学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その3)

2023-03-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p22)
同じ北面でも上北面と下北面では処遇に大きな差がありましたが、秀康は下北面であったにも拘わらず、後鳥羽院に特別に引き立てられて、上北面と同様の扱いを受けたようですね。

-------
 そして秀康・秀能の兄弟は多くいた下北面の人々の中でも特別と言い得るほどの待遇を与えられていた。一般的に下北面は衛府尉から検非違使、さらに国守へという昇進経路をとり、秀康一族の官歴も大筋においてこれに合致するのであるが、秀康の場合、官歴の上で注目すべき二つの事柄がある。一つは右馬権助に任ぜられたということ、もう一つは従四位下に叙せられたということである。右馬(権)助について『官職秘鈔』には「往代、英華貴種人多任之、近代経蔵人之輩并公達任之」とあり、侍身分の者が任官できる官ではなかったようである。「経蔵人之輩」とは諸大夫である上北面の人々に相当し、実際上北面の多くが左右馬(権)助に任じており、また「公達」とは公卿に達し得る階層であった。そして四位に達したことも非常に珍しいことであり、弘安六年(一二八三)に従四位下に叙された中原行実に関して、藤原兼仲はその日記に「下北面、承久秀康以後、侍四品無近例歟、希代之昇進也」と記している。管見の限り、後鳥羽院下北面で左右馬(権)助に任ぜられたり、四位に達した者は見当たらず、秀康は下北面でありながら破格の待遇(諸大夫に対する待遇に相当)が与えられていたということになる。そして国守経験が非常に多く、下野・上総・河内・伊賀・淡路・備前・能登の七箇国に及び、若狭守でもあったと伝えられる。また秀能は官位こそ目立つものは無いが、「院中事、秀能之外下北面者、不接晴御会」といわれ、建仁元年(一二〇一)に開設された和歌所に当初から寄人として参加しており、後鳥羽上皇を中心とする宮廷歌壇の重要な構成員として多くの歌会に名を連ねている。これらのことは、秀康・秀能ひいてはその一族が後鳥羽院にとって重要な存在であったことを直接示すものにほかならない。
-------

秀能については、田渕句美子氏の論文に基づき、更に詳細に経歴を見る予定ですが、後鳥羽院にしてみれば、これだけ厚遇してやったのに、秀能が京方で参戦しなかったことは本当に意外であったはずです。
逆に秀能にしてみれば、何故に京方で参戦しなかったかというと、それは京方の敗北を予想していたからでしょうね。
鎌倉に勝てると本気で思っていた後鳥羽院や兄・秀康、弟の秀澄を始めとする人々は、秀能には狂人のように見えただろうと私は想像します。
さて、次の「三 秀康の所領」はかなり細かな話なので引用すべきかどうか迷いましたが、平岡氏が紹介された「土屋宗直申状案」の中に「本郷甲可郷地頭長江八郎左衛門尉」という人物が出てくるのが気になります。
南北朝初期の史料であり、場所も摂津ではなく河内ですが、「長江」という名字は謎の多い長江荘を連想させますので、後日、何かの参考になるかもしれず、これも引用しておきます。(p22以下)

-------
 三 秀康の所領

 田中稔氏は、秀康が承久の乱後逃れて河内国讃良の地に隠れ、そこで捕えられたことから、讃良の地が秀康の本拠であったと推定されている。讃良郡とその周辺には秀康に関係していた所領が集中していたようであるが、まず秀安の所領であったことが確かめられる伊香賀郷の様子を見てみよう。土屋宗直申状案を次に掲げる。

  河内国伊香賀郷地頭土屋孫次郎宗直申、当郷所務事、守本司能登守秀康知行例、所致其
  沙汰也、雖為承久勲功之地、或守本司例有下地進止郷、或追新補率法之例知行所在之、
  郷々所務皆追本司跡、所致其沙汰也、且本郷申可郷地頭長江八郎左衛門尉与雑掌、先年
  相論之時、帯武家下知状、下地知行、于今無相違之上者、不可綺一郷之例者也、所詮帯
  此等次第文書等、委細之旨、可令後日言上者乎、而無是非於被打渡当郷者、地頭侘傺何
  事如之、宗直雖為不肖之身、自最初参御方、被疵、於所々抽軍忠之状、云御感、云御証
  判、旁明鏡也、然者早被止当時打渡、被糾明真偽、任当知行之実、被経御沙汰、預御注
  進者、弥成弓箭之勇、為致忠勤、粗恐々言上如件、
      三月廿七日       宗直
    御奉行所

この文書は無年号であるけれども、宗直は正中二年(一三二五)に伊香賀郷地頭職を譲渡されているから、それ以後のものであることが確実であり、水野恭一郎氏は建武四年(一三三七)かそれに近い時期のものと考えられている。土屋氏が地頭職を与えられたのは承久の乱直後で秀康逃亡中の承久三年(一二二一)九月六日のことで、観応元年(一三五〇)には「国衙年貢」が課されているのを見ると、田中稔氏が指摘されているように国衙領であったようである。伊香賀郷は茨田郡に属し、現在の枚方市南部、淀川左岸の伊香賀付近に比定されているが、この地において秀康は、所務沙汰権、さらには下地進止権を有し、強力な在地支配を展開していたらしい。さて、水野氏は、「この申状の中で宗直が訴えているところは、伊香賀郷内において、他の何びとかに所職が与えられようとしていることに対する抗議の愁訴であって、伊香賀郷と同様、もと能登守藤原秀康の所領であった讃良郡甲可郷において、先年、地頭長江氏と雑掌との間に起った相論の場合の事例を挙げて、伊香賀郷における地頭土屋氏の知行権は一郷に及ぶべきものであることを主張しているのである。」と述べられ、また「『本郷甲可郷』として記されている讃良郡内の甲可郷が、秀康の本領的な所領であったとも推察され、これら讃良・茨田両郡をふくむ北河内の一帯が、恐らく秀康の本拠の地であったことは、ほぼ確かであると思われる。」とされている。この解釈は妥当なものと思われるが、「本郷」とはどのような意味なのであろうか。甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近に比定されるから、伊香賀郷とは直線距離で六~七キロメートル離れており、地理的に一円の所領と認めるのは難しい。しかし、在庁名のような一群の国衙領の中核であったことは間違いなかろう。
-------

長々と引用しましたが、「甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近」なので、長江荘の所在地として想定されている場所とは相当に離れています。
もっとも、小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を見ると、長江荘の実在を基礎づける「関係史料は皆無に近い」、というか皆無なのですが、小山氏は一応、

-------
 長江という地名が見える中世文書は、宝徳二年(一四五〇)の勝尾寺文書であって、伊勢因幡代景家が「惣持寺田長江之下地」を勝尾寺に寄進している。惣持寺は、西国三十三ヵ所観音霊場の二二番札所として知られる名刹であって、島下郡(現、茨木市)に所在する。この惣持寺からさして離れていないところに長江荘の比定地を求めるべきだと考えるが【後略】
-------

と推定されています。(p68)
「甲可郷は現在の四条畷市南野・大東市北条の付近」と茨木市の総持寺は、淀川を挟んで直線距離で10㎞ほどですから、意外に近いといえば近いですね。
ま、長江荘は謎だらけなので、もしかしたら参考になるかも、程度の気持ちで長々と引用してみました。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e21be7919eb73b747f9f322c7880af

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 平岡豊氏「藤原秀康について... | トップ | 平岡豊氏「藤原秀康について... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事