学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」

2020-06-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月17日(水)10時53分33秒

正確な議論をしたいので、長村氏の見解を改めて確認しておきます。
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」の構成は、

-------
 はじめに
一 院宣と葉室光親
 1 院宣の様式
 2 院宣の命令内容と院宣発給を記す他の史料
二 官宣旨と葉室光親
 1 官宣旨と藤原定家本『公卿補任』
 2 後鳥羽院政期以前の院伝奏
三 葉室光親の死罪
 おわりに
-------

となっていますが、その冒頭を引用します。(p78)

-------
  はじめに

 承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽院が、京都守護として在京中の伊賀光季を討ち、さらに同日、鎌倉の執権北条義時の追討を命じた。史上有名な承久の乱の勃発である。この義時追討を命じた文書として、同日付「官宣旨(右弁官下文)案」の現存することが著名であり、『吾妻鏡』などの記述に見える「宣旨」はそれを指すと理解されている。その一方で、慈光寺本『承久記』には同日付「院宣」が引用されており、実はその他にも「院宣」が発給されたとする史料が存在する。従来は「官宣旨」のみに注目する論考が多かったが、近年では政治史史料として『慈光寺本』が注目されつつあり、「院宣」の使者の捕縛という半ば偶発的要素が乱の結果を左右したとする見解も提示されている。しかし、肝心の『慈光寺本』所引「院宣」自体を検討した研究や、「院宣」と「官宣旨」との関係を検討した研究は管見に入らない。
【中略】
 そこで本章では、承久三年五月十五日付の「院宣」が後鳥羽の発給院宣として妥当か否かを検討し、発給過程を中心に同日付「官宣旨」との関係を整合的に位置付けたい。その過程で葉室光親の死罪にも論及することになる。
-------

そして問題の「院宣」ですが、長村氏はご自身の翻刻について、注(7)で「東京大学史料編纂所架蔵転写本(請求記号2040.4-83)により、新日本古典文学大系の翻字の誤りや闕字を補訂した」とされているので、益田宗・久保田淳氏校注の『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)と読み比べてみたところ、翻字の誤りといっても、冒頭が新日本古典文学大系では「被院宣称」であるのに対し、長村氏は「被院宣偁」としているだけですね。
また、新日本古典文学大系では「聖断」と「叡襟」の前の闕字を省略しているようです。
ま、新日本古典文学大系もとりたてて正確性に欠ける訳ではありませんが、せっかくなので長村氏の翻刻を紹介します。(p79以下)

-------
史料1 慈光寺本『承久記』上─三二三頁
 又十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ、『秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣ベシ』トゾ仰下サル。秀康、宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。
  被院宣偁、故右大臣薨去後、家人等偏可仰 聖断之由令申。仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、思食之
  処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子息畢。
  然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威。論之政道、豈可然乎。仍自今以後、停止義時朝臣
  奉行、併可決 叡襟。若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。於殊功之輩者、可被加褒
  美也。宜令存此旨者、 院宣如此。悉之。以状。
   承久三年五月十五日 按察使光親<奉>
-------

読み下しと現代語訳については、坂田孝一氏によるものが参考になります。

「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)

>筆綾丸さん
>『百錬抄』の「義時朝臣已下本官に還任す」(六月十六日)

『百錬抄』の方は見ていなかったのですが、問題の院宣の「奉行」は将軍を補佐する役目との書き方をしていますから、素直に考えれば執権なのでしょうね。
この院宣では「奉行」を後鳥羽が自在に任免できることが前提となっていますが、国司と異なり、執権は朝廷の官職体系とは全く関係のない幕府内部の役職であり、天皇だろうが上皇だろうが、干渉できるような地位ではない、というのが幕府側の論理であり、常識だったはずです。
そして、その感覚は北条氏の専横に反発する御家人にも共有されていたはずです。
とすると、後鳥羽の院宣は、観念的には既に朝廷が幕府に対する強力な「コントロール」を及ぼしているのだ、という幕府側にとっては異常な認識の表明であり、そして戦争の勝利後には、仮に幕府を形式的に存続させようと、朝廷が強力な「コントロール」を及ぼすのだ、という方針の宣言ですね。
この文面を見て、後鳥羽の目的は義時を追討するだけだ、と思う人はよほどのお人好しではないかと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

過去形 2020/06/16(火) 19:59:43
小太郎さん
迂闊にも全く気が付かなかったのですが、仰る通り、過去形と考えれば、辻褄が合いますね。

追記
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122106.html
『百錬抄』の「義時朝臣已下本官に還任す」(六月十六日)により、義時は五月十五日に右京(権)大夫と陸奥守を解任されて奉行を停止させられた、と考えればいいのでしょうね。  
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「先学が具体的に後鳥羽のい... | トップ | 「奉行」の意味  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事