投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月 8日(月)12時09分51秒
北条政子は「鎌倉殿」なのかという問題は興味深いのですが、寄り道を始めると長くなりそうなので、今はやめておきます。
さて、田辺旬氏のお師匠さんらしい川合康氏の見解も気になりますが、『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)の「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」を見たところ、承久の乱に触れた部分は僅かですね。
しかし、後鳥羽の下に集まった武士たちの性格が院政期以降の歴史的経緯を踏まえて簡潔に整理されていて、実に見事な論文です。
この論文は、
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はじめに
一 院政期の武士社会と平氏権力
1 白河・鳥羽院政期の軍事貴族
2 保元・平治の乱
3 平治の乱後の国政運営と平清盛の動向
4 平氏権力の特質
二 治承・寿永の内乱と鎌倉幕府権力の形成
1 治承三年のクーデタと内乱の勃発
2 内乱の拡大と地域社会の動向
3 戦争の様相と民衆動員
4 内乱の展開と「源平合戦」の内実
5 鎌倉幕府権力の形成
三 公武協調体制と後鳥羽院政
1 奥州合戦と御家人制の整備
2 後鳥羽権力の特質
おわりに─承久の乱の歴史的意義
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と構成されていますが、最後の部分を少し引用します。(p92以下)
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おわりに─承久の乱の歴史的意義
承久三年(一二二一)に勃発した承久の乱は、かつては公武対立を自明視し、武家政権が貴族政権を圧倒する政治過程として評価されていた。しかし、鎌倉時代の朝廷と幕府は基本的に協調関係を維持しており、公武間に対立状況が生まれたのは、後鳥羽院と親密であった実朝が暗殺された建保七年(一二一九)正月から、承久の乱にいたる一時期にすぎない。近年では、後鳥羽権力が幕府権力を前提に形成されたことに注目して、院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが、こうした見解には、北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない。
本稿で述べたように、鎌倉幕府の御家人に対する一元的な指揮権と、源平諸流の軍事貴族に対する院・朝廷の指揮権は、互いに貫徹しようとすれば矛盾せざるをえず、この点に注目すれば、承久の乱は異質な武家社会の秩序に立脚する幕府権力と後鳥羽権力の衝突として位置づけられよう。乱後、幕府は、三上皇を「謀叛人」として処分し、王家領を没官して後高倉院に寄進するとともに、六波羅探題を設置して在京御家人の指揮にあたらせ、院御所の警固も御家人による大番役の対象とした。ここに、白河・鳥羽院政期以来の伝統的武士社会は解体されたのである。
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2013年の論文なので、「院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが」に付された注(73)には、
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(73) 河内祥輔「朝廷・幕府体制の諸相」『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、二〇〇七年(初出一九九一)、長村祥知「<承久の乱>像の変容」『文化史学』六八号、二〇一二年。
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とあるだけですね。
川合氏は「北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されて」いないことを義時追討説の欠点として挙げておられますが、田辺旬氏の、
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また、実朝暗殺後に将軍後継となった三寅は、鎌倉の義時邸の敷地内に新造された邸宅に居住しており、三寅の警固や供奉を管轄する小侍所の別当には義時子息の重時が就いている。三寅は、義時の保護下に置かれていたのである。そもそも義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しいといえよう。
後鳥羽院は、鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵したのであり、近年の院の挙兵目的は討幕ではなかったとする見解には賛同できない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd9588cbe7b76610f5b943ea1ea30202
という記述は川合氏の上記見解に対応しているのかもしれません。
さて、川合氏が指摘される「義時追討後も幕府が存続しうる条件」は、言い換えれば、義時追討後の戦後構想の問題ですね。
坂井著を読んだときに私が一番不満に感じたのは、仮に後鳥羽が戦争に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想に坂井氏が全く触れていないことでした。
「北条義時追討説への若干の疑問」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec5e9c47c9c9a0994709fd7a2b74bd3
そして野口実氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)の諸論文にも、この点への言及はありません。
そこで、素人ながら私が蛮勇を振るって、義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を用いて、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」ないし後鳥羽の戦後構想を少し考えてみたいと思います。
なお、坂井孝一氏も『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)所収の「中世前期の文化」では「承久三年(一二二一)、討幕を図って挙兵した後鳥羽院が幕府軍に敗れた承久の乱」(p290)と書かれていて、義時追討説に宗旨替えしたのはつい最近のようですね。
北条政子は「鎌倉殿」なのかという問題は興味深いのですが、寄り道を始めると長くなりそうなので、今はやめておきます。
さて、田辺旬氏のお師匠さんらしい川合康氏の見解も気になりますが、『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)の「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」を見たところ、承久の乱に触れた部分は僅かですね。
しかし、後鳥羽の下に集まった武士たちの性格が院政期以降の歴史的経緯を踏まえて簡潔に整理されていて、実に見事な論文です。
この論文は、
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はじめに
一 院政期の武士社会と平氏権力
1 白河・鳥羽院政期の軍事貴族
2 保元・平治の乱
3 平治の乱後の国政運営と平清盛の動向
4 平氏権力の特質
二 治承・寿永の内乱と鎌倉幕府権力の形成
1 治承三年のクーデタと内乱の勃発
2 内乱の拡大と地域社会の動向
3 戦争の様相と民衆動員
4 内乱の展開と「源平合戦」の内実
5 鎌倉幕府権力の形成
三 公武協調体制と後鳥羽院政
1 奥州合戦と御家人制の整備
2 後鳥羽権力の特質
おわりに─承久の乱の歴史的意義
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と構成されていますが、最後の部分を少し引用します。(p92以下)
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おわりに─承久の乱の歴史的意義
承久三年(一二二一)に勃発した承久の乱は、かつては公武対立を自明視し、武家政権が貴族政権を圧倒する政治過程として評価されていた。しかし、鎌倉時代の朝廷と幕府は基本的に協調関係を維持しており、公武間に対立状況が生まれたのは、後鳥羽院と親密であった実朝が暗殺された建保七年(一二一九)正月から、承久の乱にいたる一時期にすぎない。近年では、後鳥羽権力が幕府権力を前提に形成されたことに注目して、院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが、こうした見解には、北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない。
本稿で述べたように、鎌倉幕府の御家人に対する一元的な指揮権と、源平諸流の軍事貴族に対する院・朝廷の指揮権は、互いに貫徹しようとすれば矛盾せざるをえず、この点に注目すれば、承久の乱は異質な武家社会の秩序に立脚する幕府権力と後鳥羽権力の衝突として位置づけられよう。乱後、幕府は、三上皇を「謀叛人」として処分し、王家領を没官して後高倉院に寄進するとともに、六波羅探題を設置して在京御家人の指揮にあたらせ、院御所の警固も御家人による大番役の対象とした。ここに、白河・鳥羽院政期以来の伝統的武士社会は解体されたのである。
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2013年の論文なので、「院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが」に付された注(73)には、
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(73) 河内祥輔「朝廷・幕府体制の諸相」『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、二〇〇七年(初出一九九一)、長村祥知「<承久の乱>像の変容」『文化史学』六八号、二〇一二年。
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とあるだけですね。
川合氏は「北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されて」いないことを義時追討説の欠点として挙げておられますが、田辺旬氏の、
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また、実朝暗殺後に将軍後継となった三寅は、鎌倉の義時邸の敷地内に新造された邸宅に居住しており、三寅の警固や供奉を管轄する小侍所の別当には義時子息の重時が就いている。三寅は、義時の保護下に置かれていたのである。そもそも義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しいといえよう。
後鳥羽院は、鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵したのであり、近年の院の挙兵目的は討幕ではなかったとする見解には賛同できない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd9588cbe7b76610f5b943ea1ea30202
という記述は川合氏の上記見解に対応しているのかもしれません。
さて、川合氏が指摘される「義時追討後も幕府が存続しうる条件」は、言い換えれば、義時追討後の戦後構想の問題ですね。
坂井著を読んだときに私が一番不満に感じたのは、仮に後鳥羽が戦争に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想に坂井氏が全く触れていないことでした。
「北条義時追討説への若干の疑問」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ec5e9c47c9c9a0994709fd7a2b74bd3
そして野口実氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)の諸論文にも、この点への言及はありません。
そこで、素人ながら私が蛮勇を振るって、義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を用いて、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」ないし後鳥羽の戦後構想を少し考えてみたいと思います。
なお、坂井孝一氏も『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)所収の「中世前期の文化」では「承久三年(一二二一)、討幕を図って挙兵した後鳥羽院が幕府軍に敗れた承久の乱」(p290)と書かれていて、義時追討説に宗旨替えしたのはつい最近のようですね。
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