学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

錦昭江氏「京方武士群像」(その3)

2023-09-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に「城南寺に召集された軍勢で、美濃勢力と確認される」のは「兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本」とありますが、これは「諸国ニ被召輩」のことですね。
「諸国ニ被召輩」に載るのは全部で31人(項目)で、美濃10人(項目)が突出して多いですね。
なお、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では、「美濃国ニハ夜比兵衛尉……」と、美濃国の最初の一人は「夜比兵衛尉」となっています。
ただ、久保田淳氏の脚注でも、この人は「未詳」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その17)─「廻文」と「諸国ニ被召輩」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85115aad12fb5061d7af9f55e5f2fe7f

錦氏が言及される人名の中で慈光寺本に興味深いエピソードが載っている人としては、まず「高桑殿」が挙げられます。
といっても、

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荒三郎ガ物具脱置〔ぬぎおき〕、胡籙〔やなぐひ〕ナル中差〔なかざし〕二筋、弓ニ取具シテ、ツト河ノ底ヘゾ入ニケル。水ノ底ヲ一時計〔ひとときばかり〕這テ、向ノ岸ノ端ニ浮出テ、高桑殿ヲ見附〔みつけ〕、「アハレ、敵〔かたき〕ヤ。討〔うた〕バヤ」ト思ヒケルガ、「討ハヅシツルモノナラバ、此〔ここ〕ニテ死ナンズ」ト思ヒケレドモ、ヌレタル矢ヲハゲテ、思フ矢束〔やつか〕飽マデ引テ放チタレバ、高桑殿ノ弓手〔ゆんで〕ノ腹ヲ、鞍ノ末マデコソ射附タレ。馬ヨリ逆〔さかさま〕ニ落テ、此世〔このよ〕ハ早ク尽〔つき〕ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88c823c32fa110d009d3bf7d40b7f892

と武田方の「荒三郎」に射殺されるだけの役ですが。
次に「蜂屋入道父子三騎」の場合、最初に、

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 二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ。蜂屋入道ハ、二宮殿ノ勢廿四騎マデ射流タリ。渡付〔わたりつき〕テ後、蜂屋入道ト二宮殿ト組タリケリ。蜂屋入道ハ多ノ敵討取テ、我身ニ痛手負〔おひ〕、自害シテコソ失ニケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3

と「蜂屋入道」の自害が記された後、少し置いて、

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 蜂屋蔵人、是ヲ見テ、「加様〔かやう〕ノ所ハニグル甲〔かう〕ノ者、落ナン」ト思ツゝ、鞭ヲ揚テ、高山ヘゾ入ニケル。同三郎、是ヲ見テ、追付〔おひつき〕申ケルハ、「何〔いづれ〕ヘトテオハスルゾ。加程〔かほど〕ニ成ナンニ、落行〔おちゆき〕タリトモ、蝶〔てふ〕ヤ花ヤト栄〔さかゆ〕ベキカ。返シ給ヘ。父ノ敵〔かたき〕討ン、蔵人殿」ト云ケレドモ、聞〔きか〕ヌ顔ニテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

とあり、「蜂屋入道」の子の「蜂屋蔵人」は戦場から逃げ出し、これを見た「同(蜂屋)三郎」から、逃げずに父の敵を討とう、と言われますが、聞こえないフリをして去って行きます。
この後、「蜂屋三郎」は「武田六郎」に、「武田六郎ト見奉ルハ僻事カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王ノ末葉蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。父ノ敵討ントテ、参テ候ナリ。手次ノホドモ御覧ゼヨ」と声をかけてから戦いますが、応援に来た「武田八郎」に首を取られてしまいます。
三番目に、「神土殿」は藤原秀澄による第二次軍勢手分で「売間瀬」(鵜沼瀬)の担当であることが記された後、

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 山道〔せんだう〕ノ人々ハ、皆悉〔ことごとく〕落ニケリ。武田・小笠原ハ、大井戸・河合責落〔せめおとし〕テ、河ヲ下リニカケケレバ、鵜沼瀬〔うぬまのせ〕ニオハシケル神土〔かうづち〕殿ハ是ヲ見テ、「河ヲ下ニカクル武者ハ、敵カ味方カ」ト問ハレケレバ、上田刑部申ケルハ、「アレコソ武田・小笠原ガ、大井戸・河合責落シテ、河ヲ下リニカクルヨ」ト云ケレバ、神土殿、「其儀ナラバ、人ドモ皆々思切テ軍〔いくさ〕セン」トゾ申サレタル。上田刑部申ケルハ、「人ノ身ニハ、命程ノ宝ハナシ。命アレバ海月〔くらげ〕ノ骨ニモ、申譬〔まうすたとへ〕ノ候ナリ。軍ヲセンヨリハ、落テ尼野左衛門ニ見参シテ、武蔵殿ヘ参リ、宦〔みやづかへ〕シテ世ニアラン支度〔したく〕ヲシ給ヘ、神土殿」トゾ申タル。「此儀、サモ有〔あり〕ナン」ト思ヒ、尼野左衛門ニ見参シテ、武蔵殿ヘゾ参タル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

と、「上田刑部」の助言に従って「武蔵殿」北条泰時に降伏しますが、卑怯者だとして「神土殿父子九騎」はあっさり処刑されてしまいます。
流布本には「神土殿」は登場しませんが、『吾妻鏡』には京方敗北後の六月二十日条に、

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【前略】及晩。美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人。於貴舟辺。本間兵衛尉生虜之。又多田蔵人基綱梟首云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、「美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人」が貴船近辺で「本間兵衛尉」に生捕りにされたとなっています。
神土頼経は慈光寺本が明白に『吾妻鏡』と齟齬している一例で、野口実氏のように「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」する立場の危険性を示す例とも言えますね。
なお、「神土殿」が降伏する際に「尼野左衛門」が泰時への仲介役となっていますが、「尼野左衛門」は「天野左衛門」として別の箇所に名前だけ登場し、更に野口実氏は、「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)において、幕府の東海道軍の第四陣の筆頭に、

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 義時ハ軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始ラレケリ。【中略】四陣、佐野左衛門政景・二田四郎。五陣、紀内殿・千葉次郎ヲ始トシテ、海道七万騎ニテ上ルベシ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

と登場する「佐野左衛門政景」を天野政景とし、政景は「義村の代官か」とされています。
仮に野口説が正しいとすると、慈光寺本における天野政景像はあまり整合性が取れていないような感じもします。

流布本も読んでみる。(その51)─「天野四郎左衛門尉」と天野政景
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0dbe803a8c9fddc61db05446bf7783eb
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