学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

ガーシークイズ(その2)【問題編】

2024-08-08 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第136回配信で、ガーシーから離れて高橋典幸論文に戻る、と述べたばかりですが、久しぶりに「「幕府」論のための基礎概念序説」(『立命館文学』660、2019)を読み直してみたら、ガーシーという日本中世史学界有数の変人に若干の好奇心も沸いてきました。
そこで、もう少しガーシーワールドを彷徨ってみたいと思います。
さて、ガーシーの『「幕府」とは何か』に対しては、濱野靖一郎氏(島根県立大学准教授)が政治思想学会『政治思想研究』第24号に書評を寄せられた以外、あまり反響はないようです。

https://x.com/IichiroJingu/status/1786722359405322532

その理由を考えるに、ガーシー理論(?)の根底には一般人の理解を超えた極端な思い込みが多々あって、これは不用意に関わってはいけない人かな、というオーラを醸し出していることが挙げられそうです。
例えば、第一章第2節には、権門体制論と東国国家論についての一般的な説明の後、次のような文章が続きます。(p45以下)

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  権門体制論を誤用から救うことで見えてくるもの

 では、かく言う私はどちらの学説につくのか、と問われれば、両学説ともチューニングが必要だ、と応えることになる。特に、よく言われるような説明、権門体制論は単一国家論、公家・武家・寺社の各権門が相互補完する構造、と見る限り、これには従えない。批判する側も支持する側も、黒田学説の切り拓いた世界を本当には読み切れていないというのが実情だ。佐藤進一のみならず、黒田俊雄の学説もまた、<死んだ言説>にされてしまっているのである。
 たとえば、二つの学説の対立点を、中世に単一国家が存在したことを認めるかどうか、に求める石井進の黒田批判は、心情的には理解できるものの、議論としてはまったく生産的でない。たしかに黒田自身も、単一国家の存在を明言しているが、黒田学説の核心部分はそこにあるのではなく、むしろ単一構造を指摘した点、国家が単一というより、構造が単一であることを指摘した点にこそあるのである。武家も公家も寺社も、荘園制を経済基盤とする相似の支配構造を持っており、どこを切っても基本的には同じ構造の、まさしく逃げ場のないシステムだ、という点こそが、権門体制論の核心部分にほかならない。この<構造の束>を国家と呼ぶべきかどうか、だとか、各権門が相互補完的であったかどうか、だとかは、本来副次的な問題であるにすぎない。ただ、この構造を束ねる者として、責任の所在は天皇にある、と名指しした点において、いわゆる天皇の政治責任の問題はより先鋭に内面化が可能となる、とは言える。黒田の権門体制論は、こう捉えてはじめて、戦後の<民主>化を課題とした<生きた言説>たりうるのだ。佐藤進一の東国国家論が、天皇・朝廷を相対化しうるものとして、それとは異なる別の中心を見出そうとしたのとは、まったく【別のやり方で】、黒田は同じ問いに向き合ったのである。
 もうおわかりであろう。黒田学説と佐藤学説は、戦時への反省に立つ戦後歴史学の根柢の部分では対立していない。むしろ、それを従来の論者のように外形上の差異にのみ目を奪われてこれを<死んだ言説>にしてしまうか、それとも<生きた言説>として継承しうるか、という対立のほうが、学問としては、はるかに深刻な問題なのである。
 私は、日本列島の中心を多極化する動きを重視し、既存の権力とは別なる可能性の探求を身上とする東国国家論に、基本的には拠って立つ。しかしながら支配構造の同質性を束ねる者として天皇が意識される構造に肉薄せんとする権門体制論は、同時に選びうる、非常に魅力的な選択肢なのだ。
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※傍点部分を【】とした。

「単一国家論、公家・武家・寺社の各権門が相互補完する構造」云々は黒田理論についての常識的な理解と思われますが、ガーシーは「黒田学説の核心部分」は「むしろ単一構造を指摘した点、国家が単一というより、構造が単一であることを指摘した点にこそある」とします。
まあ、賛成はできないにしろ、そうした見方もあるのかなとは思いますが、その後の「この構造を束ねる者として、責任の所在は天皇にある、と名指しした点において、いわゆる天皇の政治責任の問題はより先鋭に内面化が可能となる」とはどういうことなのか。
マルクス主義者として「国民的歴史運動」などにも深く関わった黒田は、「いわゆる天皇の政治責任の問題」にも強い関心を抱いていたであろうことは十分考えられます。
しかし、それが黒田の権門体制論とどのような関係にあるのか。
黒田は、現代社会における政治的立場とは別に、あくまで実証的な歴史研究者の立場から、中世の国家構造を説明する理論として権門体制論を構想したものであって、権門体制論そのものは「戦後の<民主>化」などとは無関係と考えるのが一般的だと思いますが、ガーシーは違います。
ガーシーによれば、黒田個人と佐藤個人ではなく「黒田学説と佐藤学説」、すなわち黒田の権門体制論と佐藤の東国国家論も「戦時への反省に立つ戦後歴史学の根柢の部分では対立して」いないのだそうです。
しかし、私には、二人の中世国家に関する「学説」が「戦時への反省」と結びついているというのは、二人の実証的歴史学者に対する侮辱のように思われます。
また、ガーシーによれば「戦時への反省」等の政治的問題と中世国家理論を結合することが、二人の学説を「<死んだ言説>」ではなく、「<生きた言説>として継承」することになるようですが、これも不可解です。
以上、ガーシー理論(?)には、私には全く理解できない部分が多いのですが、ガーシーの説明が多少なりとも理解できると考える方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
コメント
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