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「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)

2021-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月25日(木)10時18分2秒

>筆綾丸さん
>広元は誠に恐るべき人で、文官なのに(文官ゆえに?)、なぜ、それほど冷徹な判断ができたのか

承久の乱の戦後処理の法的性格を問うことは、大江広元とは何者かを問うことと殆ど同じ問題ですね。
大江広元の幕府に対する貢献は大変なもので、『吾妻鏡』にも広元の業績が多々記されていますが、広元の人間性を窺う材料となると意外に少ないですね。
上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)によれば、そもそも「広元が残した著作物あるいは詩歌の類は一切知られていない」(p176)そうです。

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鎌倉時代前期の政治家。もとは朝廷の実務官人であったが、源頼朝に招かれ草創期の幕府の中心的存在となる。政所別当として守護・地頭制の整備に関わり、朝廷・幕府間の交渉で卓越した政治手腕をふるった。頼朝没後、将軍頼家・実朝を支えつつ、北条氏とも協調を図り武家政権の確立に貢献した文人政治家の実像を、新史料を駆使して浮き彫りにする。


そして、上杉著によれば、

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 『吾妻鏡』をはじめとする諸史料に多くの事蹟を残す広元であるが、彼にまつわる説話・伝承の類は誠に乏しい。いわゆる説話集や軍記物語などに広元が登場する場面はほとんどないといってよい(『平家物語』に登場するわずかな事例は、「第二 新天地鎌倉へ」で紹介した)。
 多くの政治的活動とその功績が具体的に知られる一方で、広元個人の人柄を語る史料は意外に見出しにくいが、『吾妻鏡』にはこんな話が見える。武蔵国の御家人である熊谷直実が、法然に師事し遁世者として晩年をおくったことはよく知られているだろう。承元二年(一二〇八)九月三日、熊谷直実の子である直家が、十四日に京都東山で死去することを予言した父の往生を見届けるための上洛を幕府に申し出た。これを聞いた広元は、「兼ねて死期を知ること、権化〔ごんげ〕にあらざる者、疑い有るに似る」と述べた上で、厚い信仰心による直実の熱心な修行ぶりを称える言葉を発している。自分の死を予言し従容としてそれに臨む父、父の予言の正しさを確信し往生を見届けようとする子の行動に対し、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない者が、前もって死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という言葉をもらさずにおれぬ広元は、よくいえば合理的思考の人、悪くいえば冷淡な性格の持ち主といえるだろう。
 また、同じく『吾妻鏡』に見える、実朝暗殺直前に凶事を察知して思わず落涙した広元が「自分は、成人してから一度も涙を流したことがない私」と語ったという記事も、広元の冷徹な人間像を強調するものといえよう。
 文献史料の上から、広元の真の人間性を十全に知ることは容易ではない。広元とは、現実に彼が行なった政治行動のみによって、その人となりを後世に伝えた人物ということになろう。
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とのことですが(p178以下)、『吾妻鏡』が伝える二つのエピソードは相互に矛盾しているようにも思われます。
即ち、広元ならば、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない【広元】が、前もって【実朝の】死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という「合理的思考」をしそうなものだからです。

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承元二年九月小三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薫修。仰而可信歟云々。


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建保七年正月大廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拝賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
【中略】
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。


また、実朝暗殺記事は従来から脚色が疑われており、広元が本当にこうした発言をしたかどうかには疑問が残りますが、しかし、自分は成人してから泣いたことがないという広元の述懐自体にはリアリティがあります。
あるいは、これは広元の単独エピソードを、実朝暗殺記事の元ネタの提供者、あるいは『吾妻鏡』の編者が実朝暗殺記事に挿入した可能性もありそうですね。
なお、熊谷直実と直家の父子エピソードは、大江広元と親広の父子関係を関係を考える上で、直接の判断材料となるものではないにしても妙に気になる話ですが、この点は次の投稿で書きます。

「飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜& 安全地帯 with 井上陽水」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

煮え切らない男 2021/11/24(水) 12:44:47
小太郎さん
スケールがぐんと小さくなりますが、保元の乱の時、崇徳側は、頼長が為朝の夜襲案をグズグズ引き延ばしたのに対して、後白河側は、義朝がグズグズする忠通を急襲案で押しきったということに、ちょっと似ていますね。
広元がいなければ鎌倉は負けていたかもしれないと考えると、広元は誠に恐るべき人で、文官なのに(文官ゆえに?)、なぜ、それほど冷徹な判断ができたのか、不思議な気さえしてきます。
姫の前は、義時の優柔不断なところが嫌いだったのかもしれない。鎌倉時代の研究者は、ほとんどみんな、義時礼讃で終わりますが。
『鎌倉殿の13人』では、どんな義時像になるのか、期待したいと思います。
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