ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 海南の災難 1

2014年09月20日 21時03分52秒 | ウォーキング

さあて、満を持して熊野古道歩きを再開です。

天満の八軒屋浜をスタートして、
途切れ途切れに和歌山県の海南まで歩いてきました。
このあたりからは、行くのも帰るのも遠くて
そちらに時間がかかるため、
日帰りだとどうしても歩く距離が短くなってきます。

でもまあ、急がず慌てず進めていきましょう。

今回は海南からの歩行です。
車に乗って海南まで行き、
歩いた後電車で再び海南に戻り
車で帰宅ということになります。

前回海南に伊太祁曽から歩いて
海南に到着した時に確認しておいたのですが、
ありがたいことに、海南駅の周辺には
コインPが多くあります。
しかも24時間最大300円という安さ。
これはもう利用しない手はないですね。

少し曇り具合の早朝、
車に乗ってさあ出発です。

ところがです。高速道路に入ったところで
大変なことに気がつきました。

カメラをバッテリーを充電したまま
家に忘れてきてしまったのです。

ドヒャー、これはもう携帯で撮るしかありません。

海南に向かっていきなり災難です。

少しでも充電を増やしておこうと
早速車内で携帯の充電をしつつ、
海南に向かったのでありました。

久しぶりの熊野古道に
うかれていたのかもしれません。

海南に到着し



予定通りコインPにとめ、
気を取り直してさあ歩行開始です。
携帯のバッテリーを少しでも長持ちさせるために、
今回はナビはなしとしました。

スタートは午前8時25分。

コンビニで昼食を調達し、
宝来橋から海南の町に入っていきます。



あちこちの家には紀州漆器の産地らしく
漆器でできた「熊野街道」の看板が掲げられています。



前回見覚えのある看板を見ながら



熊野古道と別れた、一の鳥居にほどなく到着です。
さあ、ここから道をつなげていきましょう。



「熊野古道」と書かれた提灯が、
道や軒先にぶら下げられているのも、
雰囲気がありますね。



さて先ずは祓戸王子を目指し、
看板のあるところを左折し、



山の中に入っていきます。

ここがねえ、大変でした。

主に竹やぶの中の道を進んでいくのですが、
顔の周りに蚊が飛び交い
草むらにはスズメバチの姿も見えます。
いきなりムシムシ警報発令です。

おお~、これもまた災難だあ。

竹やぶの中は竹の切り株なんかに水が溜まり、
そこに大量の蚊が発生します。

山道に沿って、たくさん並んでいる
小さな石仏達を撮影していると、







周りをブンブン虫が飛び回る状況でした。

挙句には、携帯カメラを構えている
その指にまで虫がたかってきます。

見たところヒトスジシマ蚊ではなさそうですが
これはもうムシムシ特別警報に切り替えねばなりません。
先が思いやられます。

かなり奥まで入っていったところに、
祓戸王子跡がありました。

昔はここから、藤白神社や藤白坂が
一望できたそうですが、
周りの様子はどう見ても山の中で
どうもそんな感じではありません。
しかも石碑には「祓戸神社々趾」と刻まれているものの、
社殿があったような場所にも思えません。

いつの時代かに移設されたのかもしれません。
資料ではもっと古道沿いに社殿があったという人もいるそうです。

とりあえず撮影をして、



ムシムシ特別警報が出ている中を
慌ただしく下りました。

古道に戻ると警報は解除です。
再びルンルンと歩きはじめました。

今度は右手に「鈴木屋敷」が見えてきます。



熊野信仰を全国に普及させるのに
重要な役割を果たした
藤白の鈴木氏が住んでいた屋敷跡です。

名所図会にも登場するそうです。



見る限りかなり荒れており、
現在は周りに足場が組まれて
整備する計画が進められているとのことです。



ここは、全国に200万人といわれる
鈴木姓の人のルーツといわれており、
こんな旗が建っていたり、



藤白神社内にはこんな表示もありました。



こういう姓のルーツは熊野古道の出発点
天満の八軒屋浜にもありましたね。
たしか「渡辺」姓のルーツでした。

ちなみにdoiron姓のルーツは
現在の生息地であります。

さあ、いよいよ五体王子のひとつである
藤白神社に入っていきます。



続く。


あいそなし

2014年09月19日 21時35分50秒 | 生活

こう見えてもライターの端くれですから、
日常生活の中で使う言葉にも
時々思わず反応してしまいます。

錦織クンの記者会見で使う言葉は
いつも「ら」抜き言葉だなあ、とか
政治家が使う言葉は断定的ではなく
いつも含みを残しているなあとかね。

自分で使う言葉でも時に語源はなんだろう
と考えてしまうことがよくあります。

例えば、昨日もエイで使った

「おあいそ」

は何故勘定の時に使うのかって考えてしまいました。

「愛想」を辞書で調べてみると
「客に心からサービスしようとする、
応対の仕方や顔つき」とあります。

ということは、勘定をすることで
店の人に「いい顔つきをしてくださいよ」
と要求しているてことになりますね。

じゃ「愛想ない」、
つまり大阪弁の「あいそない」は
相手がいい顔をしてくれないことから転じて
「つまらない」ていう意味になるってわけですね。

いずれも人と人の関係からくる言葉なんですね。

あ、「つまらない」って言葉もそう。

これは多分戦や将棋なんかの
勝敗の状況からきているに違いありません。

以前、某寺院に写経をしに行ったときに、
僧が語っていたことを今でも覚えています。

物事がつまらない時、
人は下を向いてしまいます。
だから「面倒」なのであり、
楽しいとパッと顔が輝きます。
だから「面白い」のだと言ってました。

今でもなるほどねーと思う講話でありました。

ところで、泉州地方は岸和田の
旧市の祭りは済んだとはいえ、
大半が来月の体育の日あたりが祭りになります。

街角に提灯が灯り、
夜になるとあちこちから
太鼓などの鳴物の練習の音が聞こえてくる今日この頃。
祭りムードは日に日に盛り上がってきています。

しかしねえ、今年は喪中なんです。

これまでの習わしで、
喪中の人はだんじりに触れないというのが、
暗黙の了解なんです。

第一、だんじりに乗って鳥居をくぐるわけにもいかないしね。

穢れているというわけではないのですが、
けがを呼ぶ、事故を呼ぶと
ある部分忌み嫌われている
ということからでしょう。

もともと、だんじりに乗るときは、
少しでもけがなどしないように
刃をあてて髭を剃るのも控えるくらいですからね。

だんじりそのものが、
五穀豊穣の儀式でありますから、
儀式にはだんじりをはなれた日常生活においても
儀式を伴うものなんですね。

それほど、人々にとって
大切なのが祭なんです。

毎年、だんじりに乗って「行っけ~」
などと叫んでいるdoironにとっては
だんじりに触れないとなると、
今年の祭りはほんまに

「おもろない」し「あいそなし」ですわ。


武庫川をあっち側から 2

2014年09月18日 21時04分22秒 | ウォーキング

枕木、トンネル、鉄橋と廃線ハイクは
いやがうえにも盛り上がっていきます。

さすがに勝手に歩いてチョーダイコースでも、
足下に隙間だらけの線路の上は
歩けないようになっていて、
鉄橋の横にある管理用の側道を歩きます。



岩がゴロゴロしている下の河原に下りて
釣りをしている人の姿もありました。



ま、これだけの渓流ですから、
川魚なんかの魚影もさぞかし濃いのでしょう。

ああ~それにしても、
鉄橋の枕木の上を歩いてみたいものです。



鉄橋を渡り終えるとすぐにトンネルがあります。



この路線を電車が走っている時に、
その汽車に乗ってここを通るのは、
さぞや気持ちよかったでしょうねえ。



山の中で管理が大変なのと、
電化するのに狭すぎるというのが、
廃線となった理由だそうですが
ガタンゴトンとトロッコ列車でも走らせたら
今でも十分立派な観光資源になりそうです。

鉄橋からすぐのトンネルを抜けると、
それまで左岸を歩いていた道が右岸を行くことになります。

対岸の山を見上げると、
あちこちに岩が露出しています。







地図には、人面岩、姉さん岩、仙人岩、百畳岩、天狗岩
といった表記があります。

しかし現地には何も案内がないので、
どんな人面なのかよくわかりません。
そう思ってみていると、
どの岩も人面に見えてきたりします。

ネットを見てもよくわかりませんでした。
ただ、昔はこんな案内板も
立てられてあったということがわかりました。



ではここで、doiron認定の奇岩をご紹介いたしましょう。

これは~もしや~ 



そうスターウォーズに登場するジャバザハット岩です。

そしてこれは、



ゲームはよく知らないけど、
たまに見かける「星のカービー岩」です。

ま、ちょっとマニアックなので、
これならわかりやすいかな。



「ウインク岩」です~

この辺はいろいろと勝手に歩いてチョーダイコースなので
勝手に名づけておきましょう。

このブログを読まれた方、
ぜひ探してチョーダイね~。

この道は廃線跡という一風変わった道であることと
渓谷美もかように美しいということもありますが、
自然も豊富です。
世間一般の人は「むかご」をあまりご存じないのですかねえ。
コース沿いにいっぱいありましたので、
ちょこちょこっと収穫しただけで、
こんなにありました。



これでも二人で取り分けたうちの一人分ですから
実際はこの倍はあったというわけです。

相変わらず雰囲気たっぷりのトンネルも続きます。



このトンネルにいたっては、
全長400mでもちろん灯りもないため、
中は真っ暗でした。



鉄橋とまでは言えませんが、
こういう鉄板の橋を渡れば、



終点も間近です。

向こうに中国自動車道の高架も見えてきました。



こうして歩くこと2時間強で
生瀬の駅に到着です。

ここから電車に一駅乗り、宝塚に到着。

コースが狭かったので、
ここ宝塚の河原で遅い昼食後、



さっそくまずは温泉です。



この前も書いたように
安藤忠雄設計の宝塚温泉に行きましょう。

おや?温泉の前でピースサインをしながら
セルフ写真を撮ってる変なおっさんがいます。

ドヒャー、ジダンでした。



六甲を走ってここにたどり着いたそうで、
高齢者同士、労をねぎらいながら
早速近くの公園で酒盛りをしました。



そして風呂後は大人のソフトクリーム宴会。



しかし、世間はなんて狭いんだろうね。

偶然こんなところで会うなんてなあ。

ブログ用の自己撮影をしているジダンの姿を
撮り損ねたのが悔やまれます。
まだ修行が足りません。



それにしても服の色まで
似ているのはどういうことですか

ここの温泉の風呂の傘立てには、
ステッキが刺されてありました。



素敵ですね(ステッキだけに)
さすがに六甲全縦終着点の宝塚だけのことはあります。

あ、自慢ですが、
doironは六甲全縦で
一度TOPになったことがあるんです。
えへん。

全員風呂から上がってからは、
急いで帰らねばならないジダンを見送り、
doiron一行は宴会へ。

といっても、こちとらも風呂前に
ビールを二本も飲んでいて
結構きてましたので、
こんな豪華刺身中心のお店で



チョロッと飲んで帰ってきたのでありました。

夏の終わり、秋の初めの武庫川廃線ハイク、
楽しかったです。

終わり


武庫川をあっち側から 1

2014年09月17日 21時35分59秒 | ウォーキング

少し前に、
秋にハイキングを予定している友ヶ島のことが
掲載されていたので買った本に、
別のコースとして紹介されていたのが、
武庫川渓谷廃線跡ハイクです。

武庫川と言えば
あの思い出の宝塚マラソンの
ゴール地点横を流れていた川ですから
doiron再生の産湯の水が流れる川ですね。

旧JR福知山線が電化に伴って経路を変え、
1986年に廃線となった部分を歩くこのハイキングは
廃線ハイクとして、近年とっても人気があるそうです。

JR宝塚線の「生瀬駅」から、
渓谷沿いを、気分は「スタンドバイミー」で、
枕木の上やトンネル、鉄橋を渡って
「武田尾」の駅まで歩くコースです。

ゴールは温泉としても聴いたことのある武田尾です。

ハイキング後は温泉でのんびり
というのもいいもんじゃないか
と計画したのですが、
このコースを何度か走ったジダンに訊くと、
どうも武田尾温泉には
気軽に入れる日帰り温泉はなさそうだとのことなので、
それでは逆に武田尾から歩き
生瀬を経て宝塚に出るコースがいいだろう
と計画を変更しました。



武庫川をあっち側から歩くわけです。

今回はこの計画を知った
昔のラン友たちが、同行することになりました。

当日は、岸和田祭り真っ最中の、
絶好の初秋ハイキング日和。

宝塚で昼飯を調達し、
スタート地点である武田尾駅に
降り立ったのが午前10時頃でした。



駅のすぐそばを流れているのが「武庫川」。

こっち側でもあっち側でもありません、
武庫川です。

普通のハイキングコースとは逆なのか
駅近くには、廃線跡の看板はありません。

それもそうでしょう。
今回歩こうとしている廃線跡は
JRの私有地内のコースです。
枕木や、見張り所や線路沿いの設備を
完全撤去しているわけではないし、
鉄橋も老朽化したまま、
トンネルも照明設備がないので、
ハイキングコースではないと位置づけられています。

途中こんな看板も廃線入り口と
出口のところに建てられてありました。



それによりますと、
それでも歩こうとするなら
すべて自己責任で、
ということで立ち入り制限まではしていませんが、
JRとしては
「勝手に歩いてくださいコース」なので、
コース案内の看板を立てていない、
とこういうわけです。

駅を降りて目指すのが下流方向になりますから、
当然コース取りも流れに沿って進めていきます。

川の横の広々とした道を歩いていくと、



数百メートルでようやくそれらしい看板が出てきます。



これに沿って行きましょう。

コース脇には黄色いコスモスが風に揺れていたりして、
なかなかいい雰囲気です。



武庫川の支流の小さな橋を渡ると、
廃線跡が始まります。



道にはまだ枕木が残っており、
道の脇にはミズヒキ、キンミズヒキ、イシミカワなどの



小さい花がいっぱい咲いている中を
いい雰囲気で並木のトンネルを歩いていきます。



渓谷の方を振り返ると、
先ほど出発した武田尾の駅方面が見えています。



おっ、早速並木トンネルではなく
本当のトンネルが見えてきました。



ここでリュックからヘッドライトを取り出します。

このコースの中には全長約400mのトンネルもあり、
すべて灯りは全くないので



へドランもしくは懐中電灯必携です。



へドランをつけてコースを歩くのは、
もしかしたら萩以来かもしれません。

最初のトンネルはさほど長くはありません。



入口や出口からの光で、
かろうじて足下が見えます。
逆コースで歩いているので、
向こうから歩いてくる人の灯りが
ちらちら見えるのが面白い光景ですね。

おっと、道が崩れていますが
さして整備する気持ちもなさそうで
崩れた土砂の上に道ができていました。



このコースを歩いていて
印象に残ったのは、
若い女性のグループが多いということでしたね。

おしゃれでしっかりしたアウトドアウェアを
身にまとった山ガールというか
ハイキングガールのグループと
数多くすれ違いました。

まあ、服装や装備の確認という意味では、
アウトドア入門編ともいうべきコースなのかもしれません。

いくつかトンネルを超えると
その先に赤い鉄橋が現れました。



このへんが廃線跡の醍醐味ですね~。

続く


和歌山で半日湯治

2014年09月16日 21時18分40秒 | 最近の出来事

エイ仲間の首Dさんを車に乗せて、
和歌山市の花山温泉に行ってきました。



阪和道の和歌山ICのすぐそばにあるこの温泉は、
天然炭酸含有量がめちゃ多く、
療養泉として関西最強の炭酸鉄泉といわれています。

温泉の名前は花山で、
湯は効能が創傷治療促進、血液さらさらなどありがたく、
「薬師の湯」と名付けられています。



現在、闘病の仕上げ段階である
首Dさんの身体の療養と
身内に不幸が続いたdoironの
心の療養を兼ねてこの温泉への
日帰り温泉ツアーを組んでみたというわけです。

首Dさんが仕事を終えてからの、
午後3時に泉O津の駅で待ち合わせし、
車に乗って約30分で到着。

待ち合わせの昔のエイ仲間で
この温泉の近くに住んではるT本さんは
すでにスーパーカブで先着していました。



玄関先で合流し、さあ入浴です。
こんな廊下を通り、



途中斜めに走っているパイプの中を
ゴゴ~っと湧いた源泉が通っていくのが
見えるようにもなっていました。



外の駐車場にも車がいっぱい止まっていたので、
案の定、風呂の中は結構な数の客であふれ、
したがって写真撮影は当然NGです。

先ずは露天風呂に直行。
ここの湯の温度は40℃と露天にしては少しぬるめでしょうか。
浴槽の周りに元の浴槽の形がわからないほど、
湯の華がびっしりとこびりついている風呂に、
の~んびりとつかりました。

ちょっとタオルに湯がかかると、
白いタオルが瞬く間に茶色になります。
有馬の金泉のような感じですね。

首までゆっくりつかりながら、
首Dさんの回復状況や
最近のdoironやT本さんの動向について
ちゃぶちゃぶと情報交換をしました。

そんな三人の話に、途中から
先客だった高齢者の人が入ってこられて、
年間3万キロを車で移動して
全国の温泉を巡っている話しや、
傷めた膝の治し方なんぞについて
レクチャーしてくれました。
なかなかのツワモノぶりに感心しましたな。

室内にもいろいろと浴槽があります。

温度26度の源泉浴槽、
同じく38度、42度の浴槽もめぐりながら一時間強。

心身共にのんびり過ごし、
寿司屋で夕食を食べ帰ってきました。

半日でしたが、しっかり充電できた
花山温泉の旅、終わり。


太子たもんだ 4

2014年09月15日 21時02分42秒 | ウォーキング

最近、ブログの閲覧者数が1000人を超え、
急に増えています。
一体誰がこんなだらだらと長いブログを
我慢して読んでくれているんでしょうかねえ。
ありがたいような申し訳ないような気持ちで、
今日もせっせとしたためています。

でもまあ、ご愛読ありがとうございまちゅ。

さて、シリーズ第4話、最終話です。
広々として、こんなところに
自分の墓をつくりたいかもと思わせるような
気持ちのいいところにあった
推古天皇陵から次に向かうのが、
今回設定したグルリンパコースの最終目的地

「用明天皇陵」です。

用明天皇は聖徳太子の実の親にあたります。

このあたりは静かな環境、
王陵の谷ということもあって
墓地が目立ちます。

なので、石材店や仏壇店も多くありました。



のどかな田舎道から住宅の中に
入ってきたところに用明天皇陵がありました。



在位期間が2年足らずと短いにもかかわらず、
一辺100mの広大な方墳に埋葬されているのは、
やはり聖徳太子の父であったからでしょうね。



それにしてもこのあたりは
太子ゆかりの重要人物が多く眠っています。

さすがに「太子」町というだけのことはありますね。

大したもんです。

とさり気なくタイトルを書いておきましょう。

今回は歩きはじめのGPSセットを
ついうっかり忘れておりましたので、
正確な歩行距離がわかりませんが、
途中からセットしたのと
地図で計測したのを合わせると、
約8キロの歩行であったことがわかりました。

先日の山の辺の道とあわせて、
秋の歩行の準備としては
まずまずの歩行といえるでしょう。

車に戻って、今回の旅のもう一つの目的地

「近つ飛鳥博物館」

へと向かいました。

近つ飛鳥風土記の丘に建つこの博物館は、
「安藤忠雄」の設計した建物です。

ん?安藤忠雄といえば
最近訪ねた司馬遼太郎記念館も
たしか彼の設計でしたねえ。

つい最近、行ってきた宝塚温泉も
彼の設計だそうです。



近頃、なぜか安藤忠雄づいています。

この博物館では山の中に突然出現する
大階段が印象的です。



この階段でコマ送り動画を作ると面白そうですねえ。

建築を通じて数々の賞を受賞した彼ですが、
この建物では日本芸術大賞を受賞しています。

玄関に回り、



その前の広場で少し遅い昼食です。

今回は玉子焼きと奈良漬の簡単なおかず
と缶詰をひとつ。
そしておにぎり2個です。



もちろん車ですからビールはありません。グスン。

普段は300円の入館料が、
特別展開催中ということで400円となります。

招待券が何枚かあるので、
来た人がいて券を買いそうになってたら
あげようと思っていたのですが、誰も来ませんでした。

常設展は同じ府立のご近所の弥生文化博物館に比べて、
解説モニターもあったりして
少し凝っているようでした。

写真撮影は、「大阪平野は昔海だった」の特別展はNG。



常設展も撮れるところと
そうでないところがあるというので
面倒なのでカメラをバッグにしまいました。

特別展では昔の大阪の地図も展示されていました。

今の大阪はその昔ほとんどが海でだったような
そんな地図でした。

そこへ上町台地が南から北へ細長く突き出ていて、
岬となっており、
その岬の先端が大阪城の辺りになっていました。

熊野街道を歩いている時に、
不自然に道が曲がっていたりしたのも
その海が淀川が運んできた土壌で
地面となるまで大半が湿地であり、
それを避けるように
道が付けられていたからということを
あらためて実感しました。

今でも地面を深く掘れば
海の名残が出てくるそうです。

先日歩いた福島あたりもそういえば、
「島」なんですから海だったわけですね。

そういったことがよくわかる展示になっていて、
来た甲斐がありました。

今年の秋の第2弾、太子グルリンパ歩行。
これにて無事終了です。


太子たもんだ 3

2014年09月14日 21時33分02秒 | ウォーキング

竹内街道とグルリンパコースの分岐のところには、
こんな古い家があります。



屋根にもこれは煙ヌキでしょうか。



かやぶき大和棟民家というそうです。

ん?その時には気付かなかったけど、
あとで写真を良く見たら屋根の真ん中に
何かがあるではないですか。
拡大してみましょう。





どうやら松の飾りのようです。
これまで鍾馗さんやカラス天狗はありましたが、
これは初めて見ましたね。
写真は撮っておくもんですな。

飛鳥川に架かる



「餅屋橋」という橋柱には、



他の面に「右 推古天皇御陵十町 科長神社七町 
小野妹子墓八町 倉山田石川〇呂 5町」

「左 孝徳天皇御陵一町 鹿谷寺旧蹟十五町 中将姫旧蹟二十町」
と刻まれてありました。

細かく刻んでくれるのは親切でありがたいのですが、
字が細かいと月日が経つと
判読が困難になります。
これも風化によってほどなく読めなくなるでしょう。

道標は長尾街道の藤井寺にあった

「右 いせ」みたいにズバッと書いてあるのがいいですねえ。

ところで、飛鳥川とはどこかで聞いた名前ですね。
ブログを遡ってみたら
大和三山歩行の時に
香久山の近くを流れていたのも飛鳥川でした。

しかし二上山や葛城山を越えて
川が流れてくるはずもありません。

したがってこの太子の飛鳥川は
その奈良の飛鳥川とはつながっていません。
あしからず。

その餅屋橋を過ぎるとすぐに
国道166号に出ます。

それを左折してしばらく車に注意しながら歩き、
この道の駅の看板のところで右折となります。



急に車も減ってのどかな道を歩いていきますと、
こんな後屋池という池に架かる
珍しい橋を渡ります。



池の向こうに河内平野と
PLの塔が臨めます。



きっと8月1日は人でいっぱいになるでしょうねえ。

池の横に建つ家も多分に見晴らしを意識しているようです。

さて次の目的地は「小野妹子」の墓です。

小野妹子は飛鳥時代の外交・政治家です。
「妹子」という名前から
女性と勘違いされることも多いのですが、
遣隋使として歴史に登場する
れっきとした男性です。

彼もきっと、あの海柘榴市から、
隋へと旅立って行ったのでしょう。

その墓へは案内がなくて分岐点はややこしいです。

地図と地形をじっくり見比べて
エイヤと入っていった道が正解でした。

道の途中の観音堂の脇に



こんな道標がありました。



科長神社の脇から、
(あ、科長神社は「しながじんじゃ」と読みます。
「磯長」の別字ですね。
長い階段を上り詰めると
そこに小野妹子氏の墓があります。



小高い丘の上で、近つ飛鳥を見下ろしているようです。



みどりがやけに濃いなあと思っていたら
道理でこの辺りは
大阪緑の百選地区でした。



そういえばスタート時の叡福寺もそうでした。



小野妹子の生没年は不詳ながら、
「日出處天子至書日沒處天子・・・」の書状をもって
隋に渡り向こうの皇帝を激怒させたという逸話のあるのが、
聖徳太子の在位期間中ですから、
ここには当時ともに政治に携わった一群が
集まっているわけですね。

頂上の広場の手前に
この墓地の大きな修築竣成記念碑がありました。



大正11年3月とありますから、
亡くなった親父が生まれたのと全く同じ時期です。

建てたのは、小野妹子の後裔である
あの華道の家元池坊専啓という人だそうです。

よって、小野妹子は時に華道の祖と言われます。

元のグルリンパコースに戻り、
次は推古天皇の陵墓を目指します。

道端には、今年初めてのヒガンバナも咲いていました。



もう少しすれば、多分のここから見渡せる田園風景は
この花で紅く染まるんでしょうねえ。

向こうの丘陵の森の中に、
後で訪れる「近つ飛鳥博物館」があります。



お、さすがに推古天皇陵は、
二上山、葛城山から伸びる山すそを背景にして、
きれいにすっきりと整備されています。



遠望がきくとともに虫の音だけが聞こえる
静かな環境の中にたたずんで、
今回訪れた中ではもっとも広々と
気持ちのいいところでした。



在位期間の短い当時の時代にあって、
日本初の女帝として30年以上君臨し、
皇子である聖徳太子と共に
もっとも政治らしい政治を行った天皇であると言えるでしょう。

続く。


太子たもんだ 2

2014年09月13日 21時48分05秒 | ウォーキング

ここからしばらく歩行は
道標にある右の竹内峠を目指し



竹内街道を進みます。

ダイトレで横切るあの二上山と
葛城山の間のあの峠ですね。

生垣の木に隠れていた道標には



「右 たへま つぼさか いせ よしの 高野」

と刻まれていました。

この街道には、路面に茶色の舗装が施されていたり、
石畳があったりし、
特別な道として太子町の思い入れを感じます。
しかも、マンふたには、
叡福寺の宝塔と、あの聖徳太子が作ったとされる
「17条の憲法第1条」の言葉である
「和を以って貴しと為す」が刻まれているという力の入れよう。



数々のマンふたを見てきましたが、
言葉が入っているこんなのはこれまでありませんでした。

また地元の人達も各家の前にこんな板を置いており、



この道を誇りに思われていることが伺えますね。

おっ、道の向こうに二上山が見えています。



やがて六枚橋という橋を渡ります。



板が六枚敷かれた橋だったからだといわれています。

ここから竹内峠へののぼりが始まるのです。



おりしも一台のロードレーサーが、
よっしゃ行くぞと言わんばかりに
立ち漕ぎで入っていきました。
まるで昔の自分を見るようですなあ。

竹内街道のこんな案内を見ながら、





太子温泉という看板にも心惹かれましたが、



今日は時間がないのでスルーです。

しばらく登ると江戸時代から
ここにあるという「しもの地蔵尊」がみえてきました。



きれいに掃除され、
つい今しがた供えられたような
可愛い花が手向けられたその地蔵堂の姿から、
地元の人の篤い信仰が伺えますね。

と、その横にこんなお墓が建っていました。



「二見岩之墓」「門弟中」と刻まれています。
地元出身の相撲取りでしょうか。
手元の資料にも何も書かれていないので、
この先にある
「竹内街道歴史資料館」で尋ねてみましょう。

今日はこの交差点を右折して、



太子町内をグルリンパと回る予定ですが、
もう少し先まで行きます。

そこにあるのが「孝徳天皇陵」です。
急な坂を上って訪ねてみましょう。



この時代の頃は異母兄弟が結婚したりして
家系が複雑です。
「おじ」とか「いとこ」とか
そういう家系の言葉が当てはまらないような
血縁関係があってややこしいのですが、
この孝徳天皇は
聖徳太子の遠い親戚であることは間違いありません。

大化の改新の事業に勤しんだ
第36代天皇なのですから、
古市古墳群、百舌鳥古墳群とつながるこの街道沿いの
立派な御陵でありました。



御陵の周囲は、緑が濃く
秋の花が色づいています。

アキノタムラソウや
あまり街中では見かけないワレモコウや



ツリガネニンジンも秋風に揺れていました。



さあ、ここから竹内街道歴史資料館までもう少しです。

そこで先ほどの墓のことや街道沿いにあった
こんな淵のことなど



いくつか質問しようと思っています。

看板に沿って行くと・・ありました。
ここです。



う~んと、入り口はどこかなと詰めていくと、

ガーン!

定休日でした。



博物館などの休みが多い月曜日を避けてきたのに
週に二日も休むのかいな。
これはショックでした。

「開けてくで~」と門にしがみついて
ガタガタしてやろうとおもったくらいです。

すると、門のすぐ内側に道標が見えました。



回り込んでみてみると

「すぐ大坂道」と「左 たゑま竹内 よしのつぼさか 道」

と刻まれています。
ここにあったとは思えないから、
どこかから移設されたのでしょう。

すっかり道標にほだされて、
定休日のショックから立ち直ったdoiron。

さあ、街道に戻って逆行し、
孝徳天皇陵のところから
太子グルリンパコースに入っていきましょう。

あ、正しくは「ツールド大阪太子ウォーキングコース」といいます。



続く。


太子たもんだ 1

2014年09月12日 21時35分33秒 | ウォーキング

大阪府南河内郡太子町といえば、
doironの知り合いの人たちの多くは、
ああ、あのダイトレスタートの二上山があるところ
だと思い浮かべるでしょう。

そう。
それは間違いではなくその通りなんです。

でも太子町はそれだけではありません。
先日歩いてきた山の辺の道や
大和三山、そして奈良の飛鳥とも深~い関係があるのです。

隣の河南町にある近つ飛鳥博物館の招待券をいただいており、
その特別展「大阪平野はむかし、海だった」の展示期間の
終了が近づいてきていたのでそこに出かけがてら、
太子町の町をグルリンパと歩いてきました。

車に乗って、まず向かったのが、叡福寺です。



ここには聖徳太子の陵墓があります。



そう、太子町は聖徳太子ゆかりの地
であることからついた名前なんですね。

叡福寺の北にあるこの円墳の陵墓には
太子と共に太子の母と奥さんが一緒に埋葬されており、
「三骨一廟」の陵墓であると言われています。

聖徳太子は推古天皇の皇子として
万機の政治をつかさどっておりました。
斑鳩に法隆寺を建立し、
斑鳩宮を築いたともいわれています。

その彼がなぜ、
今の太子町に眠っているかというと、
生前に彼は当時
「磯長(しなが)」と言われていたその地に
埋葬を希望していたのだと言われています。
それが今の太子町でした。

そこはまた最古の官道「竹内街道」沿いにあり、
父である用明天皇が眠る陵墓もあるからでしょうか。

その聖徳太子の「磯長御廟」を守るように
建てられてあるのが叡福寺です。

叡福寺は別名「上之太子」と言われています。
近鉄の駅名にもなっていますね。

ということは「下之太子」もあるのでしょうか。

あるんです。

八尾市にある大聖勝軍寺が「下之太子」、
藤井寺市にある野中寺が「中之太子」と言われているそうです。

野中寺はかつてdoironが
1年間だけ住んでいたところの近くにありますが、
一度も入ったことがありません。

30年以上の時を経て、
今頃興味を持つことになろうとは・・・。

こんな立派な宝塔もある叡福寺の境内を歩いていると



ここにも退職者らしき歩行者が
あちこちを見て歩いていました。

短パンにリュック姿で
大きなウエストバッグをしたそのいでたちは、
ずいぶん年季が入っているようです。

お、リュックの肩紐には何やら、
ペン入れのようなものがついており、
飲み物収納の部分には三脚が入っております。

こういうベテラン歩行者ぽい人をじっくり観察するのは、
歩行時の装備や服装の参考になるってなもんですな。

境内の池で、面白いカエルを発見!



水面に垂れ下がった萩の枝に
片手で捕まって浮かんでいる姿が
めちゃユーモラスでした。

叡福寺から一旦南へと進みます。

山門の前の道路を隔てたところに、
太子の乳母3人のお寺があります。
最古の尼寺ともいわれる

「西方院」です。



その寺に向かう道には道標があり、



弘法大師の休足石(?)も立てられていました。



この石に足をかけてストレッチでもしたのでしょうか。
だったら、doironの休足ガードレールや
休足ベンチも練習で走ったコースの
各地にあるのですが・・。

そこを出て、今度は東に向かいます。
この小学校の名前に、
旧地名である「磯長」が残っています。



古い家並みが続く細い道を抜けていき、
ここで難波津から飛鳥に向かう大道として
推古天皇が設けたと言われている
日本最古の官道である竹内街道に合流します。



飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、
大陸から中国や朝鮮の文化をもたらした道なのだそうです。

遣隋使は、水路ではこの前歩いた海柘榴市から
大和川を下り、
陸路はこの道を通ったわけですね。

道標には右 竹内峠 左 穴虫峠
の文字が見受けられました。

続く。


山の辺の秋 3

2014年09月11日 21時33分42秒 | ウォーキング

休憩がすんだら、歩行を再開。
山の辺の道を北上していきます。



海柘榴市(つばいち)は
街道交通、河川交通が集まって市が立って
大いににぎわったところだそうです。
日本書紀や万葉集にも
頻繁に表れる「市」だそうだ。

柘榴は「ざくろ」のことです。
そしてそれに「海」をつけた
「海柘榴」はご存じ「つばき」のことをいう。

多分どちらもよく似た実をつけるからなんでしょう。
これが、先ほどの大和川沿いで
撮影した「ザクロ」。



そしてこれがネットの中で実っていたつばきの実。



この二つがよく似ているところから、
こんな漢字の構成になっているのでしょう。

ここ海柘榴市には
春と秋に若い男女が集まって歌を交わした
「歌垣」というイベントも催されたそうで、
さしづめ今でいう「街角バル」だったのかもしれません。

そして、歌が激しく交わされることから、
古代のつま恋あるいは
泉大津フェニックスのようなところであったともいえる。

その海柘榴市の跡と言われる
「海柘榴市観音」に入っていく道には
案内看板と道標と万葉歌碑があった。



「むらさきは 灰さすものぞ つば市の
 八十のちまたに 逢へる児や誰」



詠み人知らずだが、歌碑の文字は
今東光書と書かれてあった。

さらに手作りの看板に導かれていくと・・・



見えてきました。
ここが海柘榴市観音。



観音堂や



数々の地蔵に囲まれて、



どことなくパワースポットめいた雰囲気を醸していた。

元の道に戻り先を行くと、
古い家並みの中に
こんな鬼瓦をのせた家がある。



「おたふく」の鬼瓦だそうだ。
鬼とおたふく?真逆のような気が
するけどいかがなもんか。

「福瓦」といってもいいかもね。

このあたり屋根の上はどこも結構賑やかで、
大黒さんや



布袋さん



数多く見かけたな。

それにしても、
こうして瓦を見上げたり、
電柱を見上げてみたり、
地面を見下ろしてマンふたを調べたりと、
近ごろは街道歩きも一筋縄ではいきませんな。

そうして、キョロキョロしているうちに、
ついに金屋の石仏に到着した。



ついに・・・というのは、
前回天理から歩いた時はここが終点だったので、
doironの足跡として山の辺の道が
天理から桜井まで一本の線でつながったということになる。

山の辺の道はいろんな古代の面影に出会った
いい道だっと言えるでしょう。

天理以北はまたいずれ。

森の中を抜け、



大神神社に出ても、
まだ喪の明けていないdoironは
鳥居をくぐりません。

脇道から参道入り口にでて、



門前で食事をすることにした。

食べたのはこれ。



もちろん三輪そうめん。

ここのお店はこれまで大神神社に
何回か来たときにはたいてい立ち寄っている。

多分、ヒネのそうめんだろう、
コシがあってつるつるとした食感が
なかなかのもんだ。

ま、三輪の本場でええかげんなそうめんは出せないわな。

おなかもふくれたところで、
車のある桜井へ戻るために
電車の駅に向かった。

途中の木立に囲まれたこの参道には、



時期が来れば出店がいっぱい並ぶ。

海柘榴市ならぬ「三輪市」としていつか
歴史に残っていくんだろうな。

駅前商店街の古いお店を眺めながら、



ほどなくJR三輪駅にとうちゃこ。



桜井駅に比べてなんとものどかな無人駅である。

駅前で、こんなソーメンをお土産に買った。



子供の頃、そうめんを食べるときに、
色のついたのが入っていると
とても嬉しかったりしたもんだ。

駅のホームからは、三輪さんが見えている。



仏像もそうだけど、祈りの対象となるものには、
何かしらの力が宿っているように見えて仕方がない。
この三輪山も、そうしてみると
神様が寝そべっているように見えないでもない。

突然思い立って出かけてきた
山の辺の道には確実に秋が訪れていました。

こうして芙蓉の花も咲く中を歩き



今年の秋の幕開けにふさわしい、
山の辺の秋を満喫して、
大満足で家路についたのでありました。

このシリーズ終わり。