この世に生を受けた以上、必ず最後を迎える。それまでの間どう生きるかということになる。相対的な優者となるのか、ほのぼのとあったかく、助け合って生きていきばいいのか。自分の地位や名誉や富を守るために、人を人とも思わず、クイモノにし、弾圧し、殺し、なんでもすると思って生きるのか。
世の中は、不合理だらけであり、理屈通りにはいかない。不公平なことが山ほどある。悲劇に満ち満ちている。そして、それを隠す。そんなこと隠せるわけがないといっても、支配者は、恥ずかしげもなく隠す。そしてその秘密をばらそうとすれば、弾圧する。
そんなことがあるのかというのが、現実である。地球上は、とにかく不公平にバラバラに、事がすすんでいる。それでいて、いきとしいけるもの、すべては美しく、すばらしい完成度である。神秘であり、神がかっている。だが、人間が考える神はどうみても、合理的とは思えない。とても意志を持つ存在とは思えない。やっていることが無茶苦茶である。
平常に静かな世界であれば、神は、いるかな?とも思えるけれども、視野を広げるならば、とてもそうは思えない。それでも神がいるなんていう人は、あきらかに、目をつむっている。あるいは、世の中を直視してはいない。見たくないものは見ない主義だろう。
では世の中はどうしてできたのか。生命は、物質の組み合わせでできているのは確かなのだが、生きているということが、どうにも人間には解せない。いくら、科学技術が進歩しても、生命そのものを作り出すことができないものだから、神にはかなわないということになる。だが、神が生命を作ったのかどうかは、実は解らない。
人間にもできず、神にもできないとすれば、だれがこの生命体系を作ったのか。この説明も人間はし始めている。もちろん仮説であるが、説得力のある説が、出てきていることは、心丈夫なことである。
とにかく神秘化したり、わからないものだ、と規定してしまうことが、人間に災いをもたらしてきた。わからないことはわからないとしつつも、今は、わからないだけだと思って、いずれは説明がつくと考えることが、健全に生きる要諦である。と思う。
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