街道らしい道を南向いて
弘法大師のように進んでいきます。
お、ここには
「野崎まいり公園」がありますねえ。
ちょっと開けた公園内に
建物も立っています。
中に入っていきますと、
飯森城、野崎城などの案内や
飯盛山のハイキングコースの
解説もありました。
ここに貼られてあるこんな地図が
欲しかったのですが、
見当たりませんでしたねえ、残念です。
おっ、この辺りは「ヒアリ」が
いるんですかあ。
かなり山の方まで来てるのに、
こんなところまで生息域を
広げているんですねえ。
そんな無人の野崎まいり公園を出ると、
そのすぐ横の道が野崎観音への登り道です。
この野崎まいりというのは
良く聞く言葉ですねえ。
そうです。上方落語にも
「野崎まいり」がありますし、
歌舞伎なんかでも取り上げられている
テーマですねえ。
言葉は聞いたことがあるのに、
多分doironにとっては生涯初の
野崎まいりです。
お参りしていきましょう。
ここまで上がってくる道もまた
急傾斜で風が強かったねえ。
生駒おろしですねえ。
そして遠くの景色が
見えるようになってきます。
おおここは「大阪みどりの百選」
なんですねえ。
こんな石が・・・
まあ、この大東は緑の多い町ですが、
名所と絡めてここに
設定しているんでしょうねえ。
ここが本尊ですね。
多くの人々がお参りしたんでしょうねえ。
きっと両親も来たんやとおもいますよ。
それにここは上の方まで
車で上がってこれるので、
けっこうな賑わいでした。
「野崎観音十六羅漢、
うちの親父は働かん」
こんな遊び歌も歌われたそうだ。
さあ、働いていない親父というか
じじいはここを離れていきます。
高野街道に降りてゆき、
道を南下してゆきます。
前の方から結構高齢者の
集団が歩いてきますねえ。
巡礼服を着ている人もいて、
高野街道歩きなんでしょうねえ。
弘法大師もこんな遊びが
流行るなんて考えていたのかなあ。
しばらく歩くと、
今度は専應寺の石票が現れますので、
また山の方へ行ってみましょう。
戸森山 専應寺
ここは鎌倉時代に作られた
お寺ですが、退廃を繰り返し
江戸時代には大阪城の石を
切り出す京極丹後守が
陣屋に使っており、
その人が寄付した井戸が
今も残っています。
でもまあそんな歴史がある割に
結構お寺は荒れ模様でしたねえ。
そしてここは野崎まいりの
前座で参る寺だったようです。
それにしてもこの辺は
山手に神社とかが多いねえ。
しばらく上っていってみたのですが、
こんなに荒れた参道のある
神社もあるようでした。
これはちょっと上っていけませんねえ。
まあこの辺でまた高野街道の方に
戻っていきましょう。
今日はときおり吹く風が冷たくて
一瞬寒くなったりします。
生駒おろしはそんな風なんですかねえ。
高野街道に出ると、
案内板が立っています。
大東市域ではこういう案内が
立っているようですねえ。
そこの案内にもあった
「メノコ橋」ってなんでしょう。
行ってみますと、道の右手に
橋の欄干が置かれています。
これがメノコ橋といわれてた
橋の残骸です。
その名前の由来はというと・・
昔々空海はこの辺りを通りつつ
山手にも挙がって修行を
していたようです。
そんな修行につかれて、
彼はよくこの橋のところで
寝転がって急速をしていたようです。
空海が寝床に使っていた橋
ということで、寝床橋と
いわれていたようですが、
それが訛っていつのまにか
「メノコ橋」と呼ばれるように
なったそうです。
でもまあ、よくぞこうして
欄干なんかをのこして
おいたものですねえ。
さあこの辺から東高野街道は、
村中の細い街道筋から
車の通る国道と重なっていきます。
地名も寺川という名になっています。
中学校の時の友達の家も
このあたりですねえ。
メモしてきた住所をもとに
探っていきますと、
どうも家はあの辺のようです。
JRとは少し離れたいいところですねえ。
一度遊びにおいでと言ってたので、
また日を改めて伺いましょう。
続く
四條畷神社の急な傾斜を
どんどん上がっていきます。
なんか神社やお寺って
いつも高いところにありますねえ。
下々の人々を見下ろすような
位置づけなんでしょうか。
津波とか天変地異に強かったから
残っているというのもあるのかなあ。
もともと海岸線沿いなんかにあった
神社が周りの湿地が地面となり
そこに残っているのが
今となっては高い位置
というのもあるかもしれませんね。
いろんな理由の中で、
今は高台に残っている社寺が
多いのでしょうねえ。
階段を登り切ったところに、
屋根だけが残っている
建物がありました。
手水台ですね。
doiron家の屋根瓦が落ちたあの台風で、
この神社の大木が倒れて
この手水鉢に被害を及ぼしました。
できるだけ修理などして
再建しようというのですが、
費用がすごくかかるそうですので、
皆さんのご協力をお願いした
というものでした。
保険は入ってなかったのかなあ。
doironが氏子代表をやっている神社は
火災保険は入っていたのですが、
樹木が倒れたなどの経費は
保険では出ませんでした。
全部で100万円程度の
費用が掛かったそうです。
おかげで、今年のバスで参る
氏子の伊勢詣では自粛
ということになりましたねえ。
工事はおかげさんで年内で
方が付いたようですが、
この四条畷神社も早く
再建してほしいですねえ。
中には父である正成公との
正行の別れのシーンの
石像がありますねえ。
そしてこの神社は、
なにわ七幸めぐりの社寺の
ひとつですねえ。
ちょっと範囲が広すぎて
歩いて回るのは大変です。
車で回るとなると、doironの場合は
「大念仏寺」と「太融寺」は
回っていないようです。
機会を見つけていきましょう。
本殿でしっかりお参りして、
さあでは元のコースの方に
戻っていきましょう。
生駒おろしに押されながら
階段を降り、坂道を下っていったら
東高野街道と出合いますので、
そこを左折していきましょう。
しばらく歩くと「大東市」に
入っていきます。
これが大東市のマンふたですね。
野崎観音に参る人々の陸上と
水上の交流の姿が描かれています。
しばらく交通量の多い道の
端っこを歩いていると、
地車小屋があります。
この辺りはどんな地車なんでしょう。
左の山の方に「北條神社」の
看板が出てきますので
訪ねてみましょう。
山に向かって、またまた登っていきます。
時々吹く生駒おろしが冷たいなあ。
もともとこの神社は
京都の北野神社の御神木で
本尊を刻んだもので、
それが流れ着いた川岸にあったそうです。
それが度重なる水害で
今の位置に写されてきたそうで、
急な山道をハアハアと
のぼっていたところにあるのです。
そもそもこの四条畷神社や
北條神社の裏山は「飯盛山」といい、
山頂一帯には三好長慶の
居城であった飯盛山城の跡があります。
現在でもその曲輪跡が
多くのこっており
ハイキングコースとして
親しまれています。
しかも、その山頂には先ほどから言ってた
楠木正行の銅像が立っているようです。
この辺り、昨秋に雨のために
行きそびれたドジ旅で
近くを通るんだったように思いますが、
もしかしたら行けてたかも
しれませんねえ。
ここまで登ってくると、
遠くの大阪市内がよく見えています。
昔だったら大阪城が
見えていたかもしれませんね。
しっかりお参りをして、
さあまた下のコースへと
下っていきましょう。
山手あたりには高齢者施設が
ありますねえ。
遠くの眺めを見ながら
余生を送っているのやねえ。
ではまた東高野街道に戻りました。
町内の掲示板には、
歩きコースの地図なんかも
入れられていますので
いただいていきましょう。
そしてこの街道は、
この辺りから車のビュンビュン走る国道から
一本山側に入った静かな道になっていきます。
じんわり曲がりくねったりして
昔の街道らしい道の
景色になっていきます。
続く
さあてブログの方も
2019年の歩きの方に
入っていきます。
新年は、あちこちに初もうでに
出かけました。
といっても今年は近辺で、
曽根神社をはじめ穴師神社、
葛葉稲荷に歩いて出かけ、
和泉国四宮である「積川神社」にも
車で出かけました。
まあいずれも歩きとしては
近場だしあとは車で、
歩き旅行というほどのものでは
ありませんでした。
では、今年の最初の歩きは
どこに行こうかと考えてみると、
一ヵ所気になるところがあります。
昨年42年ぶりに再会した
中学校の友達が、
今住んでいるという大東市です。
この友達の住んでいるところの景色を
一度見ておこうかと、
地図をにらんでいたのです。
ああ、この辺は前の巨木を訪ねての
ドジ旅であるいた四条畷の駅の
近くになりますねえ。
だったらそれの延長で
歩いてみるのはどうだろうかと
よく見てみると、その四条畷の駅から
友達の家のあたりまで
東高野街道が通っているではないですか。
そして、その道沿いに
四条畷神社や野崎観音もあります。
そしてそしてなんと友達の家の近くには、
あの高校野球で有名な
「桐蔭学園」があるではないですか。
しかもこの高校は野球だけではない。
あの高校ラグビーでさえも
決勝に進んでいるという強豪校だし、
なんとdoironが歩きに行こう
としている日はその高校ラグビーの
全国大会決勝で神奈川の
桐蔭学園と戦うという日だった。
そういわゆる「桐蔭対決の決勝」の日なのだ。
ああ、これはもうここに
歩きに行かなくてはなりませんね。
さっそくコースづくりを行い、
新年1月7日に電車で
今年の初歩き旅に出かけて
行ったのでありました。
スタートの四条畷駅は、
以前のドジ旅で、巨木を訪ねて
行ったところである。
四条畷という名前の駅なのに、
四条畷市内にはなく
大東市にあるという
ちょっと変わった駅なのである。
ここがその駅。
以前はここから西向いて歩き、
小楠公の墓地の大クスノキから
ずっと歩き始めたのですが、
今回は東向いて「四條畷神社」へと
歩いていきます。
これが小楠公の大クスノキで、
これが反対の山向いた今回の歩く道ね。
ああ~ここの酒屋にdoironの人形が・・・
て、ちゃいまっせ~。
でも思わず立ち止まって
写真撮影してしまいました。
駅前からの道と、
昔の旧外環である国道170号との
交差点にはこんな案内板が
出ていました。
そうなんです。
この国道こそが、東高野街道なんです。
堺から河内長野を経て
高野山へ行く「西高野街道」は
河内長野まで歩いていますねえ。
でもこの東高野街道は
京都から高野山への参詣道で、
数ある高野街道のうち
一番東側を通る道です。
大阪の湿った土地を避けて、
生駒の山道辺りを
通っていくのですが、
どうも既存の村々を通って
できた道ではないそうです。
計画的に京都から高野山参詣を
目指して作られた道ではないか
といわれています。
ということは、
「身は高野、心は東寺に納めおく」
とした空海がせっせと
通った道なのかもしれませんね。
そんな高野街道の道標に基づき、
どんどんと山の方へと上がっていきます。
結構傾斜が急ですねえ。
正月にゆるんだ体を起こしてくれます。
それに上から風が吹き下ろしてきます。
生駒おろしという風ですかね。
で、この辺りはもうちゃんと
四條畷市に入ってますねえ。
市の木のクスノキや
サツキをあしらった
マンふたがありますよ。
こんないくつかの地蔵さんを
見ながら、風に向かって山を
登っていったところに
四条畷神社の入り口があります。
この神社の祭神の一人が
「楠木正行(まさつら)」
であの楠木正成の嫡男であります。
正成が「大楠公」といわれたのに対し
彼は「小楠公」といわれる武士で、
今日の歩き始めには
大きなクスノキのある彼の墓地を、
遠くから眺めながら
坂道を登ってきましたね。
22歳で亡くなった彼も、
地域のヒーローだったのでしょう。
続く
あの大迫君がシカゴマラソンで
日本記録を打ち立てた時くらいから
彼の履いていた靴が
がぜん注目を浴び始めた。
ナイキズーム ヴェイパーフライ
4% フライニットというシューズだ。
還暦をこえた元ランナーなら
舌を噛みそうな名前やね。
今はもうこの靴がとても人気で、
今年箱根駅伝を走ったランナーの
約4割の93人がこの靴を
履いていたらしい。
底が厚くて衝撃を吸収するとともに、
ランナーの足を前に出す力を
サポートしてくれるという。
ミッドフット走行には
ちょうどいいらしい。
なんでもランニング効率を
4%アップしてくれるというから驚きだ。
う~ん、4%だったらdoironも
フルを三時間切れていたのになあ、
なんて思ってしまうよなあ。
この靴も品切れ状態が続いていたが、
最近はようやく需要に
追い付いてきたようです。
ジムで一緒に運動している人も
興味を持っていたが、
まあその人の走り方なら
あまり合わないかなあ
って感じでしたがね。
どうもその人は買っていた
アシックスの靴が合わなくなってきて、
何かいいシューズはないかなあ
とずっと考えていたようでした。
そんな時に、ジムのトレーナーが、
ララポートでお正月の自分への
プレゼントに買ったというシューズが、
ジム運動仲間の注目を浴びたのだ。
「ホカオネオネ」というシューズだ。
フランス製で
「HOKA ONE ONE」
と書くのだそうだ。
「ワンワン」じゃないですよ。
犬の散歩用に・・・というわけでもありません。
「オネオネ」ですから。
この靴もとても柔らかく、
履き心地がいいそうなのだ。
底が厚いのだが、形状が
かかとと前を滑らかに削ってあり、
足の運びがしやすいという
シューズになっているという。
女性用の靴だったので
小さくて履き心地を試せなかったが、
手に持った感じはいい感じだった。
これはちょっと興味があるなあ
と思ったので、靴探しをしている
ジム友と一緒にその靴を
見に行ったのです。
まずは足型をとってくれるので、
僕も試しに取ってもらうことにした。
すると、こんな感じ。
ちょろっとベタ足で、
かかとに重心があるようです。
え~こわがりなので、
いつでも後ろ向いて
逃げれるようにそんな重心に
なっています。
コメントでは平均的な
バランスだと書いてありました。
学生時代陸上をやっていたという
フル二時間台の若い店員に
いろいろ話を聞いたのですが、
まあ、結局僕は税込み
18000円ちょっとの靴なので、
買わなかったです。
年金暮らしには贅沢すぎるかなあ
って感じ。
友達は現役社会人なので
買ったようですけどね。
まあ、僕は大き目の靴で、
中にスポンジ曳いて
はくことにしましょう。へへ。
さて今年はNHKの
大河ドラマも走る話のようですねえ。
金栗四三はぼくらが走り始めたころに、
よく聞いた名前ですねえ。
ターサーの第一号が出たころでした。
今年はもしかしたら
「金栗シューズ」なんてのも
売り出されるかもしれませんねえ。
でも最近は靴も、いろんな進化を
気にしつつも、やっぱり
ラン&ウォークなんてのを
意識して買うように考えている
doironなのでした。
ここは「苦を抜く」から
釘抜き地蔵といわれるように
なったところで、
本堂の壁には釘抜きとくぎを付けた
絵馬が、びっしりと貼り付けられています。
なんでも病気の人が
手に刺さっていたくぎを
夢の中で地蔵が抜いたら
病気が治ったというところから
こんな釘抜地蔵と
いわれるようになったそうです。
それがねえ不思議なことがあってねえ。
この地蔵さんに参った翌日に、
ずっと延びていた屋根の修理の
大工から連絡があり、
工事がすぐに始まることになってねえ。
こちらは「釘抜」ではなくて
入れ替えた屋根の瓦に
ビス打ちでしたけどね。
おかげで9月の台風以来
ずっと止まっていた大工仕事が、
あっという間に終わってしまいました。
地蔵さんのおかげかなあ。
なんて思ってしまうほどの
絶妙なタイミングでした。
ではここを出て千本通を
南向いて戻っていきましょう。
あ、千本通のことは昨年
10月16日のブログに
書いていますねえ。
1000本ノックで体を壊した・・・
ではなく1000本の卒塔婆を
立てた道路で、
平安京の朱雀大路と
ほぼかぶっているんですねえ。
千本通を五辻通りで
右折してしばらく行くと
「千本釈迦堂」に到着します。
ここの本堂は「応仁の乱」を
まぬかれた京都最古の建物です。
そしてここでは「おかめ像」が有名です。
鎌倉時代に大報恩寺の
本堂(釈迦堂)を作った大工の棟梁は、
柱の寸法を間違い短く切ってしまいました。
そのことを知った妻のおかめ(阿亀)が
枡組を使うように
アドバイスし無事に本堂建築の
大任を果たすことができました。
しかし、おかめは女のアドバイスで
棟梁が仕事を完成させたことを
知られてはいけないと
本堂の上棟式を待たずに
自害してしまいました。
上棟の日、妻おかめの冥福と
お堂の無事を祈って
おかめの面を御幣につけて
飾ったと言われています。
こんなことから将来大報恩寺の
境内に宝篋印塔(おかめ塚)を
建てたというのがこの人形です。
そういう経緯で、大工の信仰を集め
今日でも上棟式には
おかめの面を着けた御幣が
飾られるようになったということです。
自害したというのは
何となく解せませんが、
まあそんな話から
おかめのことがのこっている
ということのようです。
我が家の建前の時もかなり
古い様式にのっとって
儀式をしたからなあ。
おかめの絵の入った餅を
配ったような記憶があります。
もしかしたら屋根のしたに
おかめの絵の入った
お札があるかもしれません。
さあ、ここまで来て約9キロを歩きました。
今日の予定は約10キロですから、
終わりに近いですね。
ここから行く北野天満宮が、
本日訪れる最後の名所となりますねえ。
こんな小学校や大きな矢の付いた
昔の住宅なんかを見ながら
進んでいきますと、
その天満宮に到着します。
もう何かの試験を受けて合格を祈願、
なんてことも当分ないような
年頃ですから、切羽詰まった
ところはないのですが、
この時期はやはり受験生を
連れた家族なんかが多いかなあ。
裏手の方から入っていったので、
お参りして神社を出ようとしたら
牛なんかがたくさん寝ている
参道を歩き、鳥居の方へと
進んでいくわけですねえ。
ああ、これで歩きも終わりです。
通りに沿って見渡すと、
バス停があり、数人の人が
待っているようでした。
ここかなあと思って近づいたころに、
京都行のバスが到着しましたねえ。
歩いたのはこんな感じの10キロでした。
バスに乗ると、二条城なんかの
横を通り京都駅を目指します。
今回は、京都御所について
結構学びましたねえ。
次回はどこに行こうかなあ。
嵐山の竹林もいいなあ。
鞍馬の木の根道もいいなあ。
サクラの頃にまたぶらっと
出かけてきましょうかねえ。
とりあえず2018年の歩き旅は、
この京都行きが最終となりました。
2019年も頑張って歩きますので
また読んでくださいねえ。
これにておしまい。
相国寺に入っていきますと、
なんかこの中の道が
寺の中の道なのか一般道なのか
よくわかりません。
若冲なんかの絵のある美術館を
右に見つつ上がっていきます。
途中浴室なんかもありましたよ。
窓の隙間から扇風機のようなものが
見えていたなあ。
あ、ビールの自動販売機が・・・
それはないか。
相国寺の北の石票のところから
さらに北向いて進んでいくと
「御霊神社」にでます。
これまでdoironが歩いたところでも、
この名前の神社はよくありましたねえ。
難波、葛城、木津川、福知山、斑鳩、
五條などにありましたねえ。
それぞれの祭神が誰だったかは
ちゃんと忘れましたが、
ここの祭神は早良親王で
このひとは疫病で亡くなられ
そこから死後に天皇の名前が
与えられて崇道天皇と呼ばれています。
この疫病による祟りを鎮めるものを
御霊神社といい、特に崇道天皇を
祭神とするものを
「上御陵神社」といい、
この神社がその「上御陵神社」に
なるわけです。
あとは祭神が「吉備真備」などの
八柱とする「下御霊神社」もあるそうです。
ここの「上・・」神社は、もともと境内が広く
「応仁の乱」の最初の戦闘が
行われたので応仁の乱発祥地
といわれています。
これがその石碑で、
石の案内板も設けられています。
そしてdoironが行ったときには、
様々なお店が境内に出ていましたねえ。
多くの人が集まる神社なんでしょうねえ。
では、その「応仁の乱」とは、
これは有名なので皆さん勉強して頂戴。
先ほど書いた「蛤御門の変」なんか同様に、
京の町を脅威にさらした政変でした。
そんな御霊神社からは、
今度は歩く方向を北向きから
西向けに変えていきます。
しばらく歩くと、
最初に電車を降りた
丸太町通りの北側に出てきます。
交通量の多い道ですが、
昔の街中のように
その道をちょっとぐいちに
クニクニとこえていきますと、
本山妙覚寺やの横なんかを通ります。
この辺にあった公園で、
今日は昼飯にしましょう。
時間のある限り、
弁当を作ってきます。
今日はこれ。
このガスコンロが先ほどの
皇居の荷物検査で
もち入りを許されたものです。
doironの高貴な顔が
許される条件だったのでしょう。
でもねえ湯を沸かして
弁当を食べていると、
むこうの方から支援学校の
生徒たちが団体で箒を持ってやってきて、
doironのベンチの後ろを
ドドド~と掃除を始めました。
枯葉と舞い散る埃たち。
こんな高貴な顔の人が
弁当を食べているんやから、
先生何とかしてよ~と
叫んでしまいそうになりました。
まあでも京都ですし、
高貴な顔ですし、
文句は言いません。
パパっと食べて弁当終了です。
コーヒーはあきらめました。
そこから京都市内の狭い道を
西に向かって歩いていきます。
大きな墓場の横にある
公衆トイレで用事を済まし、
本隆寺の夜泣きとめ松も
おがんできましたよ。
もちろん、孫の爽ちゃん向けにねえ。
そしてここは、岩上神社です。
この中には「禿童石(かおろいし)」
と呼ばれる「石」がありました。
なんか「禿」の字が入っているから、
髪の毛に思わぬ効果がありそうですが、
けっしてそんなわけではなく、
様々な場所を転変とし、
多くの災害にあってきた石ですが、
今もちゃんと形を残しています。
どうも授乳、子育てなんかの
信仰を集めているそうです。
京都を回ると、途中いくつもお寺があり、
様々なご利益を持っているようです。
ありがたいですねえ。
でも宗教施設に税金がかからない
ことを考えたら、京都の政治も
大変ですねえとそんなことも
考えてしまいます。
そこからまたさらに西向いて
進んでいきます。
千本通に出たところで、
ちょろっと北向いて上がっていくと
釘抜地蔵が置かれてある
石像寺に出ていきます。
続く
清涼殿は天皇が日常生活を
送ったところというのが
位置づけになっていますが、
政治や神事などの重要な儀式も
ここでおこなわれました。
ここがその清涼殿。
この中央の畳を引いた場所が
「昼御座(ひのおまし)」といい、
天皇の日常の御座です。
ああ、ここに座って庭などを
眺めていたんでしょうねえ。
この清涼殿の前の庭には「漢竹」と
「呉竹」が植えられています。
その後ろの障子がねえ、
これがもう超絶障子。
芯の竹組は地獄網といって
左右上下がぐいちに重なっている。
障子はそこへもってきて
13枚の紙で下張りを
したうえで絵を張り付ける
というすさまじさ。
しかしまあなんともすごい
「昼御座」のところに
座っていたものです。
ちょっと寝ぼけて障子に
ぶつかったら大変ですなあ。
さらにその北に回っていきますと、
ここは小御所。
将軍や大名などの武家との
対面に使われたところです。
明治維新の際には将軍に対する
処置を定めた「小御所会議」が
開かれたところだそうです。
そしてその先で御学問所と
いうところに出ます。
前に池のある静かなところですねえ。
ここは、勉強をする部屋・・・
ではなくて読書初めや
和歌の会を開くところで、
歴史上の大きな役割と言えば、
ここで明治天皇が
「王政復古の大号令」
を発したところです。
そしてさらにその北側には
「御常御殿」があります。
もともと清涼殿が天皇の
居場所だったそうですが、
そこで歴史的なことが
どんどん行われるようになると、
今度はこの御常御殿が
天皇のお住まいになられました。
建物の中からこんな庭を
見て過ごされたんですねえ。
まあ、大体これで御所内の
大まかな参観は終わりですねえ。
なかなか天皇も立派なところに
住まわれてましたねえ。
でも日常の庶民の暮らしとは
かなりかけ離れた場所でしたねえ。
こんな様々な役割を持った
建物が続きますが、
本当の今の皇居内にも
様々な建物があるのでしょうか。
途中の清涼殿で掲示されていた
様々な年中行事のように、
今でも各建物でこんなに多くの
仕事が天皇に課せられている
のでしょうかねえ。
今年新天皇になられる皇太子さまも
体に気を付けて頑張ってほしい
と思います。
さあて、意外に奥深くまで参観できた
御所内から出て、また御苑の中を
北向いて進んでいきましょう。
台風で多くの木が被害を受けていますねえ。
あちこちで木が倒れています。
そして北の今出川御門のところから、
京都御苑を出ていきます。
ここには同志社大学があります。
doironもここの大学の入試を
受けるつもりだったのですが、
もしここに行ってたら、
この辺りがdoironの青春の
場所だったんでしょうねえ。
そしてその左には同志社女子大も
あったりします。
その二つの大学の間の道を
まっすぐ北上していくと、
相国寺の方に入っていきます。
ここの住所は
「今出川通烏丸東入・・・」
となっています。
それはそうと、京都の住所はややこしいですね。
通りの名前がメインになっていて、
通りを北に入ることを
「上ル」、
南に入ることを
「下ル」
といいますし、東に入ることを
「東入ル」、
西に入ることを
「西入ル」といいます。
この方式で行くと、
たとえば同じ位置でも
「上ル」と「東入ル」が
順番とかあるのですが、
正面玄関がどっち向いているなんかで
標記の順番が変わってきます。
尾道の郵便屋さんも
道の選択が大変でしたけど、
京都の郵便屋さんも
住所による場所の選択が大変ですねえ。
この「上ル」「下ル」は
御所を中心に行われていたそうですが、
今は御所の北側も
北が「上ル」なんだそうです。
続く
今日はとても寒いので、
あとで弁当を食べるときには
お湯でも沸かそうと
ガスコンロを背中の
リュックの中に入れています。
荷物検査の中でこれで
チェックされたらどうしよう。
「いやあ紫宸殿の前で
味噌汁でも作ろうかと思ってまして」
なんて言ってはいけませんかねえ。
何かあったら早速クリエイターの
名刺でも出そうかなあとか思っていたら、
「はい結構ですよ」といって
あっさりパスとなりました。
ああ、やっぱり皇族風の優雅な
顔立ちが安心感を与えたのでしょうねえ。
リュックの中にあの植物の
根ほりとかも入ってなくてよかったです。
なんとかこれで皇居の中に入りました。
入ってすぐに右に資料館があります。
ここでまず頭の中に地図を叩き込んで、
こういう経路で忍び込んでいきましょう。
ではなくて、迷子に
ならないようにしましょう。
御所の中と言えば、紫宸殿と清涼殿
くらいしか知りません。
紫宸殿は公の仕事を行うところで、
明治、大正、昭和ではここで
即位の儀式も行われたそうです。
天皇が500年以上住んだこの京都御所。
火事などで何度も被災したが
その都度豊臣秀吉や
徳川家康などによって再建されたそうで、
今の御所は最終的に1855年に
再建された姿なのだそうです。
でも待てよ~前々回に京都を歩いたよねえ。
羅城門から朱雀門を歩き
その奥が京都の政治の場所
ということでしたよねえ。
なのにこの京都御所は
それから東に外れていますよ。
ちょっと位置関係がよくわからない
のでさらに調べてみると、
ここはもともとの大内裏では
なかったんですね。
この京都御所は土御門東洞院殿の
場所をお借りした
仮に移転した里内裏だったんだそうです。
それをそのまま使っているので、
昔の平安京とは場所的に
混乱しているわけです。
ああ、こうしていろんなことを考えていると
だんだん京都の正体がわかってきましたねえ。
さて今年は新元号を迎えます。
今回は東京で即位の儀式を
迎えそうですが、でもなんかのことで、
この京都御所を使ったり
することはないのでしょうかねえ。
まあ、すこし楽しみにしておきましょう。
そんな御所の中を設定された
コース通りに進んでいきます。
まずは、天皇が日常的に生活していた
清涼殿の横にある諸太夫の間の
横を過ぎていきます。
そこには絵の描かれた屏風が
設置されています。
虎の絵、鶴の絵、森の絵です。
かつて虎はあまり見られた
ことがありませんので、
この当時の虎の絵は
何となく猫感が強いですねえ。
ここの虎もこんな感じでした。
その次に現れるのが
「新御車寄」ですね。
まあ車での移動のための
出口ですから、行ってみれば
駐車場のようなものです。
そしてその後に現れるのが、
南側に大きな庭を持つ紫宸殿ですね。
様々な重要な皇室行事の本拠地でした。
紫宸殿から見て右の方に
「右近の橘」、
左側には「左近の桜」
が植わっています。
明治以前はここらあたりで
日本の重要な政治が
決まっていったんでしょうねえ。
この紫宸殿には、高御座もあるのですが、
今は東京で次の即位時に使うように
東京に移動させてあるとのことでした。
見れずにざんねんでしたね。
正面額の「紫宸殿」の字や
頑丈そうなふすまを見つつ、
右手の方に回り込んでいき、
紫宸殿の北側にある清涼殿の方へと
うつっていきましょう。
途中で人当たりのよさそうな
警備のおじさんに
「今は何かの特別公開日かなんかですか?」
と聞いてみると
「いやいや、この程度の公開だったら、
いつもやってますよ」とのこと。
そうかあ、事前に読んでた資料では
事前の許可申請が必要と
書いてあったのですが、
意外にあっさりと中に入れましたねえ。
まあ、いまは外国人なんかも多いので、
そんな風に規制緩和を
図っているのでしょうかね。
続く
ここまで書いていて、
ふと気が付いた方もいると思いますが、
「御苑」というのと「御所」というのを
使い分けて書いているのはご存知でしょうか。
やはり意味があるんですよ。
ではこの二つはどういう関係なんでしょうか。
その関係について書いてみます。
実は御苑というのは、
この御所部分を含んだ
公園全体のことを表します。
その公園は詳しく言うと
「国民公園」と位置付けられています。
そしてこの国民公園というのは
日本には三カ所しかありません。
この京都御所の周りを囲んでいる
京都御苑と新宿御苑と皇居外苑
だけなんだそうです。
なので公園全体のことを書くときは
「京都御苑」で、
その中の塀で囲まれた
皇居部分のことは「京都御所」と表しています。
そしてなんとさらに調べてみたら、
この御所は宮内庁の管轄なんですが、
その外の部分は環境省が
管理しているんだそうです。
だから御苑の御所以外の部分の
管理は宮内庁じゃなくて
環境省だったわけですね。
予算のことを書くときに
間違っていたようです。
でもいずれにしても
より狭い範囲を管理するのだから、
宮内庁予算の重要性は
さらに益すというわけですね。
いま、doironが歩いているのは
御苑の部分です。
閑院宮邸跡を出て、
さらに北上していきますと
左に小川が流れています。
「出水の小川」という名前が
ついています。
かつては琵琶湖疏水の水を
流していたそうですが、
いまは疏水部分は閉鎖されて
地下水が流されているようです。
でもまあ過去の様子から
この水路には琵琶湖の岩石が
使われているんですけどね。
さらに北向いて歩いていき、
途中から右折していきます。
そして御所の建礼門院から
つながる南北の道に出ていきます。
これが北側の建礼門院に
つながる道です。
あの建礼門院の内側のエリアが
御所になるわけですねえ。
近づいていきますと、
立派な門構えです。
この門の前から東の方を見ると、
あの向こうの方が仙洞御所です。
皇位を退いた天皇は別宮に写ります。
この仙洞御所は後水尾上皇の
仙院として建てられたもので、
のち五上皇の仙洞となったところです。
御苑の中には様々な施設が
残っていますねえ。
この建礼門院から左折して
蛤御門方向へと進んでいきます。
禁門の変で長州藩と争った場所で、
今もこの門にはその時の
弾痕の跡が残っています。
この蛤御門は正式名は
「新在家御門」なんですが、
御所の火災の際、
滅多に開くことのなかった
この門がこの時だけは開いたため、
固く閉じていたものが
火にあぶられて開いたことを
ハマグリになぞらえて
「蛤御門」という俗称が
付けられたとされています。
で、そこからまた御所の横に戻り
北向いて歩いていきますと、
閉ざされた宣秋門があり、
その先の清所門のところが
御所の入り口になっています。
でもねえdoironが歩くのに
読んできた、古本屋の10年前の本だと、
御所内は春秋の公開時以外は
事前申し込みの申請が必要なんだそうです。
ところが、前から歩いてきた
おばちゃんたちが、
入り口の警備員の横を
何の制約もなしに
御所内へと通り過ぎて
いくではありませんか。
え~、今は年末の特別公開期間
なのかなあ。
doironも警備員に
「今日は中に入れるんですかあ」
と聞いてみると
「どうぞ、どうぞ」と案内してくれました。
「ん?もしかして皇族の
高貴なお方だと勘違いしている」
のではと一瞬思いましたが、
まあそんなことは絶対ありませんな。
そのまま荷物点検テントの方に
案内されていきます。
まえのおばちゃんたちも
カバンを開けて
変なアメちゃんもっていないか
などと点検されています。
「え~、今日はガスコンロを
持ってるけど」と焦るdoiron。
続きは果たして。
2018年もあちこちに歩きに行きました。
これまで走ってあちこちを
旅してきましたが、
こうして歩きはじめる旅も
本当に濃ゆくていいですねえ。
住んでみる旅なんかも
もっといいのかもしれませんが、
短い人生なかなかそうはうまくいきませんし、
まあ住んでみる旅も
今のところで十分楽しませて
もらっていますねえ。
ま、そんな人生の旅を
いつもいっぱいしてきました。
そして昨日は書初めの話だったのですが
じつは申し訳ないが、あと1話だけ、
書かせてください。
2018年の旅は今回ブログで
紹介する歩きで終わりですので
よろしくおねがいします。
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今回旅先に選んだ京都は、
御所から西へと向かう
洛中散歩のコースとなります。
さっそく電車で出かけて
みることにしましょう。
今回は南海本線から新今宮、
環状線で大阪へと向かうコースです。
南海電車に乗ってると、
JRゆめ先線で信号故障
みたいな案内が携帯に流れていました。
この情報を何も気に留めず、
環状線に乗ろうと環状外回りの
ホームに行ったら大混雑です。
ウワー、これは電車が来るのに
時間がかかりそうやなあ
と思っていたら、内回り線の方には
電車が入ってきます。
ああ、むこうの方が流れてるのかと思い、
階段を登って向こうのホームに移動しました。
内回り線でもそう対して大阪までの
時間は変わらんだろうという魂胆です。
すると、今度はさっきまでいた
反対側に電車がどんどんやってきます。
ええ~、でもこれで向こうに
渡りなおしたら、今度はこちらに
電車が来たりしてなあ
と不安になってしまいます。
がんばってここで待とうと思いましたが、
どんどん向こうには電車が入ってきます。
むむ~、やはりこれはいかんと
また階段を登り向こうのホームに行くと、
幸い電車がすぐにやってきました。
ああ、時間かかったけど
なんとか乗ることができましたねえ。
しかしねえ、この電車も速度がゆっくりです。
それでも何とか動き始め、
福島を過ぎてやっと大阪に到着!
と思ったら今度は電車が福島の先で
途中で止まってしまいました。
doironは遊びだから、
これはこれで仕方ないなあ
とか思いますが、
仕事の人は年末の忙しい時期に
大変でしょうねえ。
しばらく止まった後、
ようやく動き始めました。
大阪駅に着いたら今度は
京都までの新快速に乗ります。
途中の停車駅は新大阪と高槻です。
途中、茨城の歩いたコースとか
天王山の登り口とかを眺めながら、
ああやっと京都到着です。
ここから地下鉄烏丸線で
丸太町駅まで行きます。
ここから歩き始めたのは、
もう11時半になったころでした。
さあ、降りた駅のすぐ横は
もう京都御苑です。
高校駅伝の二区ランナーが
高速で走って行く
「烏丸丸太町」の交差点をこえて、
御苑の南側丸太町をしばらく
歩いて堺町御門を目指しましょう。
ここが御門です。
ここを入って最初は西側へと向かいます。
それにしても御苑は広いですねえ。
こんなけの敷地を維持していくのは
大変な経費がかかるんでしょうねえ。
まあ宮内庁はこれだけじゃなく、
各地の古墳もそうやしねえ。
調べてみたら、宮内庁の年間予算は
約210億円。
私が住んでいる市の一般会計予算より、
若干少ない程度です。
これはもうしっかり
管理しないといけませんね。
堺町御門から西の方へしばらく歩き、
九条池を過ぎると閑院宮邸跡が現れます。
ここは御所の周辺に並んでいた
宮家や公家のうち現存する
唯一の遺構です。
ここは無料でオープンされています。
中に入っていくと、外国人が
ウロウロしていますねえ。
管理事務所もここにあり、
中には資料館もあるそうです。
展示品の中には東京遷都後に
荒れ果てた御所周辺の様子なんかも
あるそうですが、
ここはパスして御所部分の方に
むかいましょう。
あ、公園の片隅に猫がいますよ。
まるで優美な公家のように
のんびり過ごしているようです。
続く