わが町は古くから街道の分岐点がいくつもあり東西交通の要所と教え
られた。今も前市長時代からの「交通拠点都市」が行政の目標になっ
ている。昔の面影が残るところは少なくなったが。
中山道と三国街道、左は中山道で碓氷峠に通じる。右は三国街道で三
国峠を越えて新潟に通じている。画面中央に標識があるが目立たない。
子供のころ正面駐車場は黒壁土蔵つくりの薬問屋だった。
何とか昔の面影が残る分去れ。中山道と例幣使街道が分かれる倉賀野宿。
右が中山道で江戸へ、左が日光に通じる例幣使街道。画面中央お堂の前
に常夜灯が昔の姿で残る。
台座には江戸大相撲で活躍した横綱谷風の好敵手雷電為右衛門や柏戸
と読める字が刻まれる。寄進者のひとりだったのか。200年前の文
化XX年と刻まれている。クリックして拡大してご覧ください。古い商
家の大屋根の立派な鬼瓦が往時を偲ばせる。
信越本線と上越線および両毛線が分岐するところ。線路は上越線。奥の
高架が旧信越本線、新幹線登場で横川駅止まりとなってしまった。手前
上の暗い部分は上越新幹線。新旧線路がここで別れ合流する。
続いては
先にできた上越新幹線(左)から北陸新幹線(右)が分岐するところ。
北陸が上越をまたぐように分かれている。
東京へ向かう関越道(右)から長野方面への上信越道(左)が高架で
分岐する。
一昨年のみどりの日の未明、トラックが見えるあたりの上り線で金沢
から東京を目指していた夜行バスが道路側壁に突っ込んで車体が二つ
に裂け7人の尊い命が失われた。向こう側ののり面に慰霊の植樹がさ
れており今でも線香や果物が供えられる。
高崎JCTで関越道から北関東道が分岐する。関越道は練馬からこの先
前橋インターまで3車線の堂々たる高速道。近く最高速度が120Km
になるそうだ。練馬まで順調にいけば50分くらいか。
紹介した分岐のほかに国道17、18号の分岐、JR高崎線と八高線の
分岐など。まさに東西交通がこの地に集まる。
日本列島のほぼ中央に位置するわが県、そしてそのまた中央に位置す
るわが町。昔は4~5時間鉄道や車で移動しないと見られないのが海
だった。海洋国家日本の中でいちばん海に遠い内陸にあるのがわが県。
小生、海を初めて見たのが小学校5年生のとき。その感激は60年以
上経た今でも鮮明に覚えている。
街道を利用して多くの人や荷物が集まりそしてさらに各地に散らばっ
ていった。上州に空っ風といわれる畑作中心の荒い風土。江戸時代は
大藩がなく幕府直轄の天領が多い。他国の人々をよそ者扱いしない風
土が出来上がった。総じて上州人気質は、あけっぴろげなところ、あ
まりものにこだわず、執着心が薄いこと、ばくち好きなこと。言葉使
いが荒いこと等々。公営ギャンブルが全部あり、パチンコ製造メーカ
ー上位2社がある。
わが先祖も新潟、長野から東京へそして群馬に生活基盤が移動して本
来この地と縁がなかった家系がすっかりと上州人となってしまった。
人の動きがせわしいためか、はたまた気候によるのか北陸金沢に代表
されるようなしっとりと情緒豊かな都市文化ははぐくまれなかった。
大都市を別にすれば地方でこれだけの幹線交通網が集中し、そして各
地に分岐していく町は珍しいと思う。交通の要所だけに活気のある駅
周辺だが古くからの繁華街はご多分にもれず衰退し、シャッター通り
と化してしまったことは残念。
さらに特筆すべきは大きな災害に縁がないこと。逆に人為的な大事件
はよく起こる。ここ半世紀でも大久保事件、連合赤軍事件、日航機墜
落事故などなど、群馬県警も大変です。
いずれ避けられない首都直下地震の際にはこの安定した地盤が復興に
寄与できるのではないかと思ったりする。