美術館のなかで、簡単な食事を取ることができる。泰吉と朋子は、ゆったりしたスペースの中ほどのテーブルに座った。結婚してから、もう30年以上になる。子供がいないので、新婚当時とあまり、変わらない関係が続いているように、泰吉は思っていた。日々新鮮であった。今まで、様々な出来事があったのだが、周辺の風景を二人で眺めていると、すべてが、なるようにしてなり、心を悩ませるようなことも、とりたててない現状だから、幸福感を味わえるときとしての条件は、充分にそろっている。泰吉は時折思い起こして、そのとき、その場所で、至福の思いを感じていなかったことを反芻することがあった。人生を味わうとは、今の、そのときを、意識下において、感じなければ、勿体無いような気がしてきている。そういう瞬間は、いたるところにあり、極端にいえば、いつもそういうシチュエーションのなかで、生活している状況にあることを、思うようになってきた。金木犀の香りがすれば、それが引き金となり、ネコが、膝の上にとびのってきた瞬間にも、そのように感じる機会となりうるのである。このときの泰吉は、そこまでの心境ではなかった。ただ、受動的に風景をながめ、休憩をしており、食事を待っているにすぎなかった。しかし、この美しい風景や、あれこれの体験は、記憶に残り、いつの日か、幸せの日々を思い起こす、材料となって、登場するのである。