toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

341-290729白鵬の日本語に感心する

2017年07月29日 | もろもろ

 押入れの奥から出てきた掛け軸。南洲とあり、それらしい落款もある。

まさか我が家に本物が・・ だが一瞬ときめく。

 

大相撲名古屋場所で白鵬が優勝した。優勝と同時に勝ち星の累

積が史上最高を記録し、戦いぶりからしてこの記録は更に延び

て、今後破られることが考えられない未踏の高みを極めそうだ。

ご承知のように彼はモンゴル出身。ハワイ出身の高見山から始

まった外国人力士の隆盛はここに極まった感じがする。しかし

御嶽海や宇良といった生きのいい日本人力士も頑張った。これ

からの大相撲が楽しみだ。

ところで白鵬や日馬富士らモンゴル出身の関取の日本語に驚か

される。語彙も豊富でなまじな同世代の日本人の若者も太刀打

ちできないほどと感ずる。蒙古語と日本語の共通点でもあるの

かと思いウィキペディアを検索していくつかの記事を見たが際

立った共通点もないようだ。彼らの努力の成果なのだと考える

しかない。

管理の行き届いた前方後円墳(倉賀野町大鶴巻古墳

 

日本人の幼子にお尻りの上が青く見える蒙古斑は良く知られて

いる。10万年も遡れば先祖が共通らしい。遥か昔に中国で世

界帝国「元」の時代を築いジンギスカンが浮かぶ。二度にわ

って侵攻され台風の襲来が無ければ併呑されてしまっただろ

う。特に日本人と相性が良い理由もないがモンゴル出身力士に

は妙に親近感を感じる。

古墳の最高部、盆栽好きにはなかなか味のある雑木寄せ植え。

 

つれあいが良く韓国ドラマを見ている。日本語に比べて放り出

すような喋り方が少々耳障り、中国語も特に団体観光客とすれ

違ったときに何と喧しい言葉なんだろうと感じてしまう。両外

国語共に自分を一方的に突っ張るような感じ。もともと「忖度」

などというあいまいな表現は難しいのだろうか。白鵬の母親が

話していた蒙古語しか聞いたことがないのだが、その時の印象

では中国、韓国語のリズムよりも日本語の少し控えめな印象と

似ていると受け止めた。

社会に出てから学校で学んだ英語を基礎にして会話力をつける

べく勉強する機会は十分にあっ筈なのだが、結局この年まで

まともな会話ができるほどにはならなかった。会社で中国の女

性を採用したこともあったが結局彼女が日本語を覚える方が先

になってしまいこれも全く習得できなかった。今もって外国語

コンプレックスが残る。息子たちは仕事の関係もあり英会話は

さほど不自由はしていないらしい。その才を孫たちが受け継い

でくれればGはそれをもってコンプレックスを埋めよう。

河原の水辺にはかなく生える。

 

日本人の年代別の構成から見ても、外国人労働者に頑張っても

ないとどうにもならない時代に差し掛かっているようだ。

効求人倍率がかってないほど高い傾向が続いているのは安倍

首相の経済政策の成果というよりも、この年代別構成の必然的

な結果と見えてしまうのだが・・・

外国語コンプレックスなどと悠長はことを言っていられない時

代がそこまで来ている。

 

 

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340-290726(番外編)鍼灸院であまりに気持ち良かったので・・

2017年07月26日 | 介護・医療・健康

番外編です。

5月頃から右腰の軽い痛みと張りを感じていた。日常生活に大きな

支障があるわけではないのであまり気にしなかった。以前いわゆる

ぎっくり腰が3,4回出たところだ。そのうちに治るだろうくらい

にのんきに構えていたが多少の不安もあった。消化器外科での所見

は内臓には異常がない。整形外科のそれは背骨を正面から見ると若

干曲がっいるが苦にするほどのことはない、椎間板に異常はない

とのことだった。湿布と神経ブロック注射を受けたが痛みが去った

のは1日だけ。

こうなると五十肩や膝痛で世話になった鍼灸院に頼るしかない。

旧知の先生なので実に丁寧に診察してくれた。そこで言われたのが

骨盤のゆがみ。ことばとしては知っていたが自分がそういわれると

思っていなかった。骨盤のゆがみって手で触ってわかるものなの?

電気刺激、鍼とお灸そして骨盤矯正術仕上げに入念なマッサージ。

ベッドにうつ伏せになりながら45分間、何とも気持ち良い時間が

持てた。これだけでも贅沢な時間だった。暫く通院してみることに

決めた。

 

月、火曜日に開かれた国会の閉会中審査の実況中継を見る。どう見

ても総理は分が悪い。このまま国の内外で突発的な大事件が起こら

なければ支持率は更にじり貧になりそうだ。真紀子外務大臣更迭で

落ちた支持率をv字回復させた小泉元総理の電撃的な北朝鮮訪問を

思い出す。これに匹敵する事件が起これば総理はリーダーシップを

揮し支持率回復。巡り合わせなんてこんなものかもしれない。評

価は分かれるが、この何年か実際に指導力を発揮してきたのは総理

であり、他の誰ないのだから・・・

こんなやりとりを院長としながらの時間だった。

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339-290722八ヶ岳の真ん中あたりを横断する

2017年07月22日 | 旅行

 安中市松井田の広大なこんにゃく畑。ここは北海道と言っても

通用しそうな光景。

 

八ヶ岳は長野県の東部に南北20kmにわたって連なる火山。

5万分の1地形図で表示されているいくつかのピークの総称。

その一番高いピークは赤岳(2899m)低いのが丸山(2330m)

火山特有の荒々しい爆裂跡があちこちに点在する。連山のほぼ

真ん中の夏沢峠を境にして北は比較的穏やかな山容、南は荒々

い山容であり、北の山並みは北八ヶ岳と総称されている。

夏沢峠の北、天狗岳の東斜面

最高峰赤岳を盟主とする南八ヶ岳の冬は積雪量はさほどではな

いが、西側にさえぎる山並みがないので猛烈な季節風に襲われ

る。その厳しい冬山は南北アルプスに勝るとも劣らないと言わ

れている。その昔無謀にも低気圧接近の予報が出ていた大晦日

から元旦にかけて登った。初めての本格的な冬山だった。本沢

温泉から膝上までの積雪を踏みしめて(人気あるコースなので

セルはされていたが)夏沢峠に出ると猛烈な西風にさらさ

た。硫黄岳下できて、ここから先は初心者(私のこと)が

ので危険とのリーダーの判断でたことが頭に浮かぶ。

下山してからこの荒れた天候で3人が遭難死したことを知った。

東京オリンピックが開催された年と記憶している。

 

この山域には立派な山岳道路が山並みの東西に走っており、北

八ヶ岳と称される山域を車で通過できる麦草峠で東西が結ばれ

ている。この峠も2000mを越る。幾つかのピークには登

った藪山探訪以外の登山をしなくなった現在、こんなに整備

れた道を快適に苦も無く山中に入れるはありがたい。

東から西へ峠を越えると蓼科高原の別荘地に繋がる。

 

今夜の宿までの距離は120km程度。あちこち適当に立ち寄る。

未知の史跡があったので寄ってみる。五稜郭と言えば函館、規

こそ小さいが全く同じ形状の要塞跡がこんな山中にあったの

だ。死角がなく防御に適すと書かれている。

奥村土牛記念美術館に寄る。たくさんのクロッキーが展示され

ていた。日本画家のイメージが強いが、展示物を見る限り日本

画家とは思えない。クロッキーは洋の東西を問わず画の基本だ

とは描くことを趣味とする友人に教えてもらった。

 

先にブログで触れた我が本家にあたる家はこの山並みの東麓、

湖畔の那池という集落の出と聞く。本家を訪問する旅の

でに高の宿に泊まり、白駒池から麦草峠を通り霧ケ峰ま

を伸ばてみた。

松原湖畔。冬には氷上で運動会が行われ、盛大にたき火が燃えた

とは祖母からよく聞いた話。

高原のホテルの夜、何十年ぶりに見た完璧な北斗七星。下の二

星の間隔を右に5倍ほど伸ばせば北極星を簡単に見つけられ

る。つれあい曰く、「線が引いてないのでよくわからない!」

もちろん→が天にあるわけもない。私は見上げた瞬間に判った。

北極星を画面に入れられなかったのは星座写真に素人ゆえ。液

モニターに星座は写らない。ちなみに撮影カメラはOlympus

stylus1、諸元は開放30秒、iso1000、f値2.8といった設定。

帰宅後パソコンで確たら、明るすぎて肝の星が不明瞭、

フトに力を借りて補正した。次の機会のために撮影要領を勉

ておこう。

夏のスキー場とアザミに蜜を求めて。

 

静寂な白駒池を一回りする遊歩道を歩く。2000m越えの

湖畔の散策はなんとも気持ちが良いものだ。ホテルに我らが

アイドル吉永小百合が苔に覆われた大木に寄り添う写真があ

った。つれあいは彼女と同じ年の生まれ。お前モデルになれ、

といって同じポーズで撮影した。そこそこには撮れたが、さ

すがに公開するのは憚られる。

霧ケ峰のニッコウキスゲの群落。こんなに貧相でも今年は良く咲

いた方だとは土産物店のご主人の話。

12年前の光景を期待して来たのだが・・・ 当時は草原の山

覆うように咲いていた。その原因の最たるものは鹿による食

害とか。お昼に立ち寄ったペンションのオーナーの話では山に

自生する野草には毒性の強いものが数々あるが野生鹿はその毒

に対する耐性を身につけてしまうとか。従って人と共存できる

範囲の総数で増殖を抑えるには猟銃かワナしか実効性ある方法

はないという。

 

 

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338-290715内部告発という正義?

2017年07月15日 | 小説・映画・など

 湖面の一シーン。 八ヶ岳白駒池にて  29.713 以下の風景写真は

白駒池及び霧ケ峰の貧相になってしまったニッコウキスゲ。

 

今週は図書館に予約しておいた本が手に入ったので読みふける。

本の名は「住友銀行秘史」という。小生銀行内部の権力争いと

縁遠いところで人生を送ったので、全く未知の世界が眼前に

展開し引き込まれるように読み進んだ。

内容を一言で表現すれば天下の大銀行内部の暴露物。著者は取

締役だった都市銀行のエリート。エリートバンクマンと暴露

何かそぐわない。読んでいくうちに暴露物とは少し言い過ぎか

なと感じるようになってくる。

時代はバブルが絶頂を迎えそしてはじけた1990年に遡る。

中堅商社イトマンと銀行の虚々実々のやりとり、エリート行員が

やり手の商社マンに翻弄される。写真は左上から時計周りで、イ

トマン常務の伊藤寿永光、在日韓国人許永中、イトマン社長川村

良彦そして当時の住友銀行会長磯田一郎の諸氏。2氏は有罪判決

を受ける。現在刑期を終えて70代前半で今を生きる。2氏は既に

故人となった。

巨大都市銀行の恥部をさらけ出した内容だった。こうした名前が

新聞を賑わしたことも記憶にある。著者はこう述べている。

  何かが起きている、

  このバブルを謳歌している日常の裏で、

  恐ろしい出来事が起きている。

  この手帳をつけ始めたのも、

  これは住友銀行史、

  いや、日本の金融史、経済史に残る

  大きな事件になると思ったからだった。

不動産の地上げ、商社の業務とは関係ない巨額の絵画の買い付

あの時代狂奔した有名無名の多くの会社、ろくな審査もせず

額の融資をした銀行、多くは不良債権と化しやがて大小の

金融機関が破たんした。

当時取締役だった著者がこのままでは銀行が破たんしてしまう。

何か手を打たなければとの思いを胸に日々変わっていく状況を

克明にメモ。あろうことか取締役の任にあるものが内部告発

となり、銀行の闇の部分を大蔵省銀行局長や日銀、やがては属

する組織の最上部に告発する。この内部告発が契機となり監督

官庁や捜査当局の手が入って腐った部分が摘出される。

登場する人物はごく一部を除いて実名、現在生存中の方々も登

するのですごく生々しい。最近まで日本郵政の社だった西

善文氏、大蔵省土田正顕銀行局長などなど。今も現役で活躍

中の諸氏にどうやって許可を得たのか? 昨年この本が世に出

るまで著者が内部告発の当事者だったことは関係者にも知られ

なかったい。正直本当かいな? との違和感もある。

 

時代は流れ、内部告発は正義とされ、告発者が守られる法律ま

ある時代だ。しかし小生内部告発という行為がいつの場合も

正義であるとはどうしても思えない。巨大な組織はこういう手

段に寄らなければ正されないという意見も十分に理解できるが、

中小企業の管理者としての経験に照れしてみれば、これが契機

となって会社自体が無くなってしまうこともある。そこまでに

はならなかったがつらい目にもあった。

今若い世代は起業という言葉に魅了されているようだ。どう時

が変わろうと、組織を構成するのはロボットではなく生身の

誘惑には至って弱い人間であることを肝に銘じておくことが肝

と思い至った次第。

 

 

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337-290708女城主直虎と当地の意外な関係・・

2017年07月08日 | 小説・映画・など

 山の緑に包み込まれる碓氷峠アプト式軌道跡。

 

先週の東京都議選で自民党候補が軒並み落選して議席数が半分

以下となった。ある程度は予想されたがここまで落ち込むとは

なかった。各紙の論調にあるように小池都知事支持というよ

意識の高い都民の安倍政権への不満が噴出したというのが

因か。1年前のイギリスの国民投票から始まってトランプ勝

利、フランスの若き大統領の誕生、イギリス保守党の敗北など

など要国で民意の大きなうねりが続く。変化を求める

声が投票を通じて反映する仕組が機能していることに安する。

某国とはさすがに違う。

 

さて、今週は当地と徳川譜代の大名井伊家との関係について。

日曜日の大河ドラマはあまり見ない。しかし今年は直虎という

戦国時代の井伊家を支えた女性が主人公くらいは承知している。

詳細な系図は知らないが、この女性の従弟あたりに当たるのが

直政か。関ケ原の戦いの後に、直政が当市郊外箕郷にある長野

業政の居城だった箕輪城に移ってきた。

箕輪城は建物こそ残っていないが典型的な山城としての掘割や

ら馬出し曲跡が見事に残っている。時代は戦い中心から経済

中心に移行していく。山城では何かと不便、直政は山から降り

関東平野北端に位置する当市を城下町として整備した。当市に

とっては恩人。治世わずかで戦場でのが悪化して世を去る。

直政の妾腹の子が直孝。少年期を安中市郊外下後閑の北野寺で

過ごす。長じて幕府に出仕し、戦いと縁を切った徳川幕閣の一

翼を担う。二代将軍秀忠か三代家光の頃。そしてこの系統が幕

末の幕府大老直弼に繋がっていく。

直政と箕輪城は知っていたが、その後の井伊家との関係はあま

り知なかった。両市はこれほどに井伊家と関係があるのに、

滋賀県彦根市と姉妹都市関係等のお付き合いがあるとは聞かな

い。何故?

町内の長寿会主催の「井伊家と安中」探訪の催しに初めて出席

してその後の井伊家について知ることができた。安中市のいく

つかの寺が保管している井伊家に関する古文書が沢山陳列され

ていた。軽井沢に繋がる旧街道沿いの入山という集落に代々受

がれた有名な井伊の赤備えと言われる甲冑が眼を引く。

皆さんご高齢なのに識欲が強いのに驚く。私も負けられませ

ん。

 

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336-290701念願のルーツ探しの旅

2017年07月01日 | もろもろ

 アジサイと石段。郊外の観音山丘陵にて。

最近NHKテレビの影響を受けている。一つには苗字の由来を知る

こと、一つは関連するがファミリーヒストリーと称する歴史旅。

いずれも手間暇かかることゆえ現役引退後にやろうと思っていた

こと。

我が家のお宝かもしれないが明治42年に長野県北佐久郡岩村田町

(現佐久市)発行の〇田家の戸籍謄本がある。これを見ると父方

ること文政時代まで辿り着く。ほぼ200前だがここまで血

が繋がっているわけではない。幕末に千葉県鋸南町勝山(県庁に

い合わせ千葉県平群郡加知山町が現在の勝山と知った)出身の

男と京都見出身の女が両養子で家を継いでいることが判る。徒

歩での移動のみの時代にどういう縁だったのか? 男の方は親が

共に士族であり、それぞれの江戸藩邸での付き合いがキッカケと

の推理もできるが、女の父親平民文殊源四郎とは何者でどんな関

係なのかは全く不明。

跡継ぎの実子に恵まれなかったか夭折してしまったのだろう。

当時としては殊更珍しい事ではない。

      

 

この〇田家の次女として明治15年に生またのが私の父方の祖母

だ。私の姓〇池はこの祖母が〇池喜録と結婚たこで私に関

してる。喜録の旧姓は長野県東部や山梨県に多い新津という

前と聞いた。りからがややこしくなる。本来ならば私の

津であるのが直なのに・・・

時間がたっぷりとあるというのはこんな時は大助かりだ。長野県

久郡小海町の電話帳をネットで見る。その中で土村という集

(祖母からよく聞かされていた)の30軒ほどの新津姓の方に

にピックアップしたそれらしい方に電話してみる。

 最初の新津さん「うちは分家なので本家の電話を教えるからそ

らに電話して。」

 教えてもらった本家の新津さん「新津サダオという人は聞いた

とがあるがよくわからない。お隣が学校の先生だった人で本人

は亡なったが奥さんが90才を越えているが元気なので判るか

もしない。」 

お隣の新津さん「土村の新津から千曲川の対岸の西馬流回天堂

いうお医者さんに養子に行った人がいると聞いている。10代の

ころ〇池捨松という村医者の診察を受けた記憶がある。」

その息子さんに変わる「母親の代より昔なのでよくわからないが

ここに住む新津の菩提寺を教えるからそちらで過去帳を見ればは

するのでは。」

ここまでで、祖父(新津喜録)が〇池家に養子に入り〇池と名乗

り、そこに祖母は嫁いだ。生まれた長男が私の父であ

ていた事はほぼ裏付けられた。日露戦争勝利で日本中

っていた頃の話。なお新津サダオとは新津喜録の実兄か

実兄の子供らしい。

ここまできたついでに今度は小海町馬流に6軒ほどある〇池さ

電話してみた。最初の電話で自己紹介してからお話を伺うと、

天堂医院と〇池捨松の名を知っていた。捨松のひたる女

だった。「回天堂医院は捨松先生だった。トオルて私の父

オウイチと繋がっている。母親(オウイチの妻)はており

認知症状が出ているが昔のことはよく覚えているから、話を聞く

なら今です。」との返事を頂く。近いうちにお訪するを約

束して受話器を置く。

〇池捨松、トオルという実子そしてその娘さん。さんが最

の電話に出る。なんという都合の良い偶然。私の祖父(〇池喜

録)は養子に入ったが実子が生まれて追い出されたケースな

のか? 私の父親が小海町で生まれて東京で育った理由の一端が

解った。ここまで判明したからにはぜひともオウイチさんの未亡

人に会いを聞いてルーツ調べの一つの結論をだそうと思い至っ

た次第。

 

取り立てては何もない、ごく平凡な一族。私に流れる父方からの血

は2方向に延び、1本は房総半島勝山や京都伏見と入り込んで闇に

消え、1本は祖母から聞く八ヶ岳山麓を闊歩した馬喰と姿を変える。

もしかしたら武田信玄に仕えた侍に繋がっていたりと勝手な想像が

膨らむ。たかだか150年の間でこうなってしまう。血筋とは200年

も経てば脳神経の網の目のように複雑に入り組んで日本中に貼り巡

らされてしまうことを実感する。これが血が薄いということなんだ

ろう。徳川300年という時間を考えてみる。

 

私が最年長なってしまった以上、たかが150年だが一族の変遷を

まとめておくのは責務と受け止めている。身分と目的を名乗った上

での電話だったが、突然の電話にも不審感持たずに付き合ってく

れた小海町土村の新津さん、同じ馬流の〇池さんありがとうござ

いました。

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