投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 9日(火)09時31分23秒
>筆綾丸さん
>ヴェーバーの「理念型」や「価値自由」の概念を正確に理解しているのはボクだけだな
東島氏の論文を読んで私が最初に奇妙に思ったのは、東島氏が自明の前提としているウェーバーと佐藤進一との関係ですね。
佐藤進一が「主従制的支配権」や「統治権的支配権」をウェーバーの所謂「理念型」として構成しているのでなければ「「幕府」論のための基礎概念序説」全体が砂上の楼閣となってしまいますが、その点は東島氏が一番最初にきちんと、佐藤の論文等の具体的根拠に基づいて実証すべきなのに、東島氏は、そんなこと当然だろ、という態度で終始しています。
この点、ツイッターでは名城大学教授の伊藤俊一氏がかなり厳しい表現で批判されていましたが、私も極めて疑問に思っています。
佐藤進一自身が「分析のツールとしてではなく、分析結果の収納先、言うなれば、分別収集のゴミ袋のごときもの、分類のツールとして取り扱っている」概念を、東島氏が「理念型」と「誤読」している可能性が高いんじゃないですかね。
設問は私が4月7日にツイートしたもので、一部で少しウケました。
正解は「我を崇めよ」(五字)ですが、この冗談の元ネタが荒俣宏原作『帝都物語』の加藤保憲だということも、若い世代は知らないかもしれないですね。
『帝都物語』は映画化されると嶋田久作の怪演で話題になりましたが、加藤保憲が何のために闘っているのか今一つ分らない点では東島氏とちょっと似ているような感じもします。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「分別収集のゴミ袋」2019/07/08(月) 15:09:33
小太郎さん
東島氏は立命館大学にキャリアアップしていたのですね。
「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んでみましたが、現今の中世史研究者のなかで、ヴェーバーの「理念型」や「価値自由」の概念を正確に理解しているのはボクだけだな、という自画自賛の論文ですね。ボクはキミらと違って、すごく頭がいいんだよ、といい歳して自慢してもなあ、という感じがします。
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そもそも、例外の指摘が可能ということ自体、主従制的支配権や統治権的支配権が、〈理念型〉のセットとして成功していることの、何よりの証左ではないのか。これは、およそ学問に携わる者の基本事項であるが、ヴェーバーの〈理念型〉とは、分析に先立って用意するモノサシのことであって、複数の〈理念型〉を組み合わせることで、複雑な構造とその動態を記述可能にするツールのことである。したがって、亀田のように「であるはずの」と述べた瞬間に、その論者は〈理念型〉をそうした分析のツールとしてではなく、分析結果の収納先、言うなれば、分別収集のゴミ袋のごときもの、分類のツールとして取り扱っている、ということが露呈してしまうのである。これが〈理念型〉分析とかけ離れた態度であること、つまり佐藤批判になりえていないことは明らかであろう。(345頁~)
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「分別収集のゴミ袋のごときもの」とは随分な言い草で、亀田俊和氏に対して、お前はバカだ、と言っているようなものですね。
小太郎さん
東島氏は立命館大学にキャリアアップしていたのですね。
「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んでみましたが、現今の中世史研究者のなかで、ヴェーバーの「理念型」や「価値自由」の概念を正確に理解しているのはボクだけだな、という自画自賛の論文ですね。ボクはキミらと違って、すごく頭がいいんだよ、といい歳して自慢してもなあ、という感じがします。
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そもそも、例外の指摘が可能ということ自体、主従制的支配権や統治権的支配権が、〈理念型〉のセットとして成功していることの、何よりの証左ではないのか。これは、およそ学問に携わる者の基本事項であるが、ヴェーバーの〈理念型〉とは、分析に先立って用意するモノサシのことであって、複数の〈理念型〉を組み合わせることで、複雑な構造とその動態を記述可能にするツールのことである。したがって、亀田のように「であるはずの」と述べた瞬間に、その論者は〈理念型〉をそうした分析のツールとしてではなく、分析結果の収納先、言うなれば、分別収集のゴミ袋のごときもの、分類のツールとして取り扱っている、ということが露呈してしまうのである。これが〈理念型〉分析とかけ離れた態度であること、つまり佐藤批判になりえていないことは明らかであろう。(345頁~)
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「分別収集のゴミ袋のごときもの」とは随分な言い草で、亀田俊和氏に対して、お前はバカだ、と言っているようなものですね。
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