学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0138 ガーシーの亀田俊和氏批判は正当か。(その1)

2024-08-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第138回配信です。


一、前回配信の補足

「どこを切っても同じ権力構造が顔を出す"金太郎飴"のような仕組みこそが、問題の核心」(p48)というガーシーの「金太郎飴」理論の問題点

ガーシーは「武家も公家も寺社も、荘園制を経済基盤とする相似の支配構造を持っており、どこを切っても基本的には同じ構造の、まさしく逃げ場のないシステムだ」(p46)とするが、荘園領主としての共通性はあるのは当然としても、それ以上の「相似の支配構造」とは具体的には何か。

公家(朝廷)は古代から「国家」であって、広大な領域(西国)を支配。
武家(鎌倉幕府)も「国家」、または「国家」の前段階であって、広大な領域(東国)を支配。
しかし、寺社は個々の荘園には執着するが、荘園のような個々の経済単位を超えて、広大な領域を支配しようとする意志は全く持たない。

そもそも公家・武家と並列すべき「寺家」というまとまりは存在せず、個々の寺社は公家または武家を主たる顧客として個々に宗教サービスを提供する業者であって、公家・武家とは全く異質な存在。
荘園領主として共通という程度では、「相似の支配構造」などとはとても言えない。

0086 平雅行氏『鎌倉時代の幕府と仏教』について〔2024-05-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d42cf6bdb443860027da223242334de


二、 佐藤進一は本当に「誤読」されたのか?

p170以下
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  佐藤進一はいかに誤読されたか

 すでに述べた通り、室町幕府研究、否、戦後民主主義の歴史学を主導した佐藤進一の研究が、今日完全に誤読されたまま研究が進められていることは、不幸としか言いようがない。あらためて、その問題点を確認しよう。
 たとえば亀田俊和は二〇一七年の著『観応の擾乱』の「初期室町幕府の体制」において、佐藤の議論を「二頭政治論」と命名したうえで、足利尊氏の弟直義の担った「統治権的支配」を「領域を支配する機能」と説明し、直義を「全国を統治する政務の統括者」と位置づけるもの、とする。つまり主従制的支配権=人の支配、統治権的支配権=領域の支配だ、というのである。
 だが、そうだろうか。佐藤の「統治権的支配」とは、次のようなものである。

・直義の権限は被支配者間の争いを第三者として判定するものであって、それ自体が直義と被支配者との関係を直接的に基礎づけるといった性質のものではない。
・直義の握る統治権的支配権は、その中心をなす裁判権を見れば明らかなように、支配領域内の人びとの争いを、第三者の立場から、裁判という形式で調停し、それによって、かれらの権利を保障する機能であって、公的かつ領域的な支配権である。

 つまり、佐藤の議論の核心が「第三者として」「第三者の立場から」にあるのは明白であって、「直接的」=人格的関係にない、「第三者」的立場から、訴訟などの紛争解決を担うことこそが「統治権的支配」の肝要である。一方の「主従制的支配」が「個人(主人)と個人(従者)との人格的支配服従関係において成り立つ私的かつ個別的な支配権」と説明されることからも明らかなように、主従制的支配権と統治権的支配権をめぐる議論の根柢にあるのは、盟友の石母田正同様、あくまでヴェーバーの<人格的支配〔パーソナル・ルール〕か<非人格的支配〔インパーソナル・ルール〕>か、という問題である。迂闊にも新田英治のように、「主従制的支配」を私的支配などと言い換えてはならない。たしかに、佐藤自身も「私的」という言葉を補助的に使っているとは言え、論旨の把握としては最悪の誤読パターンである。新田はなぜこれを「人格的」と表現しなかったのか。【人格的支配が公的に機能してしまうこと】こそが日本史上の致命的に重要な問題であるのに、これを単純に、主従制=私的、統治権=公的といった次元の話にしてしまっては、佐藤の議論も台無しである。
 改めて指摘しよう。我々が右の引用文から真っ先に読み取らなければならないのは、ただ「第三者」の一語であって、「公的」や「領域的」というのは、副次的問題であるに過ぎない。にもかかわらず亀田俊和の議論には、その後の「足利尊氏・直義の『二頭政治論』を再検討する」にいたるまで、「第三者」という言葉が一切登場しない。つまりはインパーソナルという問題が的確に捉えられていないので、「全国統治」だとか「領域支配」だとかいう話になってしまうのである。
 もっとも、「非人格的」という言葉を用いている論者だからと言って安心はできない。吉田賢司は「非人格的」=間接的という理解(誤解)のもとに、「『将軍家─守護・大将─御家人』といった間接的・非人格的な性質」などと述べて議論を展開しているのだが、やはり佐藤説の核心からは程遠い。たしかに佐藤自身も「間接的」という表現を用いてはいるものの、この場合の「直接」「間接」というのは、間に誰か(吉田の言う守護や大将)が介在するという意味での「間接」ではなくて、あくまで「第三者として」の意である。つまり佐藤の道具立ては、本来極めてシンプルかつ明晰なものであったのだが、核心部分が誤読された結果、必要以上に捻れた形で研究史が積み重ねられる結果となってしまった、ということであろう。
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この後、「ガーシークイズ(その1)【問題編】」で紹介した「佐藤学説の核心は「第三者的」であるということ 」に続く。

ガーシークイズ(その1)【問題編】〔2024-08-07〕

そもそも佐藤進一は「戦後民主主義の歴史学を主導した」のか?

「かの学園紛争」〔2014-05-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23fab6b048eee541fbe9b46356ee3be2
「国史学科」の樺美智子氏〔2014-05-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85e10991fe5118698fe0e615b81e9328
佐藤進一と東大紛争〔2017-07-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36c35b6cafb84b2a573e52b373b09fc9
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0137 ガーシークイズ(その2)【解答編】

2024-08-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第137回配信です。


一、『「幕府」とは何か』への反応

(1)本郷恵子氏(東京大学史料編纂所教授)
【書評】「幕府」とは何か 東島誠著 武家政権 支配の正当性問う(日本経済新聞、2023.03.04)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD242D90U3A220C2000000/

(2)井上章一氏(国際日本文化研究センター所長)
【書評】「幕府」と呼ばれていなかった足利将軍家政権 「幕府」とは何か(『週間ポスト』2023.03.26)
https://www.news-postseven.com/archives/20230326_1851742.html?DETAIL

(3)濱野靖一郎氏(島根県立大学准教授)
【書評】「戦後歴史学の継承と展開」(『政治思想研究』第24号)

p358
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 サブタイトルに「武家政権の正当性」とあるのは、著者が「正統」を『神皇正統記』同様「しょうとう」と読み、「伝統的支配としての血統や由緒正しさ」に限定して使用するためである。この見解には賛同できないが、ひとまずおく。
 帯に「かつてないスケールの歴史書」と書かれているのも、誇大広告ではない。日本中世各政権の正当性を論じて徳川の半ばまで至る、という武家政権期の通史ともいえるものは、他にあまり思いつかない。では、本書はこれまでにない斬新な研究理論のみで構成されているかといえば、おそらく著者の意識の上でもそうではない。むしろ本書を貫いているのは、「戦時への反省に立つ戦後歴史学」の意識である。鎌倉幕府論を述べるにあたり「幕府」をどう捉えるかが「権門体制論」と「東国国家論」とを選択する根幹だと示し、「両学派ともチューニングが必要」とはいえ<死んだ言説>になってしまっている現状を問題視する。
 佐藤進一、黒田俊雄以外にも石母田正や網野善彦など中世史家の学説を振り返り、先人達の学問を再確認してそれをいかに現代にも通ずる議論としてよみがえらせるか。「<生きた言説>として継承」しなければ、という問題意識は前面に出ている。そのためか、他の研究者に対して、先人の説を<死んだ言説>にする見解だ、との批判は散見される。あたかも、歴史学の「しょうとう」を示すかのように。本書への評価は、「戦後歴史学」をめぐる評価とつながっていよう。
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(4)wsfpq577 氏

https://wsfpq577.hatenablog.com/
東島誠『「幕府」とは何か』(2023-05-01)
https://wsfpq577.hatenablog.com/entry/2023/05/01/232216
東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』(2010-07-17)
https://wsfpq577.hatenablog.com/entry/5983063


二、「ガーシー」とは何か

ガーシーは出発点が変な人。
出発して以降はそれなりに理路整然と論じるので論理的に思考しているように見える。
しかし、出発点が変なので、到着点も必然的に変。

佐藤進一と石母田正は「盟友」なのか?〔2019-07-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5558f345f8fd45606ea3121964a1eb89
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ガーシークイズ(その2)【問題編】

2024-08-08 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第136回配信で、ガーシーから離れて高橋典幸論文に戻る、と述べたばかりですが、久しぶりに「「幕府」論のための基礎概念序説」(『立命館文学』660、2019)を読み直してみたら、ガーシーという日本中世史学界有数の変人に若干の好奇心も沸いてきました。
そこで、もう少しガーシーワールドを彷徨ってみたいと思います。
さて、ガーシーの『「幕府」とは何か』に対しては、濱野靖一郎氏(島根県立大学准教授)が政治思想学会『政治思想研究』第24号に書評を寄せられた以外、あまり反響はないようです。

https://x.com/IichiroJingu/status/1786722359405322532

その理由を考えるに、ガーシー理論(?)の根底には一般人の理解を超えた極端な思い込みが多々あって、これは不用意に関わってはいけない人かな、というオーラを醸し出していることが挙げられそうです。
例えば、第一章第2節には、権門体制論と東国国家論についての一般的な説明の後、次のような文章が続きます。(p45以下)

-------
  権門体制論を誤用から救うことで見えてくるもの

 では、かく言う私はどちらの学説につくのか、と問われれば、両学説ともチューニングが必要だ、と応えることになる。特に、よく言われるような説明、権門体制論は単一国家論、公家・武家・寺社の各権門が相互補完する構造、と見る限り、これには従えない。批判する側も支持する側も、黒田学説の切り拓いた世界を本当には読み切れていないというのが実情だ。佐藤進一のみならず、黒田俊雄の学説もまた、<死んだ言説>にされてしまっているのである。
 たとえば、二つの学説の対立点を、中世に単一国家が存在したことを認めるかどうか、に求める石井進の黒田批判は、心情的には理解できるものの、議論としてはまったく生産的でない。たしかに黒田自身も、単一国家の存在を明言しているが、黒田学説の核心部分はそこにあるのではなく、むしろ単一構造を指摘した点、国家が単一というより、構造が単一であることを指摘した点にこそあるのである。武家も公家も寺社も、荘園制を経済基盤とする相似の支配構造を持っており、どこを切っても基本的には同じ構造の、まさしく逃げ場のないシステムだ、という点こそが、権門体制論の核心部分にほかならない。この<構造の束>を国家と呼ぶべきかどうか、だとか、各権門が相互補完的であったかどうか、だとかは、本来副次的な問題であるにすぎない。ただ、この構造を束ねる者として、責任の所在は天皇にある、と名指しした点において、いわゆる天皇の政治責任の問題はより先鋭に内面化が可能となる、とは言える。黒田の権門体制論は、こう捉えてはじめて、戦後の<民主>化を課題とした<生きた言説>たりうるのだ。佐藤進一の東国国家論が、天皇・朝廷を相対化しうるものとして、それとは異なる別の中心を見出そうとしたのとは、まったく【別のやり方で】、黒田は同じ問いに向き合ったのである。
 もうおわかりであろう。黒田学説と佐藤学説は、戦時への反省に立つ戦後歴史学の根柢の部分では対立していない。むしろ、それを従来の論者のように外形上の差異にのみ目を奪われてこれを<死んだ言説>にしてしまうか、それとも<生きた言説>として継承しうるか、という対立のほうが、学問としては、はるかに深刻な問題なのである。
 私は、日本列島の中心を多極化する動きを重視し、既存の権力とは別なる可能性の探求を身上とする東国国家論に、基本的には拠って立つ。しかしながら支配構造の同質性を束ねる者として天皇が意識される構造に肉薄せんとする権門体制論は、同時に選びうる、非常に魅力的な選択肢なのだ。
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※傍点部分を【】とした。

「単一国家論、公家・武家・寺社の各権門が相互補完する構造」云々は黒田理論についての常識的な理解と思われますが、ガーシーは「黒田学説の核心部分」は「むしろ単一構造を指摘した点、国家が単一というより、構造が単一であることを指摘した点にこそある」とします。
まあ、賛成はできないにしろ、そうした見方もあるのかなとは思いますが、その後の「この構造を束ねる者として、責任の所在は天皇にある、と名指しした点において、いわゆる天皇の政治責任の問題はより先鋭に内面化が可能となる」とはどういうことなのか。
マルクス主義者として「国民的歴史運動」などにも深く関わった黒田は、「いわゆる天皇の政治責任の問題」にも強い関心を抱いていたであろうことは十分考えられます。
しかし、それが黒田の権門体制論とどのような関係にあるのか。
黒田は、現代社会における政治的立場とは別に、あくまで実証的な歴史研究者の立場から、中世の国家構造を説明する理論として権門体制論を構想したものであって、権門体制論そのものは「戦後の<民主>化」などとは無関係と考えるのが一般的だと思いますが、ガーシーは違います。
ガーシーによれば、黒田個人と佐藤個人ではなく「黒田学説と佐藤学説」、すなわち黒田の権門体制論と佐藤の東国国家論も「戦時への反省に立つ戦後歴史学の根柢の部分では対立して」いないのだそうです。
しかし、私には、二人の中世国家に関する「学説」が「戦時への反省」と結びついているというのは、二人の実証的歴史学者に対する侮辱のように思われます。
また、ガーシーによれば「戦時への反省」等の政治的問題と中世国家理論を結合することが、二人の学説を「<死んだ言説>」ではなく、「<生きた言説>として継承」することになるようですが、これも不可解です。
以上、ガーシー理論(?)には、私には全く理解できない部分が多いのですが、ガーシーの説明が多少なりとも理解できると考える方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
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0136 ガーシークイズ(その1)【解答編】

2024-08-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第136回配信です。


『「幕府」とは何か』での『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ、2010)の自己引用部分は、それ自体では全く理解不能。
しかし、『自由にしてケシカラン人々の世紀』で、当該部分の前後を確認すると、かろうじて理解できる。

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[ウォーミングアップ]武家政権の開創期はなぜ二頭体制なのか
 兄弟の仲違いといえば、兄と決裂した弟が別の会社を設立するというように、実業界ではよく聞かれる話である。一方、武家政権の誕生に目を向けると、源頼朝と義経、足利尊氏と直義のいずれの場合も、初めは協力体制にあった二人がやがて決裂し、最終的に弟は抹殺される。かくも同じことが繰り返されると、なぜ武家政権の誕生の歴史は、ひとまず二頭体制を志向するのか、という問いが生まれてこよう。一方の後醍醐が「公家一統」を目指し、一元的支配を志向したとすれば、なぜ武家は二元的支配を目指すのだろうか。
 こうした問いに対し、すでに半世紀も前の一九六〇年に提示された解答が、歴史家佐藤進一の提唱する、兄尊氏が<主従制的支配権>を掌握し、弟直義が<統治権的支配権>を掌握した、とする理解である。中世史家永原慶二が監修に加わった一九九一年のNHK大河ドラマ『太平記』では、たしか真田広之演じる尊氏が高嶋政伸演じる直義に対し、「ワシは武士の束ねをやる、政治向きのことはお前にまかす」と言う場面があったはずである。よく考え抜かれた台詞であるとは思うが、ただその説明だけでは、なぜそのような分担が必要なのか、まだしっくり来ない向きもあるだろう。そこで次のようなロールプレイングを行ってみよう。

【※無改行】
唐突で申し訳ないが、そこのAさんとBさんで、ちょっと「ワー」「わー」と喧嘩をしていただきたい。……(中略)……さて、AさんもBさんも私の大切な<しもべ>であると仮定すると、主従制というのは一対一のパーソナルな関係なので、私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入すること、つまり「親裁」することは本質的に避けたい事態である。どっちにも肩入れしたくなるからだ。ならばどうすればよいのか。ここでCさん、あなたの登場だ。裁判機構をつくり、私以外の第三者に紛争解決を委ねればよいのである。

 もうおわかりであろう。武士団が私的な戦闘集団に留まっている限りは、主従制のようなシンプルな秩序があれば十分であった。だが、それが政権を担うだけの高次の組織に脱皮するには、主従制(武士の束ね)だけでは不十分であり、それゆえ主従制的支配の頂点に立つ者のほかに、統治権的支配を担うものが必要となってくるのである。【後略】
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ガーシーは近藤成一氏の著書を『鎌倉幕府政治構造の研究』としているが、正しくは『鎌倉時代政治構造の研究』。

近藤成一『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027062193

亀田俊和氏「佐藤進一の将軍権力二元論再論─東島誠からの批判への応答を中心として─」(立教大学史学会『史苑』84巻1号、2024)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/2000372
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1758315278436634691

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はじめに
第一章 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」の概要
第二章 足利直義の軍事指揮は、単なる「例外」にすぎないのか
第三章 所務沙汰権や所領安堵権を行使できるのは「第三者」のみなのか
第四章 「分析のツール」とは、具体的にいかなる研究手法なのか
おわりに
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第三章の冒頭(p36)に問題の箇所の検討がなされている。

「「幕府」論のための基礎概念序説」(『立命館文学』660、2019・2)
【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。〔2019-07-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55ba16ae9afea6e4e705e5b08a304837
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ガーシークイズ(その1)【問題編】

2024-08-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
東島誠氏(立命館大学教授、1967生、以下「ガーシー」という)の『「幕府」とは何か』(NHK出版、2013)には権門体制論・東国国家論に関する記述が若干あるので、検討の素材とするために読み進めていたところ、下記文章(p172以下)に出会い、私はいささか当惑しています。

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佐藤学説の核心は「第三者的」であるということ

 では佐藤進一の「統治権的支配権」の核心が「第三者的」であることが明晰に理解されていれば、どういう説明が可能なのか。それはおそらく次のようになるはずだ。

唐突で申し訳ないが、そこのAさんとBさんで、ちょっと「ワー」「わー」と喧嘩をしていただきたい。……(中略)……さて、AさんもBさんも私の大切な<しもべ>であると仮定すると、主従制と言うのは一対一のパーソナルな関係なので、私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入すること、つまり「親裁」することは本質的に避けたい事態である。どっちにも肩入れしたくなるからだ。ならばどうすればよいのか。ここでCさん、あなたの登場だ。裁判機構をつくり、私以外の第三者に紛争解決を委ねればよいのである。(東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』五九-六〇頁)

 もちろん従来の研究においても、佐藤の「第三者」性を的確に継承している論者は少なくない。たとえば近藤成一は、「執権が将軍とは別に存在する意義は、御家人との主従関係の拘束を受けずに相論を第三者として裁定するという機能に存した」(『鎌倉幕府政治構造の研究』五三一頁)と端的に指摘している。いずれにも加担しない「第三者」性こそが、統治権的支配の肝要であろう。
-------

ガーシーは『自由にしてケシカラン人々の世紀』の自己引用部分がよほど気に入っているのか、まるで自明の話のように書いていますが、私にはさっぱり理解できません。
「私」の「しもべ」であるA・Bが「喧嘩」している場合、「主従制と言う」関係にある以上、「私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入」・「親裁」して、「喧嘩」を終息させるのが当然ではないかと思いますが、何故にわざわざ「裁判機構をつくり」、「私以外の第三者」であるCに「紛争解決を委ね」ねばならないのでしょうか。
例えば、暴力団組長と組員a・bがいるとして、a・bが喧嘩している場合、組長としては直ちに「親裁」して問題を解決しなければ組織の規律が維持できないはずです。
a・bいずれも「しもべ」ですから、組長の命令には従うはずですし、従わなければ処分するだけの簡単な話です。
しかし、組長が「どっちにも肩入れしたくなる」などと言って自ら「親裁」せず、「裁判機構をつくり」、「第三者に紛争解決を委ね」たりしたら、組長としての威信、組織の規律が保たれるのでしょうか。
また、組員a・bが、別に「主従制と言う」関係にない「第三者」の決定に従う保証がどこにあるのでしょうか。
ガーシーの説明が理解できると考える方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。

『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912772023.html
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0135 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」(その3)

2024-08-05 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第135回配信です。


一、前々回配信の補足

筆綾丸さんのコメント
「権門体制論者は、三上皇配流は鎌倉幕府による超法規的措置である、と考えるのかどうか」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/996d7fc3bfb3a17703bfc9488d0624d0

(1)「超法規的措置」説

呉座勇一氏
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 人生で何度も窮地に立たされた後白河法皇でさえ、平清盛や木曽義仲に幽閉されたに留まる。上皇が臣下と戦って敗れて流罪になるなど、未曽有の事態である。治天の君である後鳥羽が実質的に「謀反人」として断罪されたのだ。この断固たる措置は、義時の意向によるものだろう。
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権門体制論者であるか否かを問わず、「未曾有」「実質的に」「事実上の」といった表現を用いる研究者の多くはこの立場か。(≒法的思考の放棄)

後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)〔2021-11-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150

(2)「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」説

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その59)─「後鳥羽上皇の隠岐遷座(実質的には配流)」(by 高橋秀樹氏)〔2023-11-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55e0eb214dd2cdf5767efd09258f0715


二、「はじめに」の続き

p100
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 もちろん、両者の説く鎌倉幕府像は対照的であり、そのために鎌倉幕府の成立時期をめぐって見解が分かれているのであるが、実はいくつかの点では共通性があることも指摘されている。その一つの徴証として、右に列挙した鎌倉幕府成立の画期が、①を除いて、いずれも勅許や宣旨の獲得、官職就任など、すなわち朝廷との交渉とその結果に求められていることを指摘することができる。換言するならば、鎌倉幕府の成立を先行する政治権力である朝廷との関わりで理解しようとする点で、東国国家論・権門体制論は共通していよう。
 これは一つには、牧健二以来の「委任封建制論」によるものであろう。とくに佐藤進一の研究にはその影響を強くみてとることができる。ただ、もう一つ、戦前来一般的だった鎌倉幕府論との関係にも注意しておきたい。すなわち、中世の政治体制を武家政権に収斂させ、鎌倉幕府を中世の国家機構そのものとみてあやしまない通説の「過大評価」を見直そうとする点に、東国国家論・権門体制論ともに議論の立脚点を置いていたと考えられるのである。東国国家論はそれを東国という場の問題として、権門体制論は治安・警察機能という権能の問題として、それぞれ論じ直したわけである。そうした意味でいえば、両者ともに、鎌倉幕府の空間的もしくは機能的な「外延」に関心を向けたといえよう。その先に想定される存在がいずれも朝廷ということになるわけだが、外延を設定したことは、鎌倉幕府論にとって画期的なことであったことを指摘しておきたい。
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0115 当面の運営方針について(再考)〔2024-07-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d9819f5f3f6d3c829cb1ebd56295380
0114 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その4)〔2024-07-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cde924ebe81de0b34776b44df7117cd

「外延」という表現の適否。
異なる問題を無理やり一つにまとめているような印象も。

外延
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E5%BB%B6-42120

p101
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 ところで、近年、先に掲げた鎌倉幕府成立に関する指標・論点のいくつかについて、従来の解釈に再考をせまる新見解や新史料が公表・紹介されている。さらに注目されるのは、通説的理解に見直しをせまる動きが現れていることである。その嚆矢として位置づけられるのが、一九八四年に発表された入間田宣夫の論文「守護・地頭と領主制」である。【中略】
 そうした研究視角を受け継ぎ、治承・寿永内乱の中で幕府権力の実質が形成されていったことを自覚的に追究したのが川合康の研究である。【後略】
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0134 「権門勢家」と「権門体制」

2024-08-04 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第134回配信です。


細川重男氏が引用されていた黒田俊雄による「権門」の定義が気になったので、『日本史大事典 第二巻』(平凡社、1993)を確認してみたところ、当該内容は黒田自身が「権門」を定義したものではない。

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権門体制 けんもんたいせい

日本中世の国家機構を包括的に示すための歴史学上の概念。黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『岩波講座日本歴史』中世2、一九六三)ではじめて提唱された。この論文では、日本中世の国家支配機構は、それまでのように幕府によって代表されるとみるのではなく、天皇家・摂関家その他の公家、南都・北嶺をはじめとする大寺社(寺家・社家)、幕府(武家)など、複数の権門的勢力の相互補完と競合の上に成り立っているとみる。これらもろもろの権門は、それぞれが結集している主たる階級や組織形態に差異はあるが、いずれも政治的・社会的に権勢を持ち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、政所その他家政機関と家司を持ち、下文、奉書など基本的に同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥的集団であった。中世の国政は、この諸権門の伝統と実力に基づく強力な発言権と、権力の職能的分担によって、矛盾対立を含みながらも相互補完しながら、維持されていた。この諸権門の勢力を調整する角逐と儀礼の場が朝廷であり、天皇は天皇家という権門の主要な一員であるとともに、諸権門の頂点に立つ国王としての役割を持たされていた。
 権門体制は、国政の主導権を掌握した特定の権門の交替によって、ほぼ三段階に区分される。第一は院庁政権が主導権を持ち、武士を従属させ寺社勢力と抗争した院政期であり、第二は鎌倉幕府が成立して他の諸権門をしだいに従属させながらも、公・武・寺社の権門が並立していた鎌倉期であり、第三は室町幕府が他の権門を従属させ癒着融合の体制をとった室町期である。そして平安中期のいわゆる摂関政治期は律令体制から権門体制への過渡期であり、戦国期は権門体制から幕藩体制への過渡期である。また荘園公領制を封建的社会関係と規定するならば、権門体制は日本における封建国家の第一次的形態、幕藩体制は第二次的形態とみることができる。けれども、この権門体制論に対して、公家・武家の両政権をまったく異質な対立的なものとみて、後者が前者を圧倒していくところに中世国家史の基調をみる見解や、中世に統一的な国家機構の存在を認めない見解も行われている。 黒田俊雄
[参]黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』岩波書店、一九七五年。同『現実のなかの歴史学』東京大学出版会、一九七七年。
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なお、直前の項目に「権門勢家」があり、これも黒田が担当。

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権門勢家 けんもんせいか

権勢のある門閥や家柄。権門も勢家(「せいけ」とも読む)も「後漢書」など中国の古典にみえる語であるが、日本では、いずれも同じ意味で、または権門勢家と熟して、平安前期から室町時代まで、権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語として、法令にも文芸にも用いられた。江戸時代には、権力ある役人あるいはそれへの奉仕、接待、賄賂などの意に用いられた。 黒田俊雄
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『国史大辞典』(吉川弘文館)でも「権門体制」は黒田俊雄が担当し、『日本史大事典』とほぼ同一内容。
しかし、「権門勢家」は村井康彦氏が担当され、内容は『日本史大事典』と相当異なる。

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けんもんせいけ 権門勢家

権勢のある家の意。奈良時代にも「勢力の家」といった用法がみられるが、平安時代に入り、九世紀の末あたりからにわかに用例が増加する。たとえば、最初の荘園整理令として知られる延喜二年(九〇二)三月十三日付太政官符には、「権門」「権貴」「豪家」や、「多勢之家」(つまり勢家)などの類似語が多数所見し、いずれの場合も諸院諸宮王臣家あるいは五位以上を指している。墾田開発の普及によって現れたそれら有勢者と地方の土豪・有力百姓との結託による墾田地の不法占有や課役の忌避を禁止する太政官符類に登場するのが特徴。平安時代後期には、在地豪族が国衙の干渉を排除する目的で権門勢家の権威をたのみ、これに所領を寄進する、いわゆる寄進型荘園の被寄者となった。この間、貴族社会も藤原氏(北家)優越のもとに格差が増大し、門地・家格の高下による権門(貴族)と寒門(貴族)とに分化した。平安時代末期には院がその頂点に立つ。世俗的な力をもつ有力寺社も権門勢家の一翼を担い、中世では武家が新たな権門となり、宮廷公家との間に権威と権力の補完関係が形成された。(村井康彦)
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「権門」は史料概念としても相当に多義的。
分析概念として用いることが許されない訳ではないだろうが、その場合には概念の明確化が必要ではないか。
黒田はその努力をしているのか。

「史料概念」と「分析概念」〔2019-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72564c188bd1ced974a3406b89d38e62

寺家の場合、総体が「権門」なのか。
個々の寺社が「権門」だとすると、その範囲はどこまでか。
東国には「権門」と言えるような寺社があるのか。

武家の場合、幕府が「権門」なのか。
幕府内の個々の有力な家は「権門」ではないのか。
高橋秀樹氏は三浦氏を「権門」とするが、これは多くの研究者が賛成できる用法か。

歴史研究者の「定義」の用法

あなたの「国家」はどこから?─平山優氏の場合(その2)〔2021-11-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85c4ddf17e0fc2b3f8c06e80eed8ba06
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0133 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」(その2)

2024-08-02 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第133回配信です。


一、前回配信の補足

佐藤進一の東国国家論の問題点
(1)「国家」の本質論、「国家」の定義の不在
(2)鎌倉幕府成立時に議論が集中し、承久の乱の位置づけが不明確

これらの問題点を克服した「新東国国家論」の立場から高橋論文を検討する。

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鎌倉幕府論

はじめに
一 軍事権門としての鎌倉幕府の成立
 1 権門体制論の概要と課題
 2 内乱期の軍事組織
 3 内乱の経過と鎌倉幕府
 4 軍事権門
二 軍事体制としての鎌倉幕府
 1 地頭制
 2 御家人制
 3 守護制度と東国支配
三 東国国家論と朝幕関係
 1 寿永二年十月宣旨の「発見」
 2 寿永二年十月宣旨から以仁王の令旨へ
 3 朝幕関係への注目
 4 朝幕関係の整序と将軍権力
おわりに
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二、高橋典幸氏の問題意識

p99以下
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はじめに

 鎌倉幕府研究の論点の一つに、鎌倉幕府の成立時期をどの時点に求めるかという問題がある。鎌倉幕府の性格をどのようなものと考えるかにより、成立時期の理解も異なってくるのであるが、これまで次のような説が提起されてきた。
  ①治承四年(一一八〇)末   南関東軍事政権の確立
  ②寿永二年(一一八三)一〇月 いわゆる寿永二年十月宣旨の獲得
  ③文治元年(一一八五)一二月 いわゆる文治勅許の獲得
  ④建久元年(一一九〇)一一月 源頼朝の右大将就任
  ⑤建久三年(一一九二)七月  源頼朝の征夷大将軍就任
 これらは大別すると、次の二つの見解に整理することができる。一つは、治承四年(一一八〇)八月の挙兵以来、源頼朝が反乱軍として築き上げてきた東国の実質的支配(①)を前提として、朝廷から東国についての包括的な行政権が頼朝に認められた寿永二年十月宣旨(②)を重視する見解であり、東国における独自権力であることに鎌倉幕府の本質を認めようとするものである。佐藤進一を代表的な論者とする見解で、東国国家論と称されている。
 これに対して、権門体制論の立場から鎌倉幕府について異なる見解を打ち出したのが黒田俊雄である。権門体制論とは、権能を異にする公家・寺家・武家というそれぞれ独自の政治勢力(権門)が相互補完的に結集して一つの国家権力を構成するという考え方であり、この立場によれば、鎌倉幕府は中世国家の軍事・警察機能を分掌する武家権門と位置づけられることになる。権門体制論の場合は、鎌倉幕府の成立時期について明確な画期を指示しているわけではないことに注意を要するが、諸国の治安維持にあたる守護・地頭を設置する権限を頼朝に認めた文治勅許(③)を経て、頼朝が右大将(④)もしくは征夷大将軍(⑤)に任じられることによって、その権限は「朝廷の侍大将」、すなわち中世国家の軍事権門の権能によるものとして位置づけられたと理解することができる。
 東国国家論・権門体制論いずれも半世紀以上も前に提起された議論であるが、現在に至る鎌倉幕府論の通説的理解は両者によって基礎づけられているといっても過言ではない。右の①から⑤には、鎌倉幕府論の主要な論点が出そろっているともいえよう。
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「権門」とはそもそも何か。
黒田俊雄の説明もかなり変化がある。

細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2011)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81812.html

p9
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【前略】この学説の基本である「権門」について、黒田氏は「政治的・社会的に権勢を持ち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、(中略)家政機関と家司を持ち、下文、奉書など基本的に同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥集団」(黒田「権門体制」<『日本史大事典』二、平凡社>)と定義している。
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こんなものが「定義」と言えるのか。
こんなものを「定義」として受け入れる歴史研究者の感覚はおかしいのではないか。

「寺家」は「権門」なのか。
そもそも「公家」「武家」と並列すべき「寺家」という集団が存在するのか。

平雅行『鎌倉時代の幕府と仏教』(塙書房、2024)
p115以下
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 私はこれまで、権門体制論・顕密体制論を基本的に支持しつつも、いくつかの批判点を提示してきた。最初にそれを確認しておこう。問題となるのは、第一が寺家の位置づけ、第二が密教による思想統合論、第三が正統─異端論であり、第四が「顕密体制」概念の混乱である。
 まずは、第一の寺家の位置づけから。権門体制論は公家・武家・寺家の相互補完によって中世国家が構成されていたとするが、公家・武家とは異なり、中世の寺家は自立的統合組織をもっていない。この点からして寺家を武家・公家と並列的に取り扱うのは適切ではないはずだ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d42cf6bdb443860027da223242334de
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0132 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」

2024-08-01 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第132回配信です。


一、前回配信の補足

三上皇配流をどう説明するのか。
「革命」論の萌芽もあった。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その2)〔2023-01-24〕

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 同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。
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後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)(その2)〔2021-11-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4837f768720130d24accfbac8b27bfd
「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)〔2021-11-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd8e2c752fc97439861694a8f43c1eb3

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その1)─作成にあたっての私の下心〔2023-10-11〕
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その2)─メルクマールの追加〔2023-10-12 〕
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その3)─勅使河原拓也氏の場合〔2023-10-12〕
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その4)─勅使河原拓也氏の書評「高橋秀樹著『三浦一族の研究』」〔2023-10-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d982b3f719847f4e07ab1b04db273e2

治承・寿永の内乱→幕府は西国では正統的暴力を独占していない。
承久の乱→幕府は西国では正統的暴力を独占していない。

同じではないか。→強度が違う。
独占はしていないが、幕府の存在感は承久の乱後に格段に強化されている。

東国でも、承元四年(1210)六月に上総介に補任された藤原秀康は在庁と対立していた。
承久の乱後は知行国主・国司といえども国務への干渉は不可能。得分を得るのみ。

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承元四年(1210)七月小廿日丙午。晴。上総國在廳等有參訴事。是秀康〔院北面〕去月十七日任當國守。同下旬之比。其使者入部國務之間。於事背先規致非義。在廳等愁歎之刻。忽起喧嘩。刄傷數輩土民等云々。如相州。廣元朝臣。善信有沙汰。是非關東御計。早可奏達之由。被仰下云々。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma19c-07.htm

承久の乱後、西国では朝廷は京都の治安を守る武力さえ失ってしまい、幕府に頼らざるを得なくなった。
新日吉社の流鏑馬で、それが可視化。

佐藤進一の東国国家論は幕府成立時に関心が集中。
『日本の中世国家』(岩波書店、1983)でも承久の乱を論ぜず。
しかし、正統的暴力の独占の程度、領域支配の強度を緻密に扱えるのが「国家」に着目する強み。

統治機構の整備の度合い
外交的交渉能力の程度
 個人の力量に依存するのか、組織的に整備されているのか。

権門体制論は「予定調和」の世界。
そこには時期的変化はない。


二、高橋典幸氏「鎌倉幕府論」

大津透ほか編『岩波講座日本歴史6 中世1』(岩波書店、2013)所収。

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武士の台頭,荘園制の進展にともなう土地と人との関係の変化,貨幣経済の進展,そしてそれにともなう人々の心性の変容――古代から中世にかけて日本はダイナミックな変化をとげる.11世紀後半の院政期から16世紀後半の戦国時代まで500年続く日本の中世の姿を,社会史研究,権門体制論などの到達点をふまえて描き出す.
https://www.iwanami.co.jp/book/b371758.html

巻頭論文は桜井英治氏の「中世史への招待」。

「腕のよい職人たちのそろった下請け町工場」〔2014-03-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3ee4a793f7e09aa29038a97dcb6629d
「理論を生むのに必要な渇きが足りない」(by 桜井英治)〔2014-03-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e14112e16ddd3903222e2dccab922120
鯖色の手紙〔2014-03-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/661107ebd570764ef68f4abec0761834

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鎌倉幕府論

はじめに
一 軍事権門としての鎌倉幕府の成立
 1 権門体制論の概要と課題
 2 内乱期の軍事組織
 3 内乱の経過と鎌倉幕府
 4 軍事権門
二 軍事体制としての鎌倉幕府
 1 地頭制
 2 御家人制
 3 守護制度と東国支配
三 東国国家論と朝幕関係
 1 寿永二年十月宣旨の「発見」
 2 寿永二年十月宣旨から以仁王の令旨へ
 3 朝幕関係への注目
 4 朝幕関係の整序と将軍権力
おわりに
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0111 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その1)~(その4)〔2024-07-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6345a16c7c0729fa520a1f463e51af15
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