学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0114 木下竜馬氏「治承・寿永の内乱から生まれた鎌倉幕府─その謙抑性の起源」(その4)

2024-07-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第114回配信です。


一、前回配信の補足

p148
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 かかる特異性は、院政期との非連続性とも関係する。院政期には、源平諸流の軍事貴族が京都を舞台に併存しながら朝廷・院に奉仕しており、彼らを頂点とし、地方武士を含みこむ武士社会が形成されていた。これを川合康は、京武者社会と名づけている[川合二〇〇四a・二〇一三]。平氏は、武士たちがゆるやかに連合する院政期的なありかたを継承しており、京武者社会と連続性をもっていた。一方、挙兵した頼朝軍も当初はゆるやかな武士の連合という性格をもっていたが、寿永三年(一一八四)に上洛を果たしてからは、勢力下の武士たちを一律に家人化していく方針に切りかわり、統制が進んでいく[元木二〇〇一]。御家人制は、院政期的な京武者社会を否定して成立したのであった[川合二〇〇四a・二〇一二]。
 かくして内乱期に無から誕生した鎌倉幕府御家人制は、実態はともかく、固定的・閉鎖的なものとして立ち上げられなければならなかった。なぜなら、自己の確立とは、自他の境界線が明確に引かれることで成し遂げられるからである。本章冒頭に引用した高橋典幸論文は、鎌倉幕府の自立の上で外延確定が根本的な課題であったことを指摘している[高橋典幸二〇一三]が、御家人制のみならず、地頭制や東国と西国との境界なども、幕府成立時に最初の外延確定の試みがなされたものと考えられる。
 本節冒頭で紹介した河内説も、この文脈で再解釈できる。頼朝の自己抑制は、外延確定の模索の一環であった。自他の境界を定め、幕府を恒久的な組織として確立するため、自己抑制は必要不可欠だったのである。
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二、何故に「謙抑性」を重視するのか

p149
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  おわりに

 以上、二節にわたり考察を述べてきた。第一節では、地頭の研究史を整理し、<後退>モデルから<拡大→整理>モデルへの認識枠組みの変化を看取し、成立時の幕府の自己抑制が研究のなかで評価されていくことを指摘した。それではなぜ自己抑制が必要だったのだろうか。第二節ではこの問いに答えるべく、御家人制の研究成果をもとに試論を述べ、御家人制は特異な主従制であり、その外延確定のため自己抑制が求められたのだと結論づけた。つまり、自己の確立のため、自己抑制が必要だったということである。
 それでは、かかる特異な政権である鎌倉幕府が生まれるきっかけとなった治承・寿永の内乱はいかに評価されるべきなのだろうか。先述したとおり、中世の成立を院政期とする見解が定着した今日、この内乱はどのような画期性を見出せるのだろうか。
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吉野秋二氏の「日本古代の国制と戦争」(『日本史研究』654号、2017)を引用。

吉野秋二氏(京都産業大学教授、1967生)
https://www.kyoto-su.ac.jp/faculty/professors/fcsi/yoshino-shuji.html
https://researchmap.jp/read0070027

p150
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【前略】治承・寿永の内乱は、(倭国の時期を除くという意味で)「日本」初の全国的内乱として独自の画期性をもつといえよう。
 東国の源頼朝や北国の木曽義仲、西国の平氏などが、数年間とはいえ、京都と独立した地域権力として活動したことは、「国家の分裂」と表現するほかなく、分権的とはいえ京都に集住することでまとまりを保っていた政治秩序そのものを吹き飛ばす可能性を秘めていたのではないか。結局、鎌倉幕府の成立によって割拠状態は解消され、再統合がなされるものの、そうではない道がありえたことは十分留意すべきである。
 鎌倉幕府の特異な性格は、「国家の分裂」時に、朝廷への反乱軍として頼朝勢力が出発したことに由来する。一方で、内乱収束後の頼朝は、「国家の再統合」と、みずからの勢力の恒久的な存続という二つの課題に取り組んでいくこととなる。本論で縷々述べたとおり、そこで重要だったのが自己抑制であり、幕府の謙抑性として後代に刻印されることとなった。
 つまり、鎌倉幕府の謙抑性の起源は、治承・寿永の内乱から生まれたことに求められる。これが本章の結論である。
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木下氏は何故に「国家(の分裂)」「国家(の再統合)」と、国家にカギ括弧をつけるのか。
木下氏にとって「国家」とはそもそも何なのか。
「外延」「自他の境界線」「鎌倉幕府の自立の上で外延確定が根本的な課題」「東国と西国の境界」「幕府を恒久的な組織として確立」「みずからの勢力の恒久的な存続」といった表現は、国際法上の「国家」の定義に関係する議論に頻出する語彙と類似している。
しかし、国際法の「国家」については、木下氏が重視する「謙抑性」などといった概念は全く重視されない。
権門体制論者の木下氏が「一つの国家」を前提とし、頼朝が「「国家の再統合」と、みずからの勢力の恒久的な存続という二つの課題に取り組んでいく」という枠組みを作ってしまったので、「謙抑性」などという、どこか道徳的・倫理的色彩を含んだ曖昧な概念が重要に思えてくるのではないか。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その1)~(その18)〔2021-10-03〕
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