シーズン納めのスキー(かぐらスキー場)の帰路に名胡桃城址に立寄る。 その本丸跡から眺める谷川岳(地元名耳二つ)。
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「日本軍と日本兵」米報告書は語る。敵という<鏡>に映しだされた赤裸々な真実
本題に入る前に戦場で無念の死に方をした多くの日本軍兵士にたいし、哀悼の気
持ちを表さなければ兵の子や孫世代の一人として非礼になる。今の平和は戦陣に
散った多くの兵士の屍の上に成り立っていると思うと粛然たる気持ちになります。
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そのうえで、この本は日本兵と戦ったアメリカ軍兵士が抱いた感想を、米陸軍軍事
情報部が1942年から46年までに毎月発行していた戦訓広報誌(Inteliigence
Bulliten)を土台にして展開した本の感想。 といっても人の命は重いもの、何ゆえ
アメリカと事を構えたのか? いろいろな見方があるのは承知。 私ごときが論じる
のは僭越の極みとは思う。 あくまで本書を読んでの感想です。
kindle版電子図書
本書はこう述べている。
① 日本兵は「規律は良好」 「準備された防御体制下では死ぬまで戦う」
② 射撃が下手だった。
③ 予想外の事態がおこるとパニックになる。
さらに説明を加えよう。
・戦闘に負けてなぜ捕虜にならずに死を選んだのか?
都会出の兵と地方の兵とではかなりの差があった。 都会の兵は曲がりなりにも
アメリカを知り、投降して捕虜になっても命を奪われることはない事を知っていた。
一方地方(田舎)出身の兵は敵の国情を良く理解していなかった。 また当時の兵
隊教育の影響もある。 降伏よりも死を選ぶしかなかったのは、兵の出身地の受け
とめ方にもあったという。 捕虜になったことを故郷に知られると、周囲から臆病者
呼ばわりされて兵の家族が非難され、場合によっては村八分にされることを非常
に心配した。 それならば名誉の戦死で家族に迷惑がかからないようにしよう。
・ 味方が優勢の場合は勇敢に戦うが、ひとたび敗色濃厚となったり、指揮官が戦
死してしまうと浮き足立つ行動が見られた。 突撃の掛け声と共に喚声を上げて闇
雲に突進する。そこを機銃掃射を受けて簡単に死んでしまう。 無謀な突撃を勇敢
な行為と勘違いしていた。
太平洋に散らばる島、特に硫黄島に代表される戦闘。 もっぱら守備力強化のた
めに洞窟を掘り、それらの間を塹壕で繋げてそこから応戦した。 こうなると兵は
強かった。 米軍の死傷者は日本のそれを上回ったという。 結局は玉砕という完
璧な負けとなったが。
・ 島でなくフィリピン本土やニューギニア、ビルマという広大な陸地での戦闘は、
洞窟戦術を取れない、応戦し弾薬食料が乏しくなると奥地へ逃げ込むしか方法が
ない。 そして食料不足で餓死してしまった。 敗走する兵と飢えの様子は大岡昇
平著 『野火』に詳しく描かれている。 もし本土決戦となり、関東平野が戦場になっ
ていたらと思うと慄然とする。
いろいろといくかつかの状況を書いたが、何れも前線で戦った兵には責任はない。
誰にあったのか? 指揮官であり、作戦を練った大本営参謀達である。もっと遡れ
ば時の内閣であり総理であり、また当時の教育である。 天皇まで遡るか否かは
論者によりまちまちだろうが・・・・
・ ルパング島で戦後28年間戦いを続け、救出された故小野田寛郎少尉の場合。
彼は終戦を少なくとも戦後3年経過した頃には承知していたと思う。 彼の生家は
教育に熱心であった。情報士官であり、 アメリカの国情もよく理解していた。 捕
虜になっても命は保障されることも知っていた。 そこが同じような状態におかれた
故横井庄一さんとの決定的な違い。上官の原隊復帰命令が出ていない、その一
点であそこまで抵抗を止めなかった。そして創意工夫して28年間戦いを続けた。
信念の人だった。
主婦に人気の卵やさん。 庭で見かけた素晴らしい樹形の樫の樹。あと20年経過し、幹周りがもう少し太れば申し分なし。
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現在の日本は平和が保たれている。 戦争という事態は想定しにくいが、自衛隊
員はどう戦うのだろうか? 平和の中で生きてきた私は戦争に狩り出される心配
は全く無かった。 こんな世代は日本の歴史上なかったのではないか。 自衛にの
み戦うことが認められる憲法下であるが、不幸にしてそんな事態が出現したとして
も、願わくは合理的なものであって欲しい。
世田谷区の砧公園は毎年見物に出かける桜の名所。都内は新緑が始まり、満開を過ぎたがこの豪華な花の塊。 (4月4日 撮影)
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