どう生きるかが、とりあえず生きている人間としての当面の課題だ。他人との関係において、常に優位にたつことを目指すのか、仲良く、といっても限界があるが、適当に距離を調整しながらいくのか、どっぷりと思いのままに、情熱的に生きるのか、選択の余地はある。ときにより、いずれかを選択し、また変わることもあるかもしれない。
助け合いなど必要ない、それぞれ努力して、成果はそれぞれのものだ。弱者は、気の優しい人でも、教会でも、誰かに助けてもらえ、そんなことは、政府の仕事ではない、というアメリカの根強い考え方にふれて、なるほど、人間社会は、なかなか厳しく、住みづらいものだなと思い知らされる。
アメリカの全部がそうではないだろうが、それでも、政府閉鎖までいくのだから、無視などできない一大勢力であり、現実のものの見方なのである。この考え方は、支配、被支配を肯定するし、強者、勝者にとっては、極めて快適な考え方である。努力の方向も、その勝利の美酒をあおるという魅力的な報酬もあるのだから、それは、それで健全といえるのだろう。
負けたらどうなるのか、少しの差から、どんどんと格差が広がり、多くの悲劇が展開される。悲劇のなかから、新たな悲劇が再生産されるタネがうまれる。一方の勝利者は、努力から無縁のものであっても、反道徳的であろうと、富の力にすくわれ、彼等の子孫は、それなりの安穏とした位置を確保し続ける。ほら、努力しないと、あの人のようになるよ、と実例を見せながら、油断なく教育にも力を尽くす。
かくして、世の中は進行し、変化しながら、歴史を刻んでいく。それで、公平なのは、みんな最後は死ぬということだ。さて、死ぬまでには、長いようで、短いし、短いようで長いのだ。さて、どう生きていきなさる。