昭和46年、西暦1971年、泰吉は、関東の地から、故郷の大阪へもどってくることになった。職場の人員配置は、固定的な時代が長く続いていたが、希望による転勤が可能になるということで、画期的なことであった。その機会に、長男であった泰吉は、戻る希望を出した。全国的にそれは、行われたから、それは、すんなり受け入れられた。泰吉の希望動機は、長男であるから、というぐらいの感覚でしかなかった。小さいころから、跡取り、長男、と言われ続け、古い家を建て直すのは、泰吉ちゃんやで、誰からともなく聞かされ続けてきており、長男意識が明確にあったためであった。演劇鑑賞運動では、かなり、苦労していたが、徐々に再建の兆しがでてきており、時期的にも恵まれていた。実際、転勤がきまったときに、運動の仲間たちは、歓送会まで開いてくれた。職場全体の方針で転勤というように、解釈されていたのであった。それには、間違いがないが、その基本には、古い観念としかいいようがない、理由でしかなかったのである。泰吉の本心を見抜き、その古さを指摘する人が何人かいたが、それは、職場の人間で、外部には、止むを得ない事情という理解であった。その使い分けを、当時の泰吉は、まったく意識はしていなかったが、活動のなかでの、さまざまな呪縛から解放されたのは事実であった。逃げる気持ちは、なかったから、後ろめたいような感情は皆無であったが、状況は、逃げ出す口実を探していたとしても不思議ではなかった。音楽団体の活動家で、まさに個人的希望で故郷に帰りたいという者がいた。彼は、仲間から、相当批判をうけ、逃げるようにして転勤していった。そこまで、言う人間はいなかったが、泰吉は本質的には自分と同じ状況だな、とは感じていた。しかし、転勤が本決まりになった時点で、鑑賞団体の運動が困難になるから、取りやめは可能か、などと組合幹部に相談したこともあった。組合幹部は、君一人抜けてつぶれるような運動ならば、抜けなくてもつぶれるといい、そうしたこともアリバイ工作的な効果があったといえる。泰吉の本心は、鮭が生まれ故郷の河川に帰るのと同様の感覚であって、帰れる機会があるのならば、帰ろうと思っていたにすぎないのだった。