人間社会の現実を、考えてみる。そして、今の日本の現状を考える。
そのなかで、我々は、どのようにして生きているのか、を考えてみる。その現状把握から、どこを改善していけばいいのか、を見つけていく。そして、どのように生きていくのかを意志として持つ。
そのためには、どうやって、こうなってきたのか、何故そうなっているのか、これを知らなければならない。
歴史を勉強する意味は、ここにあるのだろう。ただ、事件を列挙して、年号を覚えるような勉強ではなく、社会の仕組みや、人間の扱いや、「生きていく」ために、過去の問題、変化を、資料として、みるのである。
記録された歴史は、時代の覇者の見解に支配される。鵜呑みにはできない。自分の頭で考える作業がいる。そのなかで、方向性が生まれる。
菅さんは、「最小不幸社会をめざす」と言った。「最大幸福社会」を目指す考え方は、教科書でもでてくる考え方であるが、意味としては、おそらく、同じだろう。より、明確かもしれない。弱者に焦点を、あわせようとする意志がある。
個人のことでいえば、置かれた自分の状況から、どういう行動をとるべきかが、問題になる。生き方に選択肢があるのかどうか。社会にどう対処するのか。
まったく、見通しのもてないような実態であれば、間違いなく、それは、「社会」が悪い。変えなくてはならない。個人の所為ではない。そして、その条件下でも、なんとか生きていきながら、社会を変えようとする生き方が必然となる。
選挙で投票するだけでもいいし、直接的に、社会にコミットすることもあっていい。
人間同士、どういう関係で生きていくのか。自分と他者の距離、心のふれあう生き方か、それは、相手に応じて、変わらざるを得ない面もある。ウマが合う、合わないの問題もある。そして、それも、変化する。固定的ではない。が、固定されたままの場合もある。そういう実態がある。
命についての、理解もいる。解釈というか、覚悟というか、実態についての腹の据わった見解を、準備しておくとよさそうだ。それが、あれば、人生の不安や苦しみは、かなり軽減されるに違いない。
人間、生まれた以上は、必然の死がある。それは、避けられないし、行く道である。今思えるのは、限られた時間である。そのなかで生きていくのである。
さらに、その先があるのかどうか、誰も知らない。自分が良いと信ずる道を行くまでである。それは、死の先が、あっても、なくても、人間としての生きる道だろう。