学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0141 亀田俊和氏「足利尊氏・直義の「二頭政治論」を再検討する」(その1)

2024-08-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第141回配信です。


一、前回配信の補足

筆綾丸さんのコメント

佐藤雄基氏「鎌倉幕府政治史三段階論から鎌倉時代史二段階論へ : 日本史探究・佐藤進一・公武関係」(『史苑』81‐12、2021)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/20515

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(93)二〇一九年九月一四日にはシンポジウム「佐藤進一の軌跡─いま、「中世国家」を問う─」が名古屋大学で開催されたが、その基調は実証史家としての佐藤だった(『年報中世史研究』四五号、二〇二〇年)。当日筆者も発言した(前掲注(92)に関わる)。同年には、東島誠による新たな問題提起がなされ(「「幕府」論のための基礎概念序説」『立命館文學』六六〇号、二〇一九年)、亀田俊和「南北朝期室町幕府研究とその法制史的意義:所務沙汰制度史と将軍権力二元論を中心に」( 『法制史研究』六八巻)も発表された。なお、 拙稿「書評 近藤成一著『鎌倉時代政治構造の研究』」( 『史学雑誌』一二七編六号、二〇一八年)でも若干の検討を試みている。本稿では詳述しないが、佐藤進一の歴史観や「実証主義」への批判的見方については「研究法」(前掲注(67)編著所収)四六頁が興味深い。
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二、「佐藤進一の著名な学説」

『初期室町幕府研究の最前線―ここまでわかった南北朝期の幕府体制』(洋泉社、2018)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784800315083

全体の構成
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佐藤進一の著名な学説
所領安堵は「主従制的支配権」か、「統治権的支配権」か?
恩賞充行が内包する統治権的要素
軍事指揮権を完全に掌握していた直義
「将軍権力の二元性」論に対する理論的検討
「創造」と「保全」の機能
幕府の最高文書としての裁許下知状
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p47以下
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佐藤進一の著名な学説
 草創期の室町幕府における制度史の研究史を論じるに際しては、佐藤進一の「二頭政治論」が必要不可欠である。著名な学説で、筆者も今までの論文や著書でたびたび言及してきたが、改めて簡単に紹介しよう。
 初期室町幕府において、政令が足利尊氏(一三〇五~五八)と弟直義(一三〇七~五二)の二途から出されており、幕政が尊氏・直義兄弟の二頭政治であったとする評価自体は、すでに戦前から田中義成などによって呈されていた。また尊氏が恩賞充行、直義が所領安堵の下文を発給し、直義が所務沙汰裁許(不動産訴訟の判決)の下知状を出したことも、相田二郎が指摘している(相田:一九四九)。
 しかし、それらの実証的成果に基づいて、尊氏が侍所・恩賞方等、直義が評定・安堵方・引付方(所務沙汰の審議機関)・禅律方等を管轄していたことに初めて言及したのは、佐藤進一が一九六〇年に公表した「室町幕府開創期の官制体系」である(佐藤:一九六〇)。
 この論文で佐藤は、尊氏の軍事指揮権と行賞権を「主従制的支配権」(弓矢の将軍)、直義の民事裁判権と所領安堵権を「統治権的支配権」(「政道」「天下」)と定義した。さらに尊氏の支持層が畿内・西国の地侍的武士層、直義のそれが鎌倉幕府以来の東国の伝統的な地頭御家人(評定衆・奉行人や足利一門でも最上位に位置する家)と、両者の支持基盤や地域が異なることや、康永三年(一三四四)、引付方を発展させて成立した内談方などに直義の親裁権強化の志向が見られ、これが観応二年(一三五一)の義詮御前沙汰の登場や、後年の管領制の成立に帰結したことなどが論じられている。この論文で、すでに「二頭政治論」の骨格が現れている。
 その後、佐藤は一九六三年の「室町幕府論」において、この問題を改めて論じた(佐藤:一九九〇)。ここでは、尊氏の「主従制的支配権」が私的・個別的・人格的、直義の「統治権的支配権」が公的・領域的であることなどが指摘される。「官制体系」が実証に基づく立論であったのに対し、「室町幕府論」は理論的な側面から論証した形となっている。
 この論文で画期的なのは、将軍権力の二元性が草創期の室町幕府の特殊な条件によって出現したのではなく、前代の鎌倉幕府から普遍的に存在したと主張されたことである。
 佐藤によれば、源頼朝(一一四七~九九)の持つ「主従制的支配権」が、右近衛大将・征夷大将軍という役職で王朝国家から承認され、同時に東国、次いで日本全国に対する公的・領域的な支配権が王朝国家から認められたという。
 これを筆者なりに咀嚼すれば、王朝国家に対する私的な反乱者として出発し、武家の棟梁となった頼朝が本来持っていた「主従制的支配権」に、王朝国家が持っていた公的・領域的な支配権を分与されることで、頼朝の東国勢力は公的な武家政権として成立したということである。
 そして、名著『南北朝の動乱』において、佐藤は自身の「二頭政治論」を一般向けにも紹介した(佐藤:一九六五)。この著書は、以前の論文と比較すると、初期の将軍権力の二元性が観応の擾乱(一三五〇~五二)等の幕府の内訌や政争の度重なる原因となったことが強調されている。すなわち、二頭政治の矛盾が幕府の分裂をもたらし、それを克服するために将軍親裁権の強化が試みられ、将軍権力の一元化が達成されたという構図が明確化されたのである。
 以上、少なくとも公表された論文・著書に拠る限り、佐藤が一九六〇年代前半に「二頭政治論」を急速に深化させていった様相が看取できる。加えて一般向けの書籍で公開されたこともあり、佐藤の「二頭政治論」は通説として幅広く受容されることになったのである。
 佐藤の研究以降、一九七〇年代から九〇年代にかけて羽下徳彦・山家浩樹・家永遵嗣・岩元修一らが、「二頭政治論」に基づいた所務沙汰(不動産訴訟)関連の論文を次々と公表した。佐藤が将軍親裁権の強化は、直義の「統治権的支配権」を軸としてなされたと主張したことも影響し、これらの研究は直義の権限の実証的解明に集中することとなった。そして「二頭政治論」は、現在もなお基本的には定説の地位を維持していると評価できる。
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コメント
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