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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

「権力」をみて忖度する人、そうでない人

2019年06月15日 12時07分32秒 | 思考試行

 国民の側を見ていない人々のことを、「忖度人」と名付けるならば、司法の世界にも広がっているようにみえる。判決の動向が、権力側からみてどうなるかを考えて判決をしているのではないか、と思い始めている。

 裁判官の任地先は、全国至る所にあって、僻地ばかりをまわったり、あるいは、突然僻地に行かされるとならば、裁判官も人の子である。子供の教育のこともあるし、自分の出世欲ということもあるかもしれない。裁判官としての出世コースを歩みたいというのが、心の奥底の底流にあってもおかしくはない。

 それは、支配者側に立つ判決が、多くなることを意味する。弱者の側に立つような判決をすると、をつけられ、僻地へ飛ばされる憂き目に会うのではと忖度する、そして、事実そうなる古い体質が,現実の司法界にあるとみている。

 役所でも、それぞれ、歴史があって、国民と接点の多いところ、また、なにか事件があって、注目を集め、組織改革をやらなければならなくなったような組織は、窓口の対応だったり、設備についても、相応の配慮がなされ、見違えるほど改善されたりするものである。

 権力を振り回すだけでよく、愛想を振りまく必要がなければ、その役所は、役人は、尊大に、上から目線のマイペースで、業務をするのである。司法はどうだろうか。行政ににらまれることを恐れて、内部的には、行政側に向いているのではないだろうか。なかに、骨のある裁判官がいたとしても、目立てば、必ず、僻地へ、飛ばされているだろう。

 検察も外からの批判を浴びにくい組織だろう。戦前は言うに及ばず、常に権力側の中枢組織の一員として、正義を貫くことをやりきれるのかといえば、かなり怪しい。ここも忖度を始めているとみている。

 これも、長期政権の副作用であり、権力が集中すると、腐敗を始めるといわれる、その表れが、でてきているのではないかとみる。

 国民一人ひとりがよほどしっかりし、見る目を育て、権力の動向や、官僚の動向、資本の動き、世の中の森羅万象を理解し把握する眼力を持たなければ、怪しい俗説や、たくらみにやすやすと騙されてしまうことになり、挙句の果てに、兵隊として、かわいい子供や、孫を悲惨のどん底に突き落としてしまうことになりかねない。

 しっかりしないと、とんでもないことになることを自覚して生きていかなくてはならない。生まれた以上は、この社会を、生きている世界を、なんとか良くしようと真面目に考え、努力するべきだ。

 金を儲けたものが勝利者だというような、単純な考え方で終わらずに、勝利者となれば、そこから視野を広げて、世の中を良くするために自分はなにができるだろうかという視点を持ってほしいものだ。


なにかしらの課題をもって生きる・・・

2019年06月14日 22時43分35秒 | 思考試行

 ものごごろがついて以降、なんらかの課題をもっていきてきたような気がする。学生の頃はもちろん、職についてからも、徐々に、仕事の量を減らしてからも、なにもすることがないという日は、ほとんどなかったように思う。

 人間が動物である限り、じっとしていることはできない。身体に変化がある。食欲があり、排泄があり、とにかくジットしているわけにはいかない。

 いよいよ、もっとも大きな要素である、仕事もしなくてよくなるというか、できなくなって、さて、今日は何をするか、という場面がでてきそうな年齢が近づいてきた。

 今は、わずかに、残った仕事をしているが、それでも、減った割には、それなりに、生活の中で、大きな部分をしめていて、時間的には余裕があるのだけれども、完全には解放されているとは思えないから、仕事を背負っているという感覚からは、まだまだ、逃れられない。

 ただ、さすがに、時間の余裕があるから、自分自身のために使う時間が増えてきている。ビデオなんて、こんなに見ることはできなかったし、小旅行も簡単に行けるようになってきた。バス旅行も経験した。

 これから、いよいよ本格的に人生を楽しむという時期を迎えようとしているのかもしれない。俳句などもようやく、手馴れてきて、もっと真剣に取り組もうかなという気分がでてきている。そう簡単にはうまくなれないから、この趣味は結構良さそうな感触をもっている。

 簡単そうにみえて、とても奥が深そうである。そして、人により、評価が違い、絶対という価値観ではくくれないところも魅力的だ。それでいて、上手下手は、わかるし、要するに自分がどう思えるか、どう感じるか、物の見方が関係してきて、いいものはいい、というものは、はっきりあったりして、面白いのだと思う。

 趣味もまた、課題を抱えるから、そんなことをしているうちに、人生を終えることになるとすれば、それで幸せと言えそうである。

 


パソコン致命的な故障!?と言われたが・・・

2019年06月13日 16時48分32秒 | 思考試行

 電源を入れて、起動しようとすると、パソコンメーカーのロゴだけでそれ以上、すすまず止まってしまい、いろいろF12,F2など押しても反応がない。サポートセンターに有料登録していたので、早速聞いてみると、「これは、致命的な故障と思われる」として、データーの取り出し方についてのアドバイスがあった。

 データーまでこわれてることはないと思われるので、内蔵ハードディスクを取り出し、外付けのハードディスクに変換したいと、電気屋さんに相談したらどうか、ということだった。

 パソコンの年式も古そうだから、新しいパソコンを導入するとして、相談すれば、対応できる、店はあるのでは、という話であった。

 サポート電話を切った後、どうもコンピュータが壊れているとは思えず、最近外付けスピーカーが、断線のため調子がわるかったので、スピーカーをとりかえたのだが、それが原因ではないかと、思いついて、スピーカの端子を抜いてみて、実行すると、はたして、無事に起動して、正常に戻った。

 どういう具合でそうなるのかは不明だが、コンピューターサイドの事情で、そうなるということがわかり、事なきを得た。起動してからスピーカをつないで支障はなかった。

 サポートセンターの言うとおりにするとなると、相当な労力が必要だし、費用もかかる。ロートルの当方とすれば、途方もない負担である。そして、対処方法の方向もまちがっている可能性がある。

 電話だけの相談だから、無理はないが、このアドバイスを実行していたら、エライことになっていた可能性が高い。アチコチ、問題が噴出しそうである。

 ちょっとして思いつきで、困難な状況から脱出できたことは、まことに嬉しい限りである。ただ、精密機器であり、いつ壊れてもおかしくない代物であることを、再認識して、本当に壊れた時の対策を真剣に考えておかなくてはと思い知らされたことだった。

 


結局のところは国民をないがしろにしている

2019年06月12日 00時01分44秒 | 思考試行

 金融庁の報告はうけとらないと麻生財務大臣。年金の状況と、65歳以上の老人世帯の収入状況から、100歳まで生きるとすれば、2000万円足りないから、自助努力せよといいう話で、エライ問題になっている。

 そもそも年金が、モデルとはいえ、20万円あって、あと5万円足りないからその分ということだという。とにかく、2000万円を貯めろというところが、引っかかるわけで、そんなに貯金などできないのが実態のなかで、無神経にそんな話をもちだすものだから、騒然となるのは、当然のことだろう。

 問題が、明らかとなって、困ったのか、発表したあとで、そんな文書は受け取らないと大臣がいう。この国は、いよいよややこしい段階にはいったということか。

 一連の流れは、国民の実態を本当に知らず、一人ひとりの生活に関心をもたずに、政権が動いていることをあきらかにしたのではないか。

 一人ひとりの暮らし向きを、キチンとみているならば、格差社会を広げるようなことはしないだろうし、統計をとっても、たった一つの、意味あるモデルなんて作れるはずがない。それこそ、何例ものモデルが必要であり、たった一つのモデルというわけにはいかない。

 生活実感と全然あわないモデルなど何の意味もない。

 政権の誰もが、国民のことを真剣に考えていないとすれば、国民サイドはどうすればいいのだろうか。

 どうやら、あまり問題だとは思っていないようにみえる。安倍長期政権の流れを概ね是認し、言抜けやら誤魔化しについても、知っているはずだが、それも含めて、支持しているふうである。

 そんなことでいいのだろうか。しかし、雰囲気はあきらかにそうだ。


いろんな問題は選挙の後へ

2019年06月11日 12時35分00秒 | 思考試行

 政治家にとって、選挙が大事なので、政権与党は、自らの支持勢力を維持し拡大するために、政治課題や都合の悪いデーターなどの発表時期を考えている。すべては、先送りである。参議院選挙後だという。

 年金問題が、いよいよ実は大変になってきていて、そこから、自助努力の話になり、羽鳥モーニングショーのテーマになっていた。

 年金が、こんなに大変だということが、果たして知られているだろうか。現行法律では、みんなこの仕組みから逃れる術はなく、掛金をかけ続けているが、はたして、自分が年金をもらう頃、この制度が破綻しないでやっていけてるのか、そして、年金額が、老後の生活を支える柱となる金額なのか、という不安である。

 100年安心などと言い続けてきたあげくが、この話である。国会は、自民党多数のなかで、討論もなし、データー発表も参議院選挙後だとか、自民党はすき放題にしている。選挙制度が生み出した、少数による全体支配である。その弊害がはっきりとでてきた。

 そして、恐るべきことに、これらを報道しているチャンネルは、今朝は、6chだけである。NHKは、きくらげの戻し方を云々していて、特集しているのである。これで、いいのかという話である。

 国民の目をそらし、政治に関心をもたせず、寝ていてもらいたいというのが、自民党の、本音だとすれば、マスコミ対策も万全ということのようだ。

 年金問題は、団塊ジュニアのジュニアの時代に、完全に問題が露呈してしまうという。時期も問題もわかっているのに、誤魔化しをし、先送りをする。この国はどうなってしまうかと、コメンテイターは、憤りを隠さない。

 大きな問題を抱えて、麻生財務大臣は、官僚の準備し、公表された文書について、読んだかと聞かれて、冒頭の一部のみで、全体は読んでいないと述べた。正直なものである。実際それは、読めるほどの力量も根気もないことを告白したものであり、言外に皆さんは読んでいるのですか、ぐらいの反撃を含んでいる。

 こんな開き直りが通ってしまうのは、まさに、世論の動向による。静かに、かれら支持基盤に、地殻変動が起こっていればいいのだが、どうやら、かれらの不勉強、問題先送りの、正直ぶりは、成功している気配である。

 ということは、かれらのリードのもと、日本は、行き着くところまでいくほかないようだ。マスコミを抱き込み、富裕層、にいい顔をして、弱者をいじめつけ、これでもかと格差社会を作っても、どこまでついてくるのだ、と思っているのかもしれない。

 本当の識者にだれもがならなければならない時代がきたようだ。お任せなんてしていれば、とんでもない世界を経験せざるをえないこととなりそうだ。


人を動かす、動く

2019年06月10日 16時13分26秒 | 思考試行

 キチンと内容の説明をして「依頼」するというのが、本当だとは思う。依頼するとなると、なんらかの報酬が当然必要だろう。それができないのなら、「お願い」である。相手が承諾してくれれば、無報酬でしてもらえることができる。まあ、少し借りをした、ともいえる。

 ところが、窮状をエンエンと述べるのだが、いろいろこちらが、考えて対策を考えるように仕向けて来る人がいる。要は、こちらが、相手の依頼ということではなく、「勝手に」その仕事をやってやろうという形にしたいということである。

 こちらが、「やりましょうか」と言うのを待っているのである。それなら依頼はしていないし、お願いもしていないという考えのようである。

 いままで、何人か、そういう人々にあった経験がある。仕事が終わった時に、言葉丁寧にお礼をいえばよし、それすら不要と考えているひともいた。

 時間と費用がかかろうとも、こちらのことよりも、「自己都合」が優先しているので、こんな風の「依頼」があれば、すぐに解るので、できることは、もう、こちらから、すすんで言うことにしている。

 相手は、無報酬でやってほしいので、(無意識的にと思うが。)その要望には、気持ちよくそのように対処しることにしている。

 相手は、少々、筋を外れていても、これぐらいはやってくれて当然と思っているのだろうし、すくなくとも、人の役に立つことだから、こちらが、そうして悪いはずもない。

 だが、現実に、経費がはっきりかかり、現実にこちらの持ち出しになることは、内心、面白くないと考えていることは、自分自身には隠せない。

 ただ、相手には、そんな風を出しては、何のためにやったのか、すべては反対効果をうみ出してしまうから要注意である。やるなら、気持ちよく、損するときは、損を受け入れるのである。いつも得なことばかりを図っていては、世の中面白くない。

 この辺を世間の人たちは、うまく助け合い、譲り合っているのではないだろうか。気持ちよく生きるか、不足だらけで生きるかの分水嶺のような気もする。

 


[僕のワンダフル・ライフ」「はじまりのうた」をDVDで観た。

2019年06月09日 18時45分24秒 | 思考試行

 このところ、ツタヤで借りたDVDを、ほぼ毎月観ている。特別会員となり、毎月会費を払って、古いDVDなら5本まで一度に借りられる。会費のみで、返却期間は定められていず、おちついてみられるし、このところ続いて、映画鑑賞をしている。

 いつもは、テレビでこれといった番組がなければ、DVDの登場となる。誰かと話し合うためにみるのではないから、少々古くとも、問題ない。このシステムのおかげで、もうかなりの本数をみた。いつもは、日をおいて、1本ずつみるのだが、昨日は、始めて、続けて2本を観た。

 「僕のワンダフル・ライフ」は、犬を主人公にして、人間との関わり合いを題材としつつ、人間同士のことが、さわやかにえがかれている。若いカップル向けの映画だなとみた。人生に希望のもてる、生き方の基本の考え方が、真正面から提示される。そして、説得力がある。「ビー・ヒア・ナウ」の犬の英語のセリフが、聞き取れた。字幕だから、ほとんど英語のセリフなど聞いていないのだが、これは、簡単だから聞こえたのだろう。

 「あるがままに生きる。今に生きる。」というぐらいの意味だろうか。日本でも、よくきく、生き方の要諦である。さわやかな作品で、洋画でもこんな映画があるんだと感心した。

 もう一本の「はじまりのうた」は、まさに、ミュージシャンの話であって、これこそ、音楽を中心に生きている人々が登場するが、話のつくり方が丁寧で、特にラストシーンの「深さ」には感心した。これこそ、映画である。ハッピーエンドと簡単にはしない、ストーリー展開には、映画製作者の人間観察の鋭い洞察がある。

 これもまた、観客同士が、感想を話し合ったとすれば、見方について、深いところでの共感が生まれることだろう。音楽の持つ魅力や、これらの曲がヒットしたのかどうかなどは、調べてはいないが、きっと、ヒットしているのではないかと思えるのだが、音楽のよさについては、登場人物ほどには、思い入れがない当方としては、鑑賞しきれていない憾みがある。それは致し方ないとしても、人間関係の心理的なやりとりには、これまた、感心させられた。

 日本映画も頑張っているのだろうが、どうも、質的には、ちょっと洋画に、負けているように思えてしまうのは、洋画にはそれぞれの人物の個性が、日本人の場合と相当の違いがあって、完全に負けているとは思いたくないが、それでも、個人の強さの違いを感じる。

 ドラマ作りにしても、相当の力の差を感じてしまう。この作品もまた、素晴らしい力作であった。


生活態度について

2019年06月08日 18時27分07秒 | 思考試行

 日頃の暮らし方について、どういう心がまえで生きているのか。子供達をどのようにしつけているのか。子育てをどのようにしているのか。介護の問題をどう処理しているか。人は、人生のそれぞれの時期、課題を抱えて暮らしている。

 時期時期の課題について、きめ細やかな対処がされているかどうかで、人生は、随分変わったものになる気がする。

 視野広く、深く、その考え方で、人生を、どこまで見通せているか、政治家はもちろん、経営者もそうだし、資本家もそうだ。もちろん、社会の構成員としてのわれわれ凡人もまた、そうでなければと思う。そのなかで、とりわけ、大きな力を持ったものは特に、心がけなければならないことである。

 そのことによって、世の中がどのように変化するかは、もちろん、それぞれが実行しなければ起きないことだが、もし、本当に実行されるならば、必ず、大きな変化をもたらすと思う。

 どこか尊大に廊下を歩く政治家が、どんな表情で歩いているか、かるく会釈をするように手をあげているその表情から何が読み取れるか、国民や世界の、いきとしいけるものに、思いをいたすこころを、はたして、持っているのだろうか。

 国益を声高に叫ぶことを躊躇せず、なにかしらの利害関係のみで動く人々ばかりでなく、それぞれが、すこしでも広い視野からの見直しを始めるとするなら、考え方、政策のあり方、話し方、伝え方は変化するに違いない。

 一人ひとりにとっては、自分のみのことだから、日々の行動について、点検する思いで暮らすならば、表情はどうなるだろうか。人々がどんな表情で歩いているか、観察すれば、何事かみえてくるはずである。政治家や有力者ばかりではなく、行きあう人々のそれぞれの表情はどうだろうか。

 それぞれの課題をかかえ、悩みをかかえ、また、夢を描きながら、あるいは生活のあれこれを考えながら歩いてるのだが、その表情の中に、深い思考、広い視野、思いやり、宇宙の中の、地球上の人間としての、眼差しがあるかどうか、できれば、そんな眼差しを持つことを、自分は、実行していくんだと心を定めたい。

 眼差しだけであれば、なんの負担もない。そう思えるかどうかだけのことである。そして、それは細部にわたって影響が出てくる。完全にはできないのは当然だけれども、かなりのことがやれるはずである。

 実行といえば、結局は、悪いと思うことをせず、いいと思えることを実行することになる。眼差しなど、どうでもいいのかもしれない。いや、入口はどちらでもいいのかもしれない。


密度濃し・・・問題解決の数理

2019年06月07日 00時38分47秒 | 思考試行

 放送大学の科目に「問題解決の数理」という科目がある。なかなか骨がおれる。実社会では、数学が、さまざまな分野で使われており、われわれ一般庶民は、そういう緻密な計算のもとに、世の中が動いていることを、詳しく知っているわけではない。

 確かに、利益を出すために、原料をどれだけ仕入れて、労働時間がどれだけかかって、機械をどう動かすか、利益を最大にするために、どれだけ生産しなければならないか、製品の種別にどのような割合がいいのか、などなど。どこの企業も計算をせずして業務をすることはできない。

 計算せずに、無駄なことをしていれば、競争に負けることになるし、社会のあちこちの部面で、計算がなされている。問題解決の数理は、それを取り上げているのだ。

 この手法をマスターすれば、大したものだと思うが、この科目の眼目は、問題を数式に定式化することを眼目にしている。定式化して、あとは、コンピュータで計算させるのである。多くなると、何万という数式になったものの計算だから、とても手計算では不可能だ。

 定式を立てるだけでは、気持ちが悪いとして、解き方についても記述されている。流し読みでは、とても理解できない。少しずつ、文字を追っていくのだが、すっかり解ったというふうにはならない。基礎知識が足りない面もあって、そこまで遡って、やりなおさなくては理解できないということなのだろう。

 思えば高校数学で、相当躓いた。時間をかけてやり直しの挑戦を継続中であるが、これが、またなかなか進まない。といっても、問題解決の数理で扱うのは、一次方程式の連立の形だから、難しい数学を使うというわけではないが、それでも、解法のテクニックなどは、簡単には理解できない。

 一応通信指導の解答だけは、期限までに送付できたのだが、完全に理解できたのではなく、やり方を真似てようやく解答できた水準であり、今後は、単位認定テストに向けて、どれだけ実力をつけていくかである。

 理系肌目でね、と言いながら、文系でブイブイ言わせている人がいるが、いさぎいいようにみえるが、要するに、人生の非常に面白く、大切なところをすっとばしている人だと思う。

 この理系の苦労を知らずして、やれ、理系は情緒がない、人見知りする、リーダーとしての才能がない、などと簡単に、いうけれども、理系こそ本質にふれている人々であり、もっと尊重しなければならないのではないか。

 数学は、知らないといって、理系の人を、不器用だとか、真面目なだけで、面白みがないとか、軽い扱いをして、自信満々でいる人をみると、ちょっと間違ってんじゃないのといいたくなる。


まずは生きること・そして、よりよく生きること

2019年06月06日 00時02分17秒 | 思考試行

 この世に生を受けた以上、必ず最後を迎える。それまでの間どう生きるかということになる。相対的な優者となるのか、ほのぼのとあったかく、助け合って生きていきばいいのか。自分の地位や名誉や富を守るために、人を人とも思わず、クイモノにし、弾圧し、殺し、なんでもすると思って生きるのか。

 世の中は、不合理だらけであり、理屈通りにはいかない。不公平なことが山ほどある。悲劇に満ち満ちている。そして、それを隠す。そんなこと隠せるわけがないといっても、支配者は、恥ずかしげもなく隠す。そしてその秘密をばらそうとすれば、弾圧する。

 そんなことがあるのかというのが、現実である。地球上は、とにかく不公平にバラバラに、事がすすんでいる。それでいて、いきとしいけるもの、すべては美しく、すばらしい完成度である。神秘であり、神がかっている。だが、人間が考える神はどうみても、合理的とは思えない。とても意志を持つ存在とは思えない。やっていることが無茶苦茶である。

 平常に静かな世界であれば、神は、いるかな?とも思えるけれども、視野を広げるならば、とてもそうは思えない。それでも神がいるなんていう人は、あきらかに、目をつむっている。あるいは、世の中を直視してはいない。見たくないものは見ない主義だろう。

 では世の中はどうしてできたのか。生命は、物質の組み合わせでできているのは確かなのだが、生きているということが、どうにも人間には解せない。いくら、科学技術が進歩しても、生命そのものを作り出すことができないものだから、神にはかなわないということになる。だが、神が生命を作ったのかどうかは、実は解らない。

 人間にもできず、神にもできないとすれば、だれがこの生命体系を作ったのか。この説明も人間はし始めている。もちろん仮説であるが、説得力のある説が、出てきていることは、心丈夫なことである。

 とにかく神秘化したり、わからないものだ、と規定してしまうことが、人間に災いをもたらしてきた。わからないことはわからないとしつつも、今は、わからないだけだと思って、いずれは説明がつくと考えることが、健全に生きる要諦である。と思う。


すべてはいつか必ず解決する

2019年06月05日 00時05分36秒 | 思考試行

 今や、科学技術の発展は、先の先まで見通せるようになってきた。太陽系の運命まで見通している。今や、誰にも常識となっており、時間はだいぶ先だけれども、地球は必ず、でかくなってくる太陽に吸収され、すべてのものは、あとかたもなくなくなることになる、ということを知っている。

 先の先まで見通せるということは、虚しい思いをもたらすのだろうか。今、人類の歴史は、西暦で2019年でしかない。それ以前もわかってはいるが、ともかく、キリスト以後、たったこれだけしか人類の歴史は経っていない。

 だが、気の早いことで、先の先まで、見通す人々が出てきた。解らないのではなく、わかるのである。太陽の振る舞いやら、なんやらをみていて、それがわかるというのだから、人間は大したものである。

 我々は、どっちにしても、反論する術をもたない。言っている人間は、ある水準以上の人間であって、その常識を我々は信仰しているだけかもしれないが、どうやら、そんな信仰の世界ではない。あきらかに、迷信ではない確証を、あるレベル以上の人間は、把握していて、まさに、常識として認識されている。

 これが、得体のしれない絵空事かどうかについては、各自が判断しなければならないが、さすがに、表立ってこの学説に反対する動きは見られない。

 だが、現実には、誰がなんと言おうと、そんなことには聞く耳をもたず、聖書の記述だけが正しいという人々がいる。それらの人々が、世の中を動かす、現実の政治的な力となっているという。

 そんな馬鹿なことと言おうと、現実にあらゆる情報を遮断して、その信念で生きている人々がいる。これには絶望的な思いを禁じえない。

 どのようにして、人間らしく、合理的にお互い過ごしていくことができないものかと、いくら嘆き悲しもうと、聞く耳をもたないと決心した人々を説得することはできない。ましてや、その根拠を示せるほど、こちらも、専門的な知識の持ち合わせはないのだから、切歯扼腕する他ない。

 それでも聖書をそのまま信じているという人々を、そのままにしていいのかと言えば、それには賛成できない。そんな人々の声が相対的に大きいとすれば、そこに世の中を改善する、一つの着手開始点であろうとは思う。

 偏見は、おそらく、この世に満ち満ちていて、それが地球上の人類の正常な発展を阻害しているのは間違いないと思うが、歯がゆいことである。

 だが、必ず、地球はなくなるし、あれやこれや、すべては意味がなくなり、解決することは明白なことであることを知ったうえで、死ぬまで生きるということになる。


西宮冷蔵について・・・支援しないなんて驚くべきことだ。

2019年06月04日 00時35分59秒 | 思考試行

 なんということか。日本人であることが恥ずかしい。雪印は、何の反省もしていないのか。西宮冷蔵のなんともお気の毒な状況に、ここまで追い込んできている関係企業に、怒りを禁じえない。

 日本の経営者は何をしているのか。恥ずかしい限りである。どこも動いていないのか。維新は何をしているのか。気の毒だと思わないのか。正義は日本にはないのか。

 政府も何の動きもしていないのか。正義には、「忖度」しないのか。偉そうな顔をしている場合ではない。正義を貫いた人が、ひどい目にあっている。

 こういうことを16年も放置していたとは、どういうことか。NHKは、よく報道してくれた。これを見て、国民はどう思って、どう行動するかである。第二、第三の報道・続報を続けてほしい。

 直ちに、この気の毒な状況に、支援の手を差し伸べてほしい。このまま、西宮冷蔵がどうにもならないとすれば、日本は、本当に信用ならない国であるということだ。

 こういうことを平気だやってのけるとんでもない国だということだ。教育からモラルから、嘘っぱちだらけであるということだ。 

 ああ、何と恥ずかしいことだ。雪印の製品は、もう買わないことにするか。雪印は、反省したのであれば、西宮冷蔵と契約すべきではないか。告発してもらって、よかったとならないのか。そうすることによって、反省していることがはっきりするし、当然そうすべきだ。

 この西宮冷蔵の窮状をみて、なんとも思わないのか。その神経を疑う。人道に悖る。直ちに、対処すべきである。

 それから、新たに、不正を持ちかけられて、拒否をしたことで、増えてきていた、取引先が手を引いたという。これが恥ずかしい。なんということをするのか。日本国中、不正がまかり通っていて、みんなそうしているということなのか。正々堂々、やるべきことをやり、恥ずかしくない会社経営をしているのではないのか。ごまかしだらけの経営なのか。

 そんなこともできないようでは、日本は、一人前ではない。どうしようもないヤクザ国家だということだ。

 マスコミは、この問題をもっと取り上げるべきだ。公明党はどうしてるんだ。君たちは正義の味方ではないのか。共産党はどうだ。立憲民主党は。自民党は。みんな動かないのか。

 社会正義にこんなに明確に反することがあって、なんの対処もされないとは、驚くべき無神経である。ただちに、動くべきだ。なんという恥ずかしいことだ。


地位も名誉も富もいらないが

2019年06月03日 00時10分53秒 | 思考試行

 何かこの世にいいことをして死にたいとすれば、どうするか。理不尽な世の中に、どうにかして、いいことのきっかけとなることを成し遂げたい。そんなのぞみを持つ人がいたとすれば、その人はどんなことをするだろうか。

 昔の特攻隊は、自発的にその任務についたとされている。だが、そうだろうか。そこには、誘導はなかったろうか。一瞬の決断によって、その運命は決まったのではなかったか。「お前たち、命が惜しいのか!」こう言われれば、反射的に、どう応えるだろうか。

 どれだけ多くの若者たちの命が、失われたことか。どんな思いで、その命を投げ出したのか。戦争が、いかに多くの国民に苦しみをもたらしてきたことか。

 しかしながら、為政者は、憲法9条を変えて、自衛隊が誇をもって活躍できるようにと主張する。自信をもって、戦場へ行けるようにするというのだろうか。

 憲法9条は、はっきりと戦争をしないと言っている。どうしても戦争できないようにしている。自衛隊でも、違憲と言われれば、否定できない。だが、自衛隊は存在している。

 国家として、軍隊のない国家形態など考えられないから、自衛隊の存在を否定する動きは今や皆無といってよい。だからといって、憲法を変えて普通の国の軍隊となったとき、なんで戦場に行かないかと言われれば、言い訳はできない。

 君たちはアメリカの同盟軍ではないのか。ショウザフラッグ!と言われれば、戦場にいかざるを得なくなる。どうして、殺しあいの戦場に行かなければならないなか。政治家の作り出した、事情にのり、命をかけて戦場にいく。

 そんな馬鹿なことをして、喜ぶのは軍需産業資本ばかりである。相手国の兵隊にも家庭があり、家族がいる。いかに、共生していけるか、そこに焦点を絞って、考えなければならない。

 国民に階層をもうけて、いるのではないか。同じ事故を起こしたとしても、違う扱いをする。そんな事件が起きた。滅多にないことだが、あきらかに、そんな事故が明らかとなった。おそらくは、アクセルとブレーキの踏み間違いによる事故とみられる事件で、当事者は高級公務員だったということで逮捕されていない。

 この種の事故で逮捕というのは、そもそも変なことであるが、通常は逮捕されて、そういう扱いをうける。警察はそうしてきたはずである。にもかかわらず、池袋の事故はそうしていない。なぜか。

 これが、どのように処理されていくか、庶民たる国民はよく見ておかねばならない。そこに違いがあるとすれば、その背景になにがあるのか、よくよく見ておかなければならない。

 士農工商といい、貴族、華族といい、皇族といい、財閥といい、国民の間には、いつの間にか高級国民がいることを、知った。扱いが違うのである。

 大したことではないと、思いたければそう思えばいい。公務員でも、下っ端の、木っ端役人は、高級公務員からみれば、虫けら同然であり、歯牙にもかけない存在である。それを知らないだけである。階層ははっきりと存在するのである。この差別、区別は、地球上どこにでも存在する。日本は特に。これがあるかぎり、事件は途切れることがない。

 


悲劇をなくすことはできないが

2019年06月02日 12時47分00秒 | 思考試行

 生きている限り、困難なことは必ずやってくる。先人が言うように、災難に遭うときはあえばいい、死ぬときがぐれば、死ねばいい、と考えるならば、一々悲劇だと嘆くことはないのかもしれない。

 本質はそういうことかもしれないが、そうは言っても、悲劇を避ける手段があるのならば、手をうって、対処すべきであり、そのようにして、人間社会は徐々に、良くなってきた。

 宗教的な迷信や、科学技術の進歩がまだまだの時点では、今や自明のことであっても、良からぬことをいうやつだと、弾圧の対象となり、殺されてしまう人もいた。科学技術は、この手の悲劇を相当なくしてきた。

 論理が通るようになると、人間社会は、多くの人々にとって、徐々にすみやすくなってきた。しかし、まだまだ、その進歩の具合は、不十分であり、悲劇はまだまだ続いている。

 為政者の無理解、権力者の傲慢、さまざまな理由があって、今なら当然に対処できる悲劇の温床をそのままにして、改善の努力がなされていない部面もある。

 人間について、人類はいろいろ知ってきた。男女の性をとってみても、簡単には、分けることのできない実態があって、そのために、多くの人が苦しんでいる。実態に見合う制度ができていない国がある。すでに対処している国があって、その考え方など知られていても、対処していない国もある。

 偏見の具合、程度によって、おくれすすみがあるのかもしれない。日本の場合、どうやら遅れ気味の国であるようだ。実態を知り、対処すべきは、どんどん実行する国でありたいものである。日本はなぜ遅れ気味なのか。その原因はどこにあるのだろうか。

 歴史の経過は、国民一人ひとりの個性が発揮しずらい仕組みが続き、基本的にそのまま、推移している風潮がある。今の民主主義にしてからが、世界大戦のなかで、完膚なきまでの敗戦の結果、もたらされたものであり、国民一人ひとりの力の発揮で、実現したものではなく、世の中の仕組みのなかに、そうした残滓があるのと、一方では、利己主義的傾向が強まり、底の浅い、人生観がはびこっているようにも見える。

 日曜討論で、刃物で殺傷事件を起こし、直後に自殺した犯人をめぐって、どう対処するかの番組があった。隔靴掻痒といえばいいのか、どう対処するかの具体策が、はっきりと見えてこない。専門家といわれる人が集まっても、そう簡単に解決策が明確に打ち出されてこない。

 事件の本質にも、決めつけてはいけない、の言葉が飛び交い、本質にせまることに、消極的な姿勢がみえる。どうすればいいのか、原因の推定、仮定が充分されなければ、本質にせまれない。

 考えられる可能性、心理的な動機、それを生み出す要因の推定、社会の病根、などなど、悲劇がなぜおこったのか、追究する姿勢が極めて弱く感じた。

 そして、追究の弱さが語られていない。自覚のないことがわかる。話は具体的でなければならない。具体的でなければ、それは、解決のための話とはいえない。


あまりひどいことをしていると。

2019年06月01日 00時26分32秒 | 思考試行

 論理の通らない、無茶苦茶なことをしていると、ゴリ押しが利く間は、なんの問題はないのだが、政治の場合は、結局は人心が離れて、その支配体制は終焉を迎えることとなる、また、そうあって欲しいものだが、ところがそれは、簡単にいきそうではない。 

 北朝鮮は、アメリカとの交渉がうまくいかなかったということで、交渉の第一線に立っていた部下が処刑され、また、重労働の罰を受けたという。これは無茶苦茶だ。妹も謹慎中だという。

 こんなことをしていて、北朝鮮は、国家の体をなしているといえるのだろうか。監視体制が整っていて、おかしな動きがあれば、直ちに弾圧できるようになっているのだろう。

 ところで、このような状況は、アメリカの軍需産業資本にとっては、困ったことではないのではないかと思ってしまう。

 むしろビジネスチャンスが広がる可能性があり、歓迎すべき事態とも考えられる。日本も高い高い戦闘機を買う約束をさせられたようだ。戦争しないということなら、こんな戦闘機はまったくいらないということになるが、北のようなニュースが流れると、とても安心できないとして、購入することの、立派な理由付けとなったりする。

 そのために、社会の貧困、悲劇がいくらあろうと、少しばかりの、手配をして、抑制的に救済をすること、そうするという、フリさえ忘れなければなんとかなるとでも思っている可能性もある。

 地球上は、まだまだ大変である。課題が山ほどあって、少しずつ改善してきているのだろうが、人間は生きている限りは、苦しみから逃げることはできず、完全に逃げることは、叶わぬ願いである。

 異常気象の原因が人間の活動の結果なのか、それとも関係がないのか、最近は、環境問題を言う人がいなくなっているようにみえる。

 かつては、ゴア副大統領の不都合な真実という題名の映画だったか、あって、環境問題にいよいよ取り組むのかという雰囲気もあったのだが、最近はあまり話題にもなっていないようにみえる。

 日本でも、台風の勢力がいままでと違ってきて、大きな被害が出た。それでも環境問題をとりあげる雰囲気は見られない。

 政治問題でのひどいこと、環境問題を放置しているひどいこと、人間の活動が、どこかおかしくなってきていて、終わりの始まり、の現象が出てきているのではないかと、いささか不安である。

 人類は、大丈夫か。