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後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その2)

2021-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月24日(水)12時31分27秒

前回投稿で確認したように、呉座勇一氏は後鳥羽配流を「未曾有の事態」としながらも、「治天の君である後鳥羽が実質的に「謀反人」として断罪されたのだ」としていて、法的に「謀反人」だとはされません。
また、細川重男氏も「事実上の配流」云々と「事実上の」であることを頻りに強調されます。

細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた承久の乱の戦後処理
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e05d683e265d6d485eee705dc3dd51a

本郷和人氏も、『北条氏の時代』において、

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 武家が貴族たちの刑罰を決めて、次々と処刑していくというのは、前例のない、タブーを破る行為でした。貴族たちもどこかで、「なんだかんだ言っても命だけは助かるだろう」くらいに思っていたはずです。しかし、義時は甘くなかったのです。【中略】
 さらに日本史を決定的に変えたのは、後鳥羽上皇すら罪に問うたことでした。これは、武士が朝廷をも凌駕する力を得たことの象徴となりました。【中略】
 後鳥羽上皇は、亡くなるまで何度も「都に帰りたい」と幕府に頼みました。しかし、幕府は断固拒否したため、乱の十八年後の一二三九(延応元)年に隠岐の地で崩御しました。ほかの上皇も配流地で崩御しています。
 ただし天皇や上皇を殺すことはしませんでした。討幕運動を何度も行った後醍醐天皇が配流で済んだのは、承久の乱が前例となったためかもしれません。
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という具合いに(p120以下)、「日本史を決定的に変えた」とまで言われながら、その戦後処理の法的性格を検討されようとはしません。
私自身は承久の乱の戦後処理の法的性格について特異な考え方をしていますが、中世人も三上皇配流を法的にどう説明するのか、それなりに悩んだと思われます。
一例として、配流から百年以上経ってはいますが、『増鏡』巻二「新島守」には、

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 さてもこのたび世のありさま、げにいとうたて口をしきわざなり。あるは父の王を失ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひためれ。まして世下りて後、唐土にも日の本にも国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それもみな一ふし二ふしのよせはありけむ。もしはすぢことなる大臣、さらでもおほやけともなるべききざみの、少しのたがひめに世に隔たりて、その恨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて君の亡び給へるためし、この国にはいとあまたも聞えざめる。されば承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれもみな猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照御神も、御裳濯川の同じ流れと申しながら、なほ時の国主をまもり給はする事は強きなめりとぞ、古き人々も聞えし。また信頼の右衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、つひに空しきかばねをぞ道のほとりに捨てられける。かかれば古りにしことを思ふにも、猶さりともいかでか三皇・今上あまたおはします皇城の、いたづらに亡ぶるやうはあらん、と頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは、この世一つの事にもあらざらめども、迷ひのおろかなるまへには、なほいとあやし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07

という記事があります。
律令の条文に上皇配流の規定があるはずもありませんが、先例、即ち朝廷の慣習法まで視野を広げると、一番近いのは「保元に崇徳院の世を乱り給ひし」ケースですね。
ただ、このときは「治天の君」ではなかった崇徳院が「時の国主」後白河天皇に対して反乱を起こしたということで、「治天の君」である後鳥羽院が「むげの民と争ひて」天皇の廃位という事態を招いた承久の乱とは明らかに異なります。
従って、慣習法(先例)まで含めた律令法の大系においても、今上帝廃位・三上皇配流を合法化することは困難です。
しかし、幕府の指導者たちは、全く法的説明のない無法状態に耐えられたのか。
自分たちは野獣のようなアウトローで、強いから何でもやってよいのだ、と思っていたのか。
まあ、私はやはり、彼らもそれなりに自分たちの行動を合法化・正当化していたと思います。
その論理は、結局のところ自分たちは律令法の大系に拘束されない存在なのだ、幕府は天皇を頂点とする律令国家から独立した存在なのだ、ということになると思いますが、そうした論理を構築できる能力を持つ人は限られています。
そもそも律令法を知らない人が律令法を超える論理を構築することは無理ですから、幕府指導者の中で律令法を熟知する人物、即ち大江広元ということになりますね。
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