学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

0133 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」(その2)

2024-08-02 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第133回配信です。


一、前回配信の補足

佐藤進一の東国国家論の問題点
(1)「国家」の本質論、「国家」の定義の不在
(2)鎌倉幕府成立時に議論が集中し、承久の乱の位置づけが不明確

これらの問題点を克服した「新東国国家論」の立場から高橋論文を検討する。

-------
鎌倉幕府論

はじめに
一 軍事権門としての鎌倉幕府の成立
 1 権門体制論の概要と課題
 2 内乱期の軍事組織
 3 内乱の経過と鎌倉幕府
 4 軍事権門
二 軍事体制としての鎌倉幕府
 1 地頭制
 2 御家人制
 3 守護制度と東国支配
三 東国国家論と朝幕関係
 1 寿永二年十月宣旨の「発見」
 2 寿永二年十月宣旨から以仁王の令旨へ
 3 朝幕関係への注目
 4 朝幕関係の整序と将軍権力
おわりに
-------


二、高橋典幸氏の問題意識

p99以下
-------
はじめに

 鎌倉幕府研究の論点の一つに、鎌倉幕府の成立時期をどの時点に求めるかという問題がある。鎌倉幕府の性格をどのようなものと考えるかにより、成立時期の理解も異なってくるのであるが、これまで次のような説が提起されてきた。
  ①治承四年(一一八〇)末   南関東軍事政権の確立
  ②寿永二年(一一八三)一〇月 いわゆる寿永二年十月宣旨の獲得
  ③文治元年(一一八五)一二月 いわゆる文治勅許の獲得
  ④建久元年(一一九〇)一一月 源頼朝の右大将就任
  ⑤建久三年(一一九二)七月  源頼朝の征夷大将軍就任
 これらは大別すると、次の二つの見解に整理することができる。一つは、治承四年(一一八〇)八月の挙兵以来、源頼朝が反乱軍として築き上げてきた東国の実質的支配(①)を前提として、朝廷から東国についての包括的な行政権が頼朝に認められた寿永二年十月宣旨(②)を重視する見解であり、東国における独自権力であることに鎌倉幕府の本質を認めようとするものである。佐藤進一を代表的な論者とする見解で、東国国家論と称されている。
 これに対して、権門体制論の立場から鎌倉幕府について異なる見解を打ち出したのが黒田俊雄である。権門体制論とは、権能を異にする公家・寺家・武家というそれぞれ独自の政治勢力(権門)が相互補完的に結集して一つの国家権力を構成するという考え方であり、この立場によれば、鎌倉幕府は中世国家の軍事・警察機能を分掌する武家権門と位置づけられることになる。権門体制論の場合は、鎌倉幕府の成立時期について明確な画期を指示しているわけではないことに注意を要するが、諸国の治安維持にあたる守護・地頭を設置する権限を頼朝に認めた文治勅許(③)を経て、頼朝が右大将(④)もしくは征夷大将軍(⑤)に任じられることによって、その権限は「朝廷の侍大将」、すなわち中世国家の軍事権門の権能によるものとして位置づけられたと理解することができる。
 東国国家論・権門体制論いずれも半世紀以上も前に提起された議論であるが、現在に至る鎌倉幕府論の通説的理解は両者によって基礎づけられているといっても過言ではない。右の①から⑤には、鎌倉幕府論の主要な論点が出そろっているともいえよう。
-------

「権門」とはそもそも何か。
黒田俊雄の説明もかなり変化がある。

細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2011)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81812.html

p9
-------
【前略】この学説の基本である「権門」について、黒田氏は「政治的・社会的に権勢を持ち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、(中略)家政機関と家司を持ち、下文、奉書など基本的に同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥集団」(黒田「権門体制」<『日本史大事典』二、平凡社>)と定義している。
-------

こんなものが「定義」と言えるのか。
こんなものを「定義」として受け入れる歴史研究者の感覚はおかしいのではないか。

「寺家」は「権門」なのか。
そもそも「公家」「武家」と並列すべき「寺家」という集団が存在するのか。

平雅行『鎌倉時代の幕府と仏教』(塙書房、2024)
p115以下
------- 
 私はこれまで、権門体制論・顕密体制論を基本的に支持しつつも、いくつかの批判点を提示してきた。最初にそれを確認しておこう。問題となるのは、第一が寺家の位置づけ、第二が密教による思想統合論、第三が正統─異端論であり、第四が「顕密体制」概念の混乱である。
 まずは、第一の寺家の位置づけから。権門体制論は公家・武家・寺家の相互補完によって中世国家が構成されていたとするが、公家・武家とは異なり、中世の寺家は自立的統合組織をもっていない。この点からして寺家を武家・公家と並列的に取り扱うのは適切ではないはずだ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d42cf6bdb443860027da223242334de
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする