正論を言うと、それは、きれいごとと言われてしまう場合がある。では、ものごとの否定面を強調して、するどく分析するのはどうか。双方ともに問題の本質をぼやかし、誤魔化す作用があって、そこが非難の対象であるとするならば、いずれも、真実には至らないのかもしれない。
なにごともプラス思考で考えれば、おおよそ健康的な生活スタイルが形成できる。悲観的にみる考え方を続ければ、健康を害するかもしれないし、本質を深くえぐっているようで、実際は、単に損な考え方であるとしかみえない。
人は、喜怒哀楽の感情の動きの中で、どこかに偏りながらも、調整しながら気分をコントロールして生きている。いい塩梅の方法もありそうだ。その方法は、「きれいごと」かもしれない。
基本的な考え方の根本のところで、方向が間違っていなければ、そう大きな問題は生じないと思うが、それは、そうなるべく先達の人々が、仕組みづくりをしてきてくれたお陰であろう。そして、今もなお、その仕組みは、変化しつつ充実の方向へと向かっていると思いたい。
生活に困窮した場合に、制度の救済があるかどうかは、まさに死活問題である。一部の富裕層が、富を独占していることが、貧困層を作り出しているとするならば、それは、当然是正されなければならない。それは、きれいごとだろうか。富裕層は、大いに「きれいごと」に、関わってほしい。それは、明かに、人々の生活にうるおいをもたらす。現実にどう対処するのか、富裕層の「きれいごと」こそ、今求められている。
ジャンジャン寄付してほしい。マスコミもその成果、運用具合を、どんどん流すべきである。どの程度寄付が集まって、どのように使われているのか、これを流すことである。ヘンテコな足の引っ張り合いばかりを報道していては、世の中をどういう方向へ進めたいのか、さっぱり見えない。「きれいごと」をもっと、とりあげてほしい。