toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

266-280326分岐と同時に合流

2016年03月26日 | 街歩き

 秋の名残のカラスウリとまんさく

 

わが町は古くから街道の分岐点がいくつもあり東西交通の要所と教え

られた。今も前市長時代からの「交通拠点都市」が行政の目標になっ

ている。昔の面影が残るところは少なくなったが。 

中山道と三国街道、左は中山道で碓氷峠に通じる。右は三国街道で三

国峠を越えて新潟に通じている。画面中央に標識があるが目立たない。

子供のころ正面駐車場は黒壁土蔵つくりの薬問屋だった。

 

 

何とか昔の面影が残る分去れ。中山道と例幣使街道が分かれる倉賀野宿。

右が中山道で江戸へ、左が日光に通じる例幣使街道。画面中央お堂の前

に常夜灯が昔の姿で残る。

  

台座には江戸大相撲で活躍した横綱谷風の好敵手雷電為右衛門や柏戸

と読める字が刻まれる。寄進者のひとりだったのか。200年前の文

化XX年と刻まれている。クリックして拡大してご覧ください。古い商

家の大屋根の立派な鬼瓦が往時を偲ばせる。

 

信越本線と上越線および両毛線が分岐するところ。線路は上越線。奥の

高架が旧信越本線、新幹線登場で横川駅止まりとなってしまった。手前

上の暗い部分は上越新幹線。新旧線路がここで別れ合流する。

 

続いては

先にできた上越新幹線(左)から北陸新幹線(右)が分岐するところ。

北陸が上越をまたぐように分かれている。

 

東京へ向かう関越道(右)から長野方面への上信越道(左)が高架で

分岐する。

一昨年のみどりの日の未明、トラックが見えるあたりの上り線で金沢

から東京を目指していた夜行バスが道路側壁に突っ込んで車体が二つ

に裂け7人の尊い命が失われた。向こう側ののり面に慰霊の植樹がさ

れており今でも線香や果物が供えられる。

高崎JCTで関越道から北関東道が分岐する。関越道は練馬からこの先

前橋インターまで3車線の堂々たる高速道。近く最高速度が120Km

になるそうだ。練馬まで順調にいけば50分くらいか。

紹介した分岐のほかに国道17、18号の分岐、JR高崎線と八高線の

分岐など。まさに東西交通がこの地に集まる。

 

日本列島のほぼ中央に位置するわが県、そしてそのまた中央に位置す

るわが町。昔は4~5時間鉄道や車で移動しないと見られないのが海

だった。海洋国家日本の中でいちばん海に遠い内陸にあるのがわが県。

小生、海を初めて見たのが小学校5年生のとき。その感激は60年以

上経た今でも鮮明に覚えている。

街道を利用して多くの人や荷物が集まりそしてさらに各地に散らばっ

ていった。上州に空っ風といわれる畑作中心の荒い風土。江戸時代は

大藩がなく幕府直轄の天領が多い。他国の人々をよそ者扱いしない風

土が出来上がった。総じて上州人気質は、あけっぴろげなところ、あ

まりものにこだわず、執着心が薄いこと、ばくち好きなこと。言葉使

いが荒いこと等々。公営ギャンブルが全部あり、パチンコ製造メーカ

ー上位2社がある。

わが先祖も新潟、長野から東京へそして群馬に生活基盤が移動して本

来この地と縁がなかった家系がすっかりと上州人となってしまった。

人の動きがせわしいためか、はたまた気候によるのか北陸金沢に代表

されるようなしっとりと情緒豊かな都市文化ははぐくまれなかった。

大都市を別にすれば地方でこれだけの幹線交通網が集中し、そして各

地に分岐していく町は珍しいと思う。交通の要所だけに活気のある駅

周辺だが古くからの繁華街はご多分にもれず衰退し、シャッター通り

と化してしまったことは残念。

さらに特筆すべきは大きな災害に縁がないこと。逆に人為的な大事件

はよく起こる。ここ半世紀でも大久保事件、連合赤軍事件、日航機墜

落事故などなど、群馬県警も大変です。

いずれ避けられない首都直下地震の際にはこの安定した地盤が復興に

寄与できるのではないかと思ったりする。

 

 

 

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265-280319メルトダウン

2016年03月19日 | 最近さわがれること

 暖かそうなうぶ毛に包まれた新芽が変化した。これは

花なのだろうか・・・

 

3月13日(日)に放映されたNHKスペシャル「原発メルトダウン」

危機深刻化した88時間の新証言 というドラマを見る。1時間半の

間、かたわらにいる連れ合いの問いかけも無視して画面を凝視した。

 

挿入した写真は、平成26年11月に不通になっていた国道6号線が

開通したので現地に入った時のものです。

 

現地指揮官であった吉田所長を演じる大杉漣が好演技だった。

事故当時テレビが映し出す現地の状況、大量の新聞報道に接して、今

何が起こっているのか、重大な危機が迫っている印象はあったが、断

片的でただ事故の推移を間接的に見守るしかなかった自分がいた。

わが身に差し迫った危険がないとき、何の行動も起こさずただ見守る

しかしない自分が少し情けない。5年が経過しこのドキュメンタリー

を見て時間の経過に伴い深刻化する事故の推移が頭の中でかなり整理

され理解することができた。

 

当時の断片的記憶のうち、強く印象づけられた言葉や場面。 

メルトダウン、ベント、マイクロシーベルト、100KM範囲の放射能

汚染、ヘリからの放水、水素爆発、吉田所長、東電本社、計画停電、

菅総理、TV画面で度々目にした枝野官房長官の福々しい耳等々。

 

驚くべきことは、これだけの大事故にもかかわらず現場では直接の犠

牲者が出ていないこと。震災全体を見渡せば2万人を超える死者行方

不明者が出ていることに粛然としますが・・・

高放射能が漏れている原子炉に近づくには危険が大きいにも関わらず、

何人もの作業員が原子炉爆発という最悪の事態を避けるために志願し

て炉に近づき作業を行っていたという事実にも感動した。

現場作業員の中には、東電職員ばかりでなく2次3次の下請けの作業

員も含まれていただろう。思いたくはないが危険な作業は皆下請け作

業員だったもしれない。だとしたら日本の産業構造のひずみが象徴さ

れたような出来事だ。だがここではこの仮定は論議すまい。想定を越

え起きてしまった事故を過酷な状況下で最小限で食い止めた人々の努

力を評価しなければいけない。それ以上は政治が判断する領域だ。

吉田所長は2年半後にこの時の心労も影響しただろうと思うが食道が

んで逝去されたが、置かれた状況下で現場責任者としての責任を果た

した。

現存の原発再稼働になにがなんでも反対するものではないが、こんな

ドラマを見ると再稼働本当に大丈夫?と思ってしまう。失敗の連鎖の

中で技術が磨かれる、技術とはそういうものだと理解している。

しかし失敗が制御不能につながる恐れのあるものに手を出すべきでな

い。制御できると思うのは技術者のおごりだ。これももっともな主張

だと今にして思う。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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264-280312映画「独裁者と小さな孫」

2016年03月12日 | 小説・映画・など

 写真よりも写真らしい油絵

 

少しばかり運営にかかわっている特別養護老人ホーム「花の苑」。

15年前に施設の名前をどうしようと考えていた時に、理事長から

この名前を提示された。いささかお年寄りには派手な名前と思い賛成

しなかったが、長く使用しているとさほど苦にはならなくなった。

巷間介護施設の職員のレベルが云々されているが、当施設はいい職員

が集まり、かなりの水準の介護が維持されていると思う。

上の写真はここの入り口に掲げてあった油絵。写真かなと思ったが正

真正銘の油絵です。画家の技量に感服。

 

*****

さて、過去30年間映画館で映画を鑑賞した記憶がない。ネットで

の作品を知ったので、封切日に映画館に足を運んだ。若いころ市

内には300名は収容できる映画館が7つほどあったと思う。映画

全盛期で試験が終われば映画を見に行くことが当たり前だった。

映画産業の衰退に伴い、常設館がゼロになってしまった期間が10

くらいはあったのではないか。

お若いにも関わらず実行力のあるSさんという女性が、奮闘して映

常設館を作り(2004年)、厳選した映画の上映を続けて

在に至るその名を「シネマテークたかさき」という。

撤収した某銀行の支店の建物を利用した。そのことは知っていたが、

当時は仕事に追いまくられて足を運ぶことができなかった。今回の

映画鑑賞は30年ぶりとなる。 

 

客席数は100位か、ずいぶんと小さくなったものだ。しかし映

の雰囲気は昔と変わらない。映画の内容は ⇓ のURL をクリッ

クしてもらうとして、30年ぶりの映画館での映画の印象は・・・

http://luckynow.pics/dokusaishatochiisanamago/

 

10X12程度のイスを配置した縦長の客席はどこに座ってもスクリ

ーンをほぼ正面に捉えることができる。ほぼ中央に座ってみた。

某国の独裁者に対する反乱場面から映画が始まる。立ち上がった多数

の民衆の怒声、制止する軍隊の自動小銃やピストルの銃声、独裁者の

った車にめがけて殺到する民衆、上空を飛ぶヘリの爆音。ステレオ

ウンドが客席一杯に拡がる。その迫力はすごい。目を見張る。この

動の中に自分もいるかのような臨場感。

地デジ化で大型画面になったテレビだが、この迫力に比べればなん

もチマチマしたものになってしまう。

2時間弱の映画だったが、本当に久しぶりに映画の素晴らしさを堪能

させてくれた。娯楽性とともに現代社会が持つ病根も鋭く描く。イラ

クのサダム・フセイン大統領の最後や、某隣国の若き独裁者金**氏

のあるかもしれない末路を否応なく想像してしまう。

これからも興味ある映画が上演されたら見に行こう、と刺激を受けた

1日でした。

 

 *****自転車を再開しました*****

大分春めいてきたので、自転車を再開しました。同世代の仲間と毎週

水曜日に走る走行会も始まります。小手調べに火曜日に乗り出してみ

ました。3か月ぶりです。30km走ったらかなり疲れました。

ブランクがあってもまだ30km走れるんだとも思えるので、無理を

しないで楽しむ予定。

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263-280305身近なお年寄り3人がこの2年間に相次いで逝った

2016年03月05日 | もろもろ

 逝きし3人の老女に捧げる。28.02.26 中里見にて

 

1昨年春からの2年間に身近なお年寄り3人が相次いで逝った。

それぞれの享年は96歳、99歳そして94歳、いずれも長寿を全う

し、最晩年に介護や医療のお世話にはなったが、家族との対話はでき

それほどは家族の手を煩わせることなく大往生された。また年齢相応

の衰えはみせたものの、認知症状とまではいかなかった。

 

最初に逝ったのが私の母、90歳を超えてなお東京へ一人で出かける

ことができる強さを持っており、100歳まで大丈夫かと思っていた

が、くも膜下出血で倒れかなわなかった。半年の入院治療の直前まで

身の回りのことは自力で全てでき、介護認定には縁がなかった。

早くに連れ合いに先立たれたが二人の息子を一人前に育ててくれた。

 

その1年後に長寿を全うしたのは、私の社会人生活後半に公私ともに

大変お世話になった病院長のご母堂。99歳の大往生。短歌を趣味に

し、自費出版したご自分の歌集によく目を通していた姿が浮かぶ。

夫が車いす生活を余儀なくされた期間、絶えず付き添い夫を励まして

いた。歌集の題もそんな環境から取られたのだろう。

  

 

そして

先日94歳でその病院長の義母が鬼籍に入った。この方も半年前まで

は家族や知人との会話ができた。穏やかな性格で、手先が大変器用な

方だった。ケアマネージャの立場で週に1度はお話しした。いつも

「お世話になります」の言葉に続いて「あなたはいつも元気だね」が

定番の挨拶だった。

3人の老女はそれぞれの生き方を全うし、老いを愚痴ることもなく静

清と受け入れ、家族に見守られて穏やかに幽界に旅立っていった。

見事な生きざまだったと思う。

長寿社会とはいえ100年を生き抜くことの難しさを改めて認識する。

100歳の壁は途方もなく高い。

 

*****ちょっとした山歩き*****

 

3月4日、春の暖気に覆われて穏やかな日になった。思いたって藤岡

市上日野矢掛集落からちょっとした峠道を登る。亀穴峠に続く忘れら

れた峠道。峠に近づくにつれ道は落ち葉に覆われて不明。地形図と

GPSを頼りに現在地を確認する。登り1.5時間、降り0.45時間。

峠よりも西へ100m程ずれた尾根に出てしまった。

久しく利用された形跡のない廃屋。生活用品が散乱していた。電気も

きてないのになぜか炊飯器が転がっていた。なまじ人の形跡があるの

は不気味。

春のやわらかな日差しが降り注ぐ栗やクヌギの雑木林。

亀穴峠を示す標識は全くない。4年ほど前に反対側から登った時は確か

あったと思うが・・そこから東にちょっとしたピーク。標高を確かめる。

六三九の数字が読み取れる。これが二等三角点、それとも単なる境界杭?

覚悟はしていたが猛烈なすぎ花粉に見舞われ帰宅しても目のかゆみと

鼻水が止まらない。

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