toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

305-281126旧中山道の碓氷峠を登りこだわりの趣味人に出会う

2016年11月26日 | 山登りというより山歩き

 坂本宿で見かけた紅葉。

 

車で1時間の距離であり、仕事では数えきれないほど通過した碓氷

峠。その旧道は今もって江戸時代のまま残っている。坂本宿の知合

いA氏を訪ねたついでに、いつか通ってみたいと思っていた願いが

漸く実現した。群馬長野の県境を越える峠道がどうなっているのか? 

群馬県側も登り口坂本宿から軽井沢までの標高差は約500mか。 

群馬県側からは登りとなる。地図で確認すると点線で表示されてい

るので多分山道それも旧街道だから整備された登山道と理解した。

 付近の地図 。坂本宿から破線を辿り刎石山経由909m地点まで

廃線になった信越線のアプト式軌道の北側の尾根筋に道がついている。

車の通る旧18号線が坂本宿を通り過ぎて大きく右にカーブして廃業

した給油所や水道施設を過ぎるとアプト式軌道をまたぐ。霧積温泉へ

道を見送ると間もなく旧中山道の登り口に着く。

ここから坂本の街並みが一望でき尾根の先端まではかなりの急勾配の

山道。とても旧街道とは思えない。この程度の山道はどうということ

もないが、ここをかの和宮の一行が東に向ったのかと思うと当時の旅

の難儀さがしのばれる。

漸く尾根に近づいたところの大きな石碑があった。文政3年とあるから

200年前か。そして石積の先をひと登りすると刎石山山頂に出る。

坂本宿から標高差300m。宿場を真下に見ることができる。旅人は

ここで初めて信濃から上州に入ったことを実感し、江戸までもう少し

と一息入れたのではないか。東山道の千年を越える長い歴史から見れ

ばつい最近この宿場を高速道路が高架で横切った。

ここから先は地図でもわかるようになだらかな尾根道や枯れ沢が続く。

道もよく踏まれていてそれらしい雰囲気となってくる。紅葉も盛りと

なった往時の街道。

山の斜面を登ったり、

尾根道を辿ったり、

野生のサルに囲まれたりして

というわけで、ここまでは往時を偲びながらの旧街道峠歩きの記だが、

有名な峠なので、この日ここを訪れる何人もの同世代の皆さんのこだ

りに接して楽しかった。

徒歩で東海道や中仙道を歩き通す皆さん。奥さん同伴や単独で日本橋

と京都の五条大橋までの完歩を目指している。五街道のうち中山道を

最後に回して今日ここを歩いているいう方の話では、やはり東海道が

一番往時の街道の雰囲気を残しているようだ。奥の細道だった奥州街

道は福島に入るまではそれらしきところはもうないという。

極めつけの御方は京都から東京までキャンピングカーに寝泊りしなが

ら旅を続けている。そしてその足跡をなんと動画に取り込みながら地

図上にプロットしYouTubeに公開したいるらしい。その撮影機材がす

ごい。アルミのフレームを肩から胸の前にかけ、カメラを2台、ヘッ

ドキャップに1台計3台で撮影しながら歩いている。

何のてらいもなくここまで自分の楽しみを貫ける趣味人生は素晴らしい。11月13日歩く。


 

 

 

 

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304-281119この仲間に参加したらこんな栄誉に浴した

2016年11月19日 | 街歩き

  数年前に手にしたときは人の頭くらいだった。

 

この写真に写っているのは間も無く後期高齢者になる中学校の同級

生です。

ここに私も写っています。敢えて指摘はしませんが適当に推量して

ください。

当地を含めた利根川支流の烏川とそのまた支流の井野川に挟まれた

土地は古代水の便が悪く、多分茫々たるススキの原か武蔵野に代表

される雑木林が主体だったと思われれる。ここに上流から分水し堰

が作られたのが数百年昔と聞く。その名を「長野堰」という。

以後原野は開墾されて田になり、中山道の宿場としてまた関ケ原の

戦いで天下の趨勢が決まってからは井伊直政を城主として迎えて町

とした発展してきた。そんな歴史を同級生のN君以下の諸兄が調べ

あげて、昨年来市民に紹介してきた。その功績が評価されてこの度、

世界かんがい施設遺産に登録された。そして市の広報誌の表紙を飾

ことに相成った。

街中を流れる堰。右の茂みが生まれ育った地。こんなに整備はされてなかったが

夏になればこの流れで泳いだ。

今は更に整備された水路だが往時は両岸石垣でうなぎやなまずが生息し

夏になれば蛍が飛び交った。

 

この堰の傍で生まれて、住所は変わったが今もその堰のほとりに住

む者として、この研究グループの末席に加わることとなった。一つ

目的を共有した同期の集まりというのはなかなか珍しい取り合せ

だ。

長野堰は田を潤すほか防火用水として町の通りをいくつかの水路で

貫いている。また城址の堀に水を供給する水路にもなっている。

昭和時代には染物屋さんや鯉池がいくつもあった。子供時分はこの

堰で泳いだ。調べれば調べるほどこの町に深く関わっていることが

解る。広報の表紙写真の前景は江戸時代末期の街を1/2000で再現し

た模型。市役所の2階ホールに飾られて市民に好評だったもの。

 

 

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303-281112山間の小さな町を一日かけて観て回る

2016年11月12日 | もろもろ

 

我が家から車で1時間半走った山間に「万場」という小さな

山村がある。中山道の裏街道の1本だった十石街道に古くか

ら開けた集落。この町を1日かけて丹念に見て回った。神流

町観光協会主催の「万場歴史探訪」の企画に参加したのだ。

 

神流川は利根川の支流の一つで、中流は下久保ダムで堰き止

められるがダムを過ぎて奥に入れば昔ながらの清流が残って

いる。川の最上流は上野村であり、県でも最も奥まった所。

30年ほど前の日航機墜落の現場のある村である。あの悲惨

な事故現場の状況は今でも多くの人の脳裏に記憶されている。

 

旅の楽しみ方を考え直すいい機会になった。今まで私の旅と

いえば大抵は車を駆って欲張って名所旧跡をできるだけたく

さん見て回るのが通例だった。その結果一つ一つの印象が淡

泊になり、旅が終えると疲労が溜りしばらくは調子が出ない

ことが多かった。

高みから俯瞰した万場の町。渓谷が少し開けたところは集

となり人が住み、固有の山村文化が継承された。

古くから存在した集落なのでいろいろな見どころがあり楽し

めた。これから旅は集中して深く接するのが体も楽だし印

も深まると思い知った

町を貫く十石街道。右手の大きな建物は今は車の整備工場に

なっているが、昔は町に二つあった映画館の一つだったそうだ。

 

額には昭和4年と書いてある。

 

旧家の土蔵が大正昭和を思い出させる品々が展示されていた。

 

二眼レフカメラ。上から覗くと被写体がさかさまに写るファイ

ンダーが懐かしい。右がリコー、左がヤシカ。企業としてリコー

は立派に今に生き残っているがヤシカは無くなってしまった。 

昼食は街道沿いの開業300年の言われている今井屋旅館。

建物は明治のもの。註文したソースかつ丼の肉の厚いこと。

3cmほどあった。とても食べきれずタッパーに入れて持

ち帰り、夕飯はまたかつ丼になってしまった。

 

 

大正時代の万場の街並み。

殆どの家の屋根は板葺きで飛ばないように石が載せてある。

日露戦争に勝利して一流国になったが、全国どこでも山村

の風景はこんなものだったようだ。

 

 

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302-281105すっかり刈取りが済んだ田の傍に並ぶ白き塊

2016年11月05日 | もろもろ

 東京駅から1時間、歩いて10分の場所に取り残されし

廃屋。

 

当地の田もすべて刈り取りが終わった。風水害の被害もなく安定した

天候で豊作が見込まれる。ここ数年収穫の済んだ田に白いビニールに

くるまれた大きなものが整然と並べられた光景に接する。

 

いうまでもなく飼料用に梱包された稲わら。この田も6月には確か田

植えが行われ苗が頼りなく風に揺られたいた。夏の強い日差しに照ら

されてぐんぐん成長していた。この時点ではお米として収穫されると

思っていた。しかし結果は人の口に入るお米ではなくウシもしくは豚

の口に入ることと相成った。実の方は別に刈取り残りをこうして梱

包するのか、実ごとくるんでしまうのかは知らない。前者ならば問題

ない。

折しもTPPへの参加の可否が国会等で論議されている。農家特に都市

近郊の兼業農家の皆さんは大きな岐路に立たされている。農業の構造

改革に耐えられるのか? 300坪(1反歩)の農地でコメを作るよ

も良き借り手に農地転用手続きをして貸した方がはるかに大きな収

になる実態はよく知っている。未だ借り手の現れない田で最小の労

でそれなりの収入を得るために飼料用のコメを作る選択があっても

思議はない。しかしコメが家畜の飼料になるのを見ると何か複雑な

いになってしまう。日本人も思い上がったものだ。

 

近くに寄ってげんこつで叩いてみた。非常に硬い。へこみもしない。

この大きさでこの硬さでは一つ数百キロの重さがあるのではないか。

梱包から牧場に運ばれるまですべて専用の機械やトラックで済んで

しまう。

こういった農業の方がTPPには耐えられるのかな・・・

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