学問空間

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0134 「権門勢家」と「権門体制」

2024-08-04 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第134回配信です。


細川重男氏が引用されていた黒田俊雄による「権門」の定義が気になったので、『日本史大事典 第二巻』(平凡社、1993)を確認してみたところ、当該内容は黒田自身が「権門」を定義したものではない。

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権門体制 けんもんたいせい

日本中世の国家機構を包括的に示すための歴史学上の概念。黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『岩波講座日本歴史』中世2、一九六三)ではじめて提唱された。この論文では、日本中世の国家支配機構は、それまでのように幕府によって代表されるとみるのではなく、天皇家・摂関家その他の公家、南都・北嶺をはじめとする大寺社(寺家・社家)、幕府(武家)など、複数の権門的勢力の相互補完と競合の上に成り立っているとみる。これらもろもろの権門は、それぞれが結集している主たる階級や組織形態に差異はあるが、いずれも政治的・社会的に権勢を持ち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、政所その他家政機関と家司を持ち、下文、奉書など基本的に同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥的集団であった。中世の国政は、この諸権門の伝統と実力に基づく強力な発言権と、権力の職能的分担によって、矛盾対立を含みながらも相互補完しながら、維持されていた。この諸権門の勢力を調整する角逐と儀礼の場が朝廷であり、天皇は天皇家という権門の主要な一員であるとともに、諸権門の頂点に立つ国王としての役割を持たされていた。
 権門体制は、国政の主導権を掌握した特定の権門の交替によって、ほぼ三段階に区分される。第一は院庁政権が主導権を持ち、武士を従属させ寺社勢力と抗争した院政期であり、第二は鎌倉幕府が成立して他の諸権門をしだいに従属させながらも、公・武・寺社の権門が並立していた鎌倉期であり、第三は室町幕府が他の権門を従属させ癒着融合の体制をとった室町期である。そして平安中期のいわゆる摂関政治期は律令体制から権門体制への過渡期であり、戦国期は権門体制から幕藩体制への過渡期である。また荘園公領制を封建的社会関係と規定するならば、権門体制は日本における封建国家の第一次的形態、幕藩体制は第二次的形態とみることができる。けれども、この権門体制論に対して、公家・武家の両政権をまったく異質な対立的なものとみて、後者が前者を圧倒していくところに中世国家史の基調をみる見解や、中世に統一的な国家機構の存在を認めない見解も行われている。 黒田俊雄
[参]黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』岩波書店、一九七五年。同『現実のなかの歴史学』東京大学出版会、一九七七年。
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なお、直前の項目に「権門勢家」があり、これも黒田が担当。

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権門勢家 けんもんせいか

権勢のある門閥や家柄。権門も勢家(「せいけ」とも読む)も「後漢書」など中国の古典にみえる語であるが、日本では、いずれも同じ意味で、または権門勢家と熟して、平安前期から室町時代まで、権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語として、法令にも文芸にも用いられた。江戸時代には、権力ある役人あるいはそれへの奉仕、接待、賄賂などの意に用いられた。 黒田俊雄
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『国史大辞典』(吉川弘文館)でも「権門体制」は黒田俊雄が担当し、『日本史大事典』とほぼ同一内容。
しかし、「権門勢家」は村井康彦氏が担当され、内容は『日本史大事典』と相当異なる。

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けんもんせいけ 権門勢家

権勢のある家の意。奈良時代にも「勢力の家」といった用法がみられるが、平安時代に入り、九世紀の末あたりからにわかに用例が増加する。たとえば、最初の荘園整理令として知られる延喜二年(九〇二)三月十三日付太政官符には、「権門」「権貴」「豪家」や、「多勢之家」(つまり勢家)などの類似語が多数所見し、いずれの場合も諸院諸宮王臣家あるいは五位以上を指している。墾田開発の普及によって現れたそれら有勢者と地方の土豪・有力百姓との結託による墾田地の不法占有や課役の忌避を禁止する太政官符類に登場するのが特徴。平安時代後期には、在地豪族が国衙の干渉を排除する目的で権門勢家の権威をたのみ、これに所領を寄進する、いわゆる寄進型荘園の被寄者となった。この間、貴族社会も藤原氏(北家)優越のもとに格差が増大し、門地・家格の高下による権門(貴族)と寒門(貴族)とに分化した。平安時代末期には院がその頂点に立つ。世俗的な力をもつ有力寺社も権門勢家の一翼を担い、中世では武家が新たな権門となり、宮廷公家との間に権威と権力の補完関係が形成された。(村井康彦)
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「権門」は史料概念としても相当に多義的。
分析概念として用いることが許されない訳ではないだろうが、その場合には概念の明確化が必要ではないか。
黒田はその努力をしているのか。

「史料概念」と「分析概念」〔2019-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72564c188bd1ced974a3406b89d38e62

寺家の場合、総体が「権門」なのか。
個々の寺社が「権門」だとすると、その範囲はどこまでか。
東国には「権門」と言えるような寺社があるのか。

武家の場合、幕府が「権門」なのか。
幕府内の個々の有力な家は「権門」ではないのか。
高橋秀樹氏は三浦氏を「権門」とするが、これは多くの研究者が賛成できる用法か。

歴史研究者の「定義」の用法

あなたの「国家」はどこから?─平山優氏の場合(その2)〔2021-11-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85c4ddf17e0fc2b3f8c06e80eed8ba06
コメント
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