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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

太子たもんだ 1

2014年09月12日 21時35分33秒 | ウォーキング

大阪府南河内郡太子町といえば、
doironの知り合いの人たちの多くは、
ああ、あのダイトレスタートの二上山があるところ
だと思い浮かべるでしょう。

そう。
それは間違いではなくその通りなんです。

でも太子町はそれだけではありません。
先日歩いてきた山の辺の道や
大和三山、そして奈良の飛鳥とも深~い関係があるのです。

隣の河南町にある近つ飛鳥博物館の招待券をいただいており、
その特別展「大阪平野はむかし、海だった」の展示期間の
終了が近づいてきていたのでそこに出かけがてら、
太子町の町をグルリンパと歩いてきました。

車に乗って、まず向かったのが、叡福寺です。



ここには聖徳太子の陵墓があります。



そう、太子町は聖徳太子ゆかりの地
であることからついた名前なんですね。

叡福寺の北にあるこの円墳の陵墓には
太子と共に太子の母と奥さんが一緒に埋葬されており、
「三骨一廟」の陵墓であると言われています。

聖徳太子は推古天皇の皇子として
万機の政治をつかさどっておりました。
斑鳩に法隆寺を建立し、
斑鳩宮を築いたともいわれています。

その彼がなぜ、
今の太子町に眠っているかというと、
生前に彼は当時
「磯長(しなが)」と言われていたその地に
埋葬を希望していたのだと言われています。
それが今の太子町でした。

そこはまた最古の官道「竹内街道」沿いにあり、
父である用明天皇が眠る陵墓もあるからでしょうか。

その聖徳太子の「磯長御廟」を守るように
建てられてあるのが叡福寺です。

叡福寺は別名「上之太子」と言われています。
近鉄の駅名にもなっていますね。

ということは「下之太子」もあるのでしょうか。

あるんです。

八尾市にある大聖勝軍寺が「下之太子」、
藤井寺市にある野中寺が「中之太子」と言われているそうです。

野中寺はかつてdoironが
1年間だけ住んでいたところの近くにありますが、
一度も入ったことがありません。

30年以上の時を経て、
今頃興味を持つことになろうとは・・・。

こんな立派な宝塔もある叡福寺の境内を歩いていると



ここにも退職者らしき歩行者が
あちこちを見て歩いていました。

短パンにリュック姿で
大きなウエストバッグをしたそのいでたちは、
ずいぶん年季が入っているようです。

お、リュックの肩紐には何やら、
ペン入れのようなものがついており、
飲み物収納の部分には三脚が入っております。

こういうベテラン歩行者ぽい人をじっくり観察するのは、
歩行時の装備や服装の参考になるってなもんですな。

境内の池で、面白いカエルを発見!



水面に垂れ下がった萩の枝に
片手で捕まって浮かんでいる姿が
めちゃユーモラスでした。

叡福寺から一旦南へと進みます。

山門の前の道路を隔てたところに、
太子の乳母3人のお寺があります。
最古の尼寺ともいわれる

「西方院」です。



その寺に向かう道には道標があり、



弘法大師の休足石(?)も立てられていました。



この石に足をかけてストレッチでもしたのでしょうか。
だったら、doironの休足ガードレールや
休足ベンチも練習で走ったコースの
各地にあるのですが・・。

そこを出て、今度は東に向かいます。
この小学校の名前に、
旧地名である「磯長」が残っています。



古い家並みが続く細い道を抜けていき、
ここで難波津から飛鳥に向かう大道として
推古天皇が設けたと言われている
日本最古の官道である竹内街道に合流します。



飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、
大陸から中国や朝鮮の文化をもたらした道なのだそうです。

遣隋使は、水路ではこの前歩いた海柘榴市から
大和川を下り、
陸路はこの道を通ったわけですね。

道標には右 竹内峠 左 穴虫峠
の文字が見受けられました。

続く。


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