものだ。

歳月が経過し、立派に生き延びている。削られた平面の端の方から肉が盛り上がってきているのがはっきりと見える。 

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台風の暴風で倒壊した鎌倉鶴岡八幡宮のイチョウは根本から切断されたが、そこから新芽が生えてきたという。 まだまだ生命は終わらない。

一方、大津波にのまれてただ一本残った陸前高田市の黒松は願いむなしく枯死したが、生前採取した新芽が順調に成長しているようで、何時の日にかあの松原を再現してくれるだろう。

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106-250316 1500年の時の重み

2013年03月16日 | 名所旧跡

P2264281_2 嬬恋村パルコールスキー場上部、前日の吹雪で「しらびそ」の樹が見事な樹氷と化した。   (3月5日)

 

新聞で渋川市金井遺跡から古代人の甲冑をまとった人骨が発掘されたとの報道があった。 紙面での写真ではどこが頭で、どこが足か判然としない。 先日群馬県埋蔵文化財保管センターで一般公開があったので見学し、数枚の写真を撮ってきた。 以下コメントをつけて説明します。

榛名山の大噴火の際に膨大な量の灼熱の火山灰が振りそそぎ、男は幼子を抱えて迫りくる黒雲を背後に見ながら懸命に逃げたのだろう。(雲仙普賢岳の噴火を思い出す) 利根川まで逃げ切れれば何とかなっただろうが、重い甲冑も災いして、行き着く前に熱い灰に追いつかれ、子供をかばう様な姿勢で埋もれてしまった。

50年も経たないうちにこんな姿になったのではないだろうか。 その後この土地は原野や水田に形を変え、何度かの利根川の氾濫も経験する。彼らの上を奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸そして現代へと1500年の時が流れていく。時には北条や真田、武田あるいは上杉、徳川の軍団が覇権を争っての戦場にもなったであろう。 華やかな参勤交代の大名行列が近くを通る三国街道を行き来したはずだ。

降灰から子を守るかのようにうずくまる男の姿が迫ってくる。

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挿入した文字は私の見方なので、間違いがあるかもしれません。 

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5世紀の榛名山の噴火は大規模なものだったようで、山麓一体は殆ど例外なく、 約150cm掘ると、明らかに色の変わった黄色の地層が10~20cm現れる。 その地層を丹念に除去すると、当時の姿が再現される。 私の勤務する会社の場所もその例外ではなかった。 水田の遺構であり、足跡が残って居るところから、噴火は田植え時だったのだろう。

地中に杭を打つような建築は、最初に埋蔵文化財保護法による調査をしなければならない。 こんな貴重な遺構等が見つかると、建築そのものが中止になってしまうことがあるという。 一般的に施主は何も出ないことを期待し、建築が予定通りに進むことを願う。 この土地はどうだったのだろうか?

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105-250309山岳同定その2

2013年03月09日 | スポーツや趣味

Img_0565 ブランシュたかやまスキー場から蓼科山を頭だけ望む。今シーズンは12月から充分な積雪があり、5回行ったどのスキー場でも納得のいくスキーが楽しめた。 

ふるさとの山の形は、いくつになっても脳裏に焼きついている。 その映像は雪をまとった山であり、新緑または紅葉に彩られた山。 山全体示す名前は承知していても、それを構成する一つ一つの小さな山の名は案外知らない。

富士山や筑波山のように平野から独立峰の形で屹立している山は別として、多くの山は小さないくつかの山で構成されている。 赤城山、榛名山、谷川岳、八ヶ岳然り。 

晴れていればいやでも目に入るふるさとの山々くらいは、その山を形作る小さなピークの名を調べて見ようと思った。 最初に一番身近な榛名山。 暫くの間「山岳同定」にお付き合いください。 榛名山群の最高峰である掃部ヶ岳は三峰山に隠れて見えず。 勤め先の屋上は上州を取り巻く山々の絶好の展望台。

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爺さま、もしご覧でしたら間違いがないかご指摘ください。 特に無名峰とした山名が解りません。

追記、先日渋川市東金井遺跡から鎧をまとった人骨が出土した。7世紀の榛名山噴火の 犠牲者と推測されている。この時の大噴火で流れ出た火砕流が南に流れ、広大な相馬ヶ原を生み出したのか。

新聞写真ではいまいちはっきりしなかったが、一般公開があったので写真を撮ってきた。その一部を載せてみました。 さび付いた鎧は原型を保っている。

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104-250302百舌(もず)

2013年03月02日 | バードウォッチング

 

 

P2114175 庭にいろいろな鳥が来る季節。 ヒヨドリがカラスにでも追いかけられて慌てて逃げ、我が家のガラス窓に激突、即死。 その激しさが羽を拡げた飛翔姿勢のまま痕跡が残ったので一枚パチリ。

とある施設のホールに掲げてあった百舌の絵。 日本画の手法を駆使して、遠景に山、近景に枯葉を配置し、中央左上に百舌を描く。 なかなか均整の取れた絵だとしばらく眺めていた。

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どこぞで似た構図の百舌の絵を見た。 宮本武蔵だ。 早速にインターネットで調べる。

 武蔵が熊本細川藩の食客になっていた頃に描いた墨絵。

 

天下の武蔵と比べられたら上記の作者に気の毒。 そのことは承知で素人目で見た感想を。

武蔵の描く百舌は墨の濃淡だけで精悍かつ猛禽類の鋭さを表現している。 目は何を見ているのか。 枯れ枝の途中に尺取虫のような虫が描かれたいる。 『i 』 の文字のようだ。   百舌の目はこの虫を見詰めているのではないか。 捕らえるために今にも飛び出しそうな緊迫感を感じる。 i がシミのように追加されただけで、絵が引き締まり、動きの前の静止状態とも言える躍動感がある。   

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上野国(群馬)が生んだ剣豪上泉伊勢守、 常陸国(茨城)の塚原卜伝、備前国(岡山)の宮本武蔵そして伊勢国(三重)の柳生但馬守、 ほぼ同時代に世に出たいずれの剣聖も剣の力量だけでなく、もっと内面的な剣を通して自己を見つめる求道精神において甲乙つけがたし。 剣はそのための手段かも。 腕比べなど意味のないことだろう。 その中で絵画の素養は武蔵が抜きん出ていることは間違いあるまい。

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