政治家は、選挙により選ばれて、はじめて活躍の舞台が与えられるのである。国民の目の前にたち、その考えを述べ、立ち居振る舞いをみせて、自らを売り込むわけで、たいへんな仕事である。
政治家には、本人に、夢や、希望や、やる気の根源ともなる思想がある向きと、利権にからんで、周囲に押されて、なる人もいるかもしれない。看板、カバン、地盤のある親の代からの人もいる。
いずれにしても、全生活、全人格が、公人として、晒されるわけで、いい加減な気持ちでは、務められない。大した人々であることには間違いないだろう。
ところが、政治家が軽んじられ、昔ほどはエラクはなくなったようにみえる。お互いが、相手の誹謗中傷に走ったり、国会で野次りまくったり、言葉遣いは丁寧であっても、そこには、相手を犯罪人扱いしたような侮蔑、軽蔑、人格無視のエゲツナイ質問を聞いていると、尊敬できる政治家など生まれようがない。
人を大事にしない傾向が、小泉政権のアメリカ流の自由競争原理を入れはじめてから顕著である。金儲けに熱心で、金儲けさえすれば、成功という浅薄な人間が、増えてきた。制度の改悪の効果で、貧富の差も歴然としてきた。
他人を大事にしない考えは、結局は自分にもかえってくる。自分を大事に考えることができなければ、夢も希望もない。大事に考えるとは、保身ということではなく、自分としての役割をきちんとこなそうということである。
やむを得ず、生活保護を受けるようになったとしても、捨て鉢になることは、当然ない。そこには、多くの教訓があり、役割がある。それを侮るような人間は、そんな低レベルの人間には、人間として生まれた甲斐がない。実は政治家、富者の大部分がそうなのではないか。