いつのまにか、自分の立ち位置が出来ていて、その位置でするべきことが、自覚できるときは、すすんで事にあたる、そのようにして、生きてきた気がする。あまり無理をしていない。
選択は確かにしたけれども、それも、進学か就職かと思ったときに、家庭の経済状態をみて、早く、就職したほうがいい、というように判断した。勉強は、あとですればいいと。
それは、間違いではなかったと思う。確かに、自分よりも、成績の良くなかったもので、その後の「成功」ぶりをみると、その選択の違いにあるようにみえることもある。
だが、それを悔やんでも、今更意味はないから、そんなことはしない。今の立ち位置で、考える。今、やれることの中で、意欲的になれる方向を選択する。
人をけとばしてでも、財を成したいとか、名誉を得たいとか、権力の行使をしたいとか、そういう不健全な思いを持つことがなかったのは、あるいは、自然であったかもしれない。極端に人に貶められ、苛められ、それをバネにして・・・という場面に出くわさなかっただけかもしれない。
そういう空気に触れたことはある。心底からこみあげる怒り、存在を軽視し、侮られたことに対する敵愾心の存在。一瞬ではあったが、自分の中にも、そういうものがあることを知っている。
しかし、割合簡単に、そういう世界にはすすまない、という気持ちがかったようだった。以来、いつのまにか高齢者になっている。それでも、まだ、意欲がある。個人的な欲得から、完全に離れているとはいえないが、それだけではない動機をもって、生きていきたい望みを持っている。