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用語の整理:「征東将軍の権限」が一番良いか。

2021-09-01 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 1日(水)14時17分41秒

富樫高家は『太平記』には三回登場していて、最初が第十四巻第十一節「諸国朝敵蜂起の事」です。
新田義貞の東征軍が足利側に敗れて尾張まで退却した後の話として、四国での細川定禅の蜂起に続き、備前・丹波・能登での蜂起が次々と京都に早馬で報告される様子が描かれた後、

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 これのみならず、加賀に富樫介、越前に尾張守高経の家人、伊予に河野対馬入道、長門に厚東、安芸に熊谷、周防に大内介が一類、【中略】この外、五機七道、四国、九州、残る所なく起こると聞こえしかば、主上を始めまゐらせて、公家被官の人々、独りとして肝を消さずと云ふ事なし。
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とあります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p401)
この場面では「富樫介」は単純に並記されているだけですが、やはり富樫高家は中先代の乱の鎮圧には関与せず、ずっと加賀にいたと見るのが自然だろうと思います。
さて、尊氏の権限と「守護職」の問題を検討するに当たり、改めて『神皇正統記』『梅松論』『太平記』の表現を確認しておきます。
まず、『神皇正統記』では「高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず」とあって、中院具光の話は出てきません。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc5fa92b2e39b66d98495f0cc61ec85a

次に『梅松論』では、尊氏は関東下向の勅許以外に何も望んでいませんが、後に中院具光が「今度東国の逆浪、速に静謐する条、叡感再三なり。但し、軍兵の賞におゐては京都に於て、綸旨をもて宛行るべきなり。先早々に帰洛あるべし」と言ったとしています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8

そして『太平記』は「東八ヶ国の管領」ですね。

尊氏関東下向記事についての『太平記』と『梅松論』の比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9321d3400605bf113ab4312d230e76aa

三つの史料の表現と九月二十七日付の尊氏袖判下文の表現を比較してみると、どの史料の表現も少しずつポイントがずれているような感じがします。
そもそも厳密に「東八ヶ国」であれば、中先代の乱の震源地である信濃が対象から外れ、信濃の謀叛人の所領の没収と配分が出来ないことになってしまいますが、それは『南北朝遺文関東編第一巻』に記載されている同日付の文書七点のうち、既に紹介済みの三浦高継宛(290号)・富樫高家宛下文(296号)に加え、小笠原貞宗宛(293号)・「倉持左衛門三郎入道行円跡」宛下文(294号)とも矛盾します。
また、『太平記』は「東八ヶ国の管領」の具体的内容を「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限と説明しているので、恩賞地の給付だけに限定しているようにも見えますが、それでは富樫高家宛下文の「加賀国守護職」が説明しづらく、また尊氏が上杉憲房を上野守護に任じたという『梅松論』の記事との整合性も取りにくくなります。
そこで、九月二十七日付の尊氏袖判下文の実際に即して尊氏が希望したであろう権限に相応しい表現を探ると、単純に恩賞地の給付に限定されず、「守護職」のような軍事組織の責任者の任命も含むものとして、『神皇正統記』の「諸国の惣追捕使」が一番良いのではないかと思います。
しかし、これは結局は「征東将軍」に変更されてしまった訳で、それは「諸国の惣追捕使」ではあまりに広範すぎるので、東国という地域的限定が必要だ、という後醍醐の判断に基づくものと思われます。
結局、史料用語に即して考えれば、尊氏に認められた権限は「征東将軍の権限」と呼ぶのが一番適切なように思われますが、ただ、そうはいっても、このような古めかしい名称を復活させた役職の場合、具体的な権限の範囲がどこまで及ぶかは明確ではありません。
特に「加賀国守護職」のように、中先代の乱と同時期に起きた他地域の反逆行為も含むのか、という対象地域の問題は、尊氏にしてみれば、中先代の乱の首謀者と連絡を取った上での行動であることは明らかで、従って当然に自分が対応する責任を負い、恩賞を与える権限もあると考えるでしょうし、後醍醐にしてみれば、「征東将軍」である以上、加賀のように京都に近い土地まで含むはずがない、と考えそうです。
ま、私は後醍醐と尊氏の人間性から考えて、後醍醐と尊氏の対立の根本的原因は後醍醐の側にあり、後醍醐が尊氏に与えた権限を一方的に撤回した食言行為が全ての元凶だと考えますが、しかし「征東将軍の権限」はもともと解釈上の疑義を呼ぶ可能性が高く、従って当該権限をめぐる対立も必ずしも後醍醐だけが一方的に悪い訳ではなく、後醍醐にとってみれば尊氏側の強引な拡張解釈のように思える事例もあったかもしれません。
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「この下文も実質的には所領安堵状」(by 山田邦明氏)

2021-09-01 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 1日(水)10時00分30秒

私に古文書学の素養がないというのは謙遜でも何でもありませんが、建武二年九月二十七日に尊氏が発給した恩賞給付の袖判下文の分析をしなければ議論が進まないので、無理を承知で少しやってみることにします。

人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b

『南北朝遺文関東編第一巻』に記載されている同日付の文書七点のうち、対象の所領の範囲があまりに広大で奇妙な印象を与えるのは三浦高継宛下文です。
この下文の最後の方に「父介入道々海〔三浦時継〕跡本領」という表現があり、『太平記』によれば北条時行に加担した時継は敗北後に尾張熱田浦まで逃げたものの、結局は六条河原で処刑された人です。
とすると、この下文は三浦一族の分裂を反映しており、北条時行側に与した三浦一族の所領を高継に認めただけのように見えます。
この点、鈴木由美氏『中先代の乱』(中公新書、20121)の「時行方のその後」(p128以下)を手掛かりにして山田邦明氏が執筆された「元弘・建武の内乱と三浦氏」(『新横須賀市史通史編 自然・原始・古代・中世』、2012)を見たところ、次のような記述がありました。(p446)

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 三浦介時継はこのような悲劇的な最期を遂げるが、これで三浦介家が滅亡したわけではなかった。時継の子息の高継は、父と袂を分かって尊氏に従い、所領をそのまま安堵されていたのである。父の処刑からまもなくした九月二七日、三浦介高継は尊氏から所領安堵の下文をもらっていて、そこには「相模国大介職」と、三浦の内の三崎・松和・金田・菊名・網代・諸石名(いずれも三浦市)、さらには相模・上総・摂津・豊後・信濃・陸奥に広がっている多数の所領を「勲功の賞として充行う」と書かれている(Ⅱ-一五五一)。形式的には充行状のかたちをとっているが、列記した所領の末尾に「父介入道道海跡本領」と注記があるから、これらの所領は父親の時継(入道道海)が知行していたことは明白で、この下文も実質的には所領安堵状ということができる。「勲功の賞」と書かれているから、このたびの戦いにおいて高継は尊氏の軍勢に加わり、それなりの働きをあげたのだろう。北条時行の挙兵にあたっては三浦介家の内部で路線の対立があり、父の時継は時行に与したものの、子息の高継は尊氏に従って、結果的には家名と所領を守ることに成功したのである。しばらくあとの一〇月二三日、高継は鎌倉の鶴岡八幡宮に上総国真野郡椎津郷(千葉県市原市)内の田地一町を寄進して、現世の安穏と子孫の繁栄を祈願している(Ⅱ-一五五六)。
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ということで、三浦高継宛下文で対象の所領の範囲が摂津・豊後等にまで及び、『太平記』に言う「東八ヶ国の管領」とはかけ離れている点は、「この下文も実質的には所領安堵状」との説明で理解可能です。
なお、山田氏は触れておられませんが、尊氏が三浦高継に各地の所領と並んで「相模国大介職」を「領知」することを認めたということは、別に後醍醐の官職任命権を侵害したというような話ではなく、高継が三浦氏の新たな惣領となったことを承認しただけだろうと思われます。
さて、次に富樫高家宛下文の「加賀国守護職」の「領知」についてですが、今のところ私はこの問題を扱った文献を入手できていません。
そもそも富樫高家がどこで戦ったのかもよく分らないのですが、鈴木由美氏『中先代の乱』の詳細な「足利方(建武政権方)一覧」(p136以下)の中にも富樫高家は含まれていません。
ただ、鈴木著によれば、

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地方に広がる影響
 中先代の乱は地方にも影響を与えていた。
 中先代の乱と同時期、北国の名越時兼は越中・能登・加賀の軍勢を引き連れ三万余騎で京へ攻め込もうとしたところ、越前と加賀の境にある大聖寺(石川県加賀市)で討死したという(『太平記』)。建武二年十一月 日付高間行秀軍忠状に「今年<建武二>八月北国蜂起の間、凶徒誅罰のため発向せしめおわんぬ」とあり、八月二十八日に「北国闘乱」を鎮めるための祈祷が行なわれているから(『華頂要略』)、北国で戦乱のあったことは確認できる。
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とのことなので(p129以下)、富樫高家も「北国蜂起」「北国闘乱」に対処した可能性がありそうです。
とすると、尊氏が「北国蜂起」「北国闘乱」も中先代の乱と一連の騒動として自身が対処すべき対象と考え、そこで尊氏方に立って活躍した武士に恩賞を与える権限を有すると判断することはありそうです。
ということで、「加賀国守護職」の「加賀国」は一応の説明ができそうですが、「守護職」はどうなのか。
こちらは富樫氏に守護職が認められた初例とのことなので、「相模国大介職」のように富樫家の家督の地位云々との問題ではありえません。
しかし、これは桃崎有一郎氏が言われるように、「尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる」云々といった大袈裟な問題なのか。
桃崎氏は「天皇固有の守護任命権」とされますが、国司ならともかく、守護は源頼朝が創設した武家社会の制度であり、鎌倉時代はずっと征夷大将軍が任命していた職です。
とすると、建武の新政で後醍醐が守護制度を存続させ、自身が守護を任命するようになったのは、武家社会の人々にとってはどうにも落ち着きの悪さを感じさせる奇妙な「新儀」であったのではないかと想像されます。
ただ、この問題は尊氏が上杉憲房を上野守護に任じたという『梅松論』の記事を連想させるので、『梅松論』の当該記事の信頼性を含め、後で検討します。
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