子供のけんかじゃあるまいし、自公は、「菅嫌い」などと言い出した。
地盤、看板、カバンをもたない菅首相は、たしかに、よくぞ首相になったもんだ。旧来のすべてのものを持つ自公にとって、また、民主小沢派にとっては、とにかく「嫌い」というしかなくなったようだ。
かつての自民党政権時代には、少数派の三木首相が権力を握ったことがあった。海部さんも同じような立場であった。共に、党内で多数派というわけではなく、世論の動向を見て、自民党の権力事情から首相に据えられただけのことで、誰も実力者だなどと、思ってはいなかった。
世論の動向をみて、その目先を変えるために、据えたにすぎない。したがって、事情が変わると、いつまでも、その座に座らせておくわけにはいかない。で、簡単に二人共、その意志とは関係なく、将棋のコマのようにその座を追われたのである。
特に海部氏は、「重大な決意で・・・」と言ったとたんに、降ろされた。それこそ、何にもミスなどしていない。これが、実力なくして、首相になったときの辞めさせられ方である。
菅さんの場合は、少し様子が違うが、それでも、党内事情では、旧来の政治家ではないから、いわゆる子分というのは、それほどいない。小沢氏のような、旧勢力にとっては、目の上のタンコブである。いわば、事情にのって、彼の政治的な才覚もあって、首相の座についたのである。
自公の菅さんへの、評価の合言葉は、「無能力」だった。大体人間一人ひとりは、みんな無能力であって、格別に超能力などもってはいない。このことばには、人を馬鹿にするだけの意味しかない。
自公は、菅さんに無礼極まる悪口を、発し続けた。新聞、マスコミも買収されている手前、これに同調した。
モンクのつけようがなくなると、人を無能などと言って、嘲る手口である。こいつらは、最低の人間である。
紳士面をして、ガラの悪いことである。そして、最近は、「菅嫌い」と言い出した。好き嫌いは、まさに、自由である。自公なんて奴らは、こちらこそ、大嫌いである。バッカタレ!