東島誠氏(立命館大学教授、1967生、以下「ガーシー」という)の『「幕府」とは何か』(NHK出版、2013)には権門体制論・東国国家論に関する記述が若干あるので、検討の素材とするために読み進めていたところ、下記文章(p172以下)に出会い、私はいささか当惑しています。
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佐藤学説の核心は「第三者的」であるということ
では佐藤進一の「統治権的支配権」の核心が「第三者的」であることが明晰に理解されていれば、どういう説明が可能なのか。それはおそらく次のようになるはずだ。
唐突で申し訳ないが、そこのAさんとBさんで、ちょっと「ワー」「わー」と喧嘩をしていただきたい。……(中略)……さて、AさんもBさんも私の大切な<しもべ>であると仮定すると、主従制と言うのは一対一のパーソナルな関係なので、私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入すること、つまり「親裁」することは本質的に避けたい事態である。どっちにも肩入れしたくなるからだ。ならばどうすればよいのか。ここでCさん、あなたの登場だ。裁判機構をつくり、私以外の第三者に紛争解決を委ねればよいのである。(東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』五九-六〇頁)
もちろん従来の研究においても、佐藤の「第三者」性を的確に継承している論者は少なくない。たとえば近藤成一は、「執権が将軍とは別に存在する意義は、御家人との主従関係の拘束を受けずに相論を第三者として裁定するという機能に存した」(『鎌倉幕府政治構造の研究』五三一頁)と端的に指摘している。いずれにも加担しない「第三者」性こそが、統治権的支配の肝要であろう。
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ガーシーは『自由にしてケシカラン人々の世紀』の自己引用部分がよほど気に入っているのか、まるで自明の話のように書いていますが、私にはさっぱり理解できません。
「私」の「しもべ」であるA・Bが「喧嘩」している場合、「主従制と言う」関係にある以上、「私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入」・「親裁」して、「喧嘩」を終息させるのが当然ではないかと思いますが、何故にわざわざ「裁判機構をつくり」、「私以外の第三者」であるCに「紛争解決を委ね」ねばならないのでしょうか。
例えば、暴力団組長と組員a・bがいるとして、a・bが喧嘩している場合、組長としては直ちに「親裁」して問題を解決しなければ組織の規律が維持できないはずです。
a・bいずれも「しもべ」ですから、組長の命令には従うはずですし、従わなければ処分するだけの簡単な話です。
しかし、組長が「どっちにも肩入れしたくなる」などと言って自ら「親裁」せず、「裁判機構をつくり」、「第三者に紛争解決を委ね」たりしたら、組長としての威信、組織の規律が保たれるのでしょうか。
また、組員a・bが、別に「主従制と言う」関係にない「第三者」の決定に従う保証がどこにあるのでしょうか。
ガーシーの説明が理解できると考える方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912772023.html
佐藤学説の核心は「第三者的」であるということ
では佐藤進一の「統治権的支配権」の核心が「第三者的」であることが明晰に理解されていれば、どういう説明が可能なのか。それはおそらく次のようになるはずだ。
唐突で申し訳ないが、そこのAさんとBさんで、ちょっと「ワー」「わー」と喧嘩をしていただきたい。……(中略)……さて、AさんもBさんも私の大切な<しもべ>であると仮定すると、主従制と言うのは一対一のパーソナルな関係なので、私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入すること、つまり「親裁」することは本質的に避けたい事態である。どっちにも肩入れしたくなるからだ。ならばどうすればよいのか。ここでCさん、あなたの登場だ。裁判機構をつくり、私以外の第三者に紛争解決を委ねればよいのである。(東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』五九-六〇頁)
もちろん従来の研究においても、佐藤の「第三者」性を的確に継承している論者は少なくない。たとえば近藤成一は、「執権が将軍とは別に存在する意義は、御家人との主従関係の拘束を受けずに相論を第三者として裁定するという機能に存した」(『鎌倉幕府政治構造の研究』五三一頁)と端的に指摘している。いずれにも加担しない「第三者」性こそが、統治権的支配の肝要であろう。
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ガーシーは『自由にしてケシカラン人々の世紀』の自己引用部分がよほど気に入っているのか、まるで自明の話のように書いていますが、私にはさっぱり理解できません。
「私」の「しもべ」であるA・Bが「喧嘩」している場合、「主従制と言う」関係にある以上、「私自身が直接Aさん・Bさんの紛争に介入」・「親裁」して、「喧嘩」を終息させるのが当然ではないかと思いますが、何故にわざわざ「裁判機構をつくり」、「私以外の第三者」であるCに「紛争解決を委ね」ねばならないのでしょうか。
例えば、暴力団組長と組員a・bがいるとして、a・bが喧嘩している場合、組長としては直ちに「親裁」して問題を解決しなければ組織の規律が維持できないはずです。
a・bいずれも「しもべ」ですから、組長の命令には従うはずですし、従わなければ処分するだけの簡単な話です。
しかし、組長が「どっちにも肩入れしたくなる」などと言って自ら「親裁」せず、「裁判機構をつくり」、「第三者に紛争解決を委ね」たりしたら、組長としての威信、組織の規律が保たれるのでしょうか。
また、組員a・bが、別に「主従制と言う」関係にない「第三者」の決定に従う保証がどこにあるのでしょうか。
ガーシーの説明が理解できると考える方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912772023.html
「唐突で申し訳ないが、ケンカしてみて」
と私が命じてはじまったケンカだから、
「唐突で申し訳ないが、ケンカやめてね」
と私が命ずればすむ話ですよね。
主従制的支配権というのも烏滸がましい。まして況んや統治権的支配権をや。