仕事の割り振りや、行政の仕方で、業界の浮沈が決まる。労働法制をかえると、今のように派遣労働者が、増えて、正規雇用から、若者たちがしめだされ、それこそ、浮き上がることのできない低賃金労働者として、使い捨てにされてしまう。一億総中流と言われたのが、ウソのように、階層社会ができてしまった。政治は、議員は、絶大な力を持っているのである。
そもそも、政治家は、社会の支配層が、支配の仕組みの一つとして、支配層が、作ってきたものであり、日本の場合、庶民からうまれてきたものではない。庶民は、与えられた条件のなかで、つつましく、時流にあわせて、生活しているのみである。政治家を志すとなれば、たいへんな努力が必要である。
貧乏人のセガレは、おおいに、努力して、その属する階級をあげて、その後に、政治家になっていく。庶民の立場のままから政治家には、なれない。そのようにして、政治家は、支配の立場にいるのである。
そのため、議員は、地盤、看板、カバンを持つものが、その席をしめることになる。地元の有力者、官僚、国の支配層と結託し、世界の動向や、庶民の動向もみながら、政治に参画してきた。多額の報酬を、お手盛りで決め、当然のように、支配者の一員として、セレブとしての待遇を歴史的に受けてきた。
そして、議員としての経歴のなかで、実力を身につけ、徒党をくみ、策略をこうじて、最高権力者を目指すこととなる。経済界の利益を守り、官僚の代表として、また、組織の力を背景にして、議員達は生息する。
こうしてみると、菅さんは、例外中の例外である。政治家の家系ではなく、市民運動の出身であり、考え方も庶民の側に立つことも可能な側にいる。それが、支配層からみれば、危なくてしようがないということだろう。支配層からの「弾圧」が続く。
彼は歳費を、自ら削る。これこそ、従来の政治家の発想ではない。政治家が、本当に国民の暮らしを考え、世界の平和を目指す気なら、セレブであって良いわけはない。彼はその方向へと足を踏み出している。
政治家に関して、そういう考え方が、常識となり、実現したときに、人間社会の基本ができたといえるのではないだろうか。