空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

紅白かクラス対抗か

2019年06月20日 20時47分27秒 | 思考試行

 全学年を紅組と白組に分ける。そして、学年毎にクラス対抗のレースを別にする。さて、選手をどう決めるかという話し合いをクラスでする。

 わたくしは、紅組、白組に分ける方が、単位としては大きいから、そちらに、より早い人を送るべきではないかといった。クラスのみんなは、クラス対抗こそ、一番早い人をもってくるべきだという意見であった。

 そんな主張をしたものだから、君は、だったら、紅白の選手になれと言われた。運動会当日、紅白どちらの選手だったか忘れたが、なんとなく、乗り気になれないままに、紅白の代表として走った経験がある。

 今考えれば、クラスのみんなは、自分たちのクラスこそ、もっとも身近であり、国民の前に家族だという普通の感覚であったことを痛感する。

 家には、教師をしていた叔母がいて、教訓めいた小冊子が残されていた。話は、全体主義的な教訓話がほとんどだったように思う。それを時々読んでいた。

 いつの間にか、全体か個人か、という価値観が明確に自身のなかに芽生えていたように思う。クラス会議でも、どちらが大きいか、という見方から出発していたことを覚えている。

 戦時中の軍国少年のような、考え方をしていたのであった。紅白もクラスも、不滅ではないし、どちらでもいいことなのだが、より、身近な存在に愛着をもち、判断基準がそこにある方が、やりがいがあり、意欲もそちらの方が強いという事実を知って、走りながら、もうひとつ乗り切れない自分がいた。

 人類は、広く世界に存在する。しかし、国、地域、家族と単位が小さくなるほど、身近となり、自分の守備範囲も、小さいほうが、より、自分が関心をもち、なすべきことをなさなければならない対象であることを、いつも感じている。

 だが、その単位もまた、絶対ではなく、いつかは、ばらけてしまい、なにがあったかも定かではなくなる。なににこだわろうとも、それは守り切れないし、人類は、そういう存在であるということだ。