今朝のこと、LINEで息子から連絡が入った。南米エクアドルの首都キトのアルゼンチン肉料理店から。
これぞ本物のステーキだな。松坂肉のような繊細さはなさそうだがボリューム感は凄い。
かの地でもシェフというのだろうか? それにしても恰好良い男だ。
LINE は日本と韓国に基盤を置く通信ソフトと認識していたが、全世界と連絡できることを知って驚い
ている。
私の海外放送の記憶の一番古いのはヘルシンキオリンピックの実況。メダルが期待された古橋選手が
その期待に応えられずに400m決勝で最下位に沈んだ時。短波放送だった。アナウンサーの声が波
がうねるように途切れながら聞こえてきた。なんという種類のラジオだったかな? 5球スーパーとか
言ったかな。
次は昭和38年10月だったろう。太平洋を越えてのテレビの最初の中継放送。その時の記憶は今も鮮
明。何と第一報がケネディ大統領暗殺さる、という内容だった。この直前にいわゆるキューバ危機が起
こり核戦争の一歩手前で何とか踏みとどまったという世界史的な事件もあった。
エクアドルとは時差が12時間程、ほぼ地球の反対側。我が家は朝食時だったが、彼は夕食時だった。
長男は大学卒業記念として中国揚子江を遡り大理という源流地帯にまで遡った、次男は1年後インドを
放浪した。この時代は良くて電話、普通は海外メールで連絡とるしかなかった。一ヶ月も音信不通が普
通で随分と心配した。僅か30年前のこと。その時代を思うとなんという変化。
いつも思う。生まれた時代とやがて訪れるこの世との別れ、それぞれの時代の生活環境の大きな変化に
目を見張る。幼き頃人の排出物は農家にとっては大事な肥料だった。我が家にも数キロ離れた農家の人
がのんびりと牛の引く荷車に樽を積んで汲みにやってきた。樽の中には季節の野菜が入っていた。
汲ませてもらうお礼だった。まさに江戸時代の風景。今風に言えば巧な循環社会だったともいえるが。
私らの世代は人類史上最大の変化を体験中なのだということを改めて認識する。
「いつも思う。生まれた時代とやがて訪れるこの世との別れ、ーーー」や昔、よく見られた便所の汲み取りの話しを懐かしく思い出しました。
年寄りの郷愁といえばそれまでですが、日本は段々と悪くなっているように思います。もうこれ以上長生きはしたいと思いません。
良い記事ありがとうございました。
私の20~30代の仕事は普及が始まったばかりのコンピュータでした。入力媒体は紙カードか紙テーㇷ゚の時代。一番最初は機械言葉でプログラミンをしていました。少し下って富士通のファコム230-10という機種で500人規模の会社の給与計算でした。数字とアルファベットそれにカタカナの世界でしたね。
その次が毎日一万枚にも上るガソリンスタンドの売り上げ伝票の入力作業。大勢の若い女の子がキーパンチするのを管理していましたあの作業は彼女たちの人間性を無視するようなものだったなと振り返っています。
そんな経験が今に生きていてパソコンもスマホも違和感なく使いこなせていますが。