国民の側を見ていない人々のことを、「忖度人」と名付けるならば、司法の世界にも広がっているようにみえる。判決の動向が、権力側からみてどうなるかを考えて判決をしているのではないか、と思い始めている。
裁判官の任地先は、全国至る所にあって、僻地ばかりをまわったり、あるいは、突然僻地に行かされるとならば、裁判官も人の子である。子供の教育のこともあるし、自分の出世欲ということもあるかもしれない。裁判官としての出世コースを歩みたいというのが、心の奥底の底流にあってもおかしくはない。
それは、支配者側に立つ判決が、多くなることを意味する。弱者の側に立つような判決をすると、目をつけられ、僻地へ飛ばされる憂き目に会うのではと忖度する、そして、事実そうなる古い体質が,現実の司法界にあるとみている。
役所でも、それぞれ、歴史があって、国民と接点の多いところ、また、なにか事件があって、注目を集め、組織改革をやらなければならなくなったような組織は、窓口の対応だったり、設備についても、相応の配慮がなされ、見違えるほど改善されたりするものである。
権力を振り回すだけでよく、愛想を振りまく必要がなければ、その役所は、役人は、尊大に、上から目線のマイペースで、業務をするのである。司法はどうだろうか。行政ににらまれることを恐れて、内部的には、行政側に向いているのではないだろうか。なかに、骨のある裁判官がいたとしても、目立てば、必ず、僻地へ、飛ばされているだろう。
検察も外からの批判を浴びにくい組織だろう。戦前は言うに及ばず、常に権力側の中枢組織の一員として、正義を貫くことをやりきれるのかといえば、かなり怪しい。ここも忖度を始めているとみている。
これも、長期政権の副作用であり、権力が集中すると、腐敗を始めるといわれる、その表れが、でてきているのではないかとみる。
国民一人ひとりがよほどしっかりし、見る目を育て、権力の動向や、官僚の動向、資本の動き、世の中の森羅万象を理解し把握する眼力を持たなければ、怪しい俗説や、たくらみにやすやすと騙されてしまうことになり、挙句の果てに、兵隊として、かわいい子供や、孫を悲惨のどん底に突き落としてしまうことになりかねない。
しっかりしないと、とんでもないことになることを自覚して生きていかなくてはならない。生まれた以上は、この社会を、生きている世界を、なんとか良くしようと真面目に考え、努力するべきだ。
金を儲けたものが勝利者だというような、単純な考え方で終わらずに、勝利者となれば、そこから視野を広げて、世の中を良くするために自分はなにができるだろうかという視点を持ってほしいものだ。