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「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」(by 本郷和人氏)

2021-09-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月30日(木)10時36分57秒

東京大学教授・高橋典幸氏は承久の乱が幕府の完全勝利に終わり、三上皇配流・今上帝廃位以下の厳しい戦後処理がなされたとしても、「これによって朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」と言われる訳ですが、この見解に対しては、チコちゃん(五歳)でも次のような疑問を感じるのではないかと思います。
即ち、高橋氏は、一体どれほどの措置が行われたら「朝幕関係が一変」すると考えるのだろうか、と。
正直、高橋氏の見解には「ボーっと生きてんじゃねーよ」という感想しか浮かんでこないのですが、高橋氏と並んで鎌倉時代史研究をリードする立教大学教授・佐藤雄基氏も、「鎌倉幕府政治史三段階論から鎌倉時代史二段階論へ:日本史探究・佐藤進一・公武関係」(『史苑』81巻2号、2021)において、

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第三章、鎌倉時代史「二段階論」の可能性
 第一節、寛元・宝治の画期論

 公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考えるとき、誰しも想起するのは承久の乱(一二二一年)で二分する考え方であろう。現在に至る日本の通史像に影響を及ぼした新井白石『読史余論』(一七一二年)は、武家の世の「五変」として、源頼朝による鎌倉幕府の成立を第一の変とし、北条氏の政治を第二の「変」として位置づけていた。建武三年(一三三六)成立の「建武式目」が「鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し」たと語るように、二段階で鎌倉幕府の成立を捉える見方は中世人にも共有され、現在の研究者にもみられる幕府成立像であり、後鳥羽院政期までを院政期とする議論や、承久の乱を「山城時代」と「北条時代」を画する日本史上の転換点とする保立道久の議論も生まれている。【後略】
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とした上で、結局は「公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考え」たとしても、承久の乱より重要な画期があり、それは寛元 ・宝治期だとされます。

https://researchmap.jp/read0142021/published_papers
(※PDFで読めます)

しかし、マックス・ウェーバーの古典的議論を参照するまでもなく、国家にとって最も本質的なのは暴力装置であり、「公武関係を軸に鎌倉時代の区分を考え」る場合、やはり承久の乱が最も重要な画期だと考えるのが自然です。
この点、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)の「第2章 承久の乱の史的位置」における次のような議論が参考になります。(p44以下)

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(2)朝廷の敗北と武力の蜂起
 (Ⅰ)武力放棄の院宣

 建保元(一二一三)年八月、山門末の清閑寺と清水寺の境争論は緊迫の度を深めていた。山僧数百名は洛中に陣を張り、軍事衝突は必至とみえた。後鳥羽上皇はこの事態を重く視、源頼茂・藤原秀能・大内惟信らを派遣した。彼らは軍勢を率いて係争地へ赴き、双方の悪僧多数を討ち、紛争を徹底的に弾圧している。
 ここで注目すべきは、幕府御家人の大内惟信であろう。【中略】つまり惟信は御家人でありながら、直接上皇の命をうけて動いていることになる。
 この時期、惟信のみならず、多くの有力な西国御家人が、西面の武士として上皇に仕えている。これに対し幕府は、本章(1)でも述べたように「至廷尉事者候西面之間、為仙洞御計歟、不及関東御沙汰」と、御家人と上皇との結びつきに干渉できなくなっていた。彼らは上皇の意を奉じて南都北嶺への抑えとなり、朝廷の守護にあたっている。そして承久の乱に際しても、その大半はそのまま京方に与している。
 しかし乱後、状況は一変する。六波羅探題が設けられるや京での軍事力は両探題に独占され、朝廷・京洛の守護は幕府に一任されることになる。それと並行して検非違使も軍事的機能を喪失し、囚人の禁獄すらできぬまでに弱体化する。朝廷の暴力装置として残されたのは馬部や駕与丁のみであり、このため篝屋役の廃止がいわれると、貴族から不平が述べられる始末であった。むろん、朝廷や廷臣が従者の礼をとる武士を駆使し、軍事活動の主体となっている例などみることがはできない。
 この急激な変化は、一体何によってもたらされたのか。広くいえば承久の乱の結果であることは言うを俟たないが、私はここで、乱の終結時に発されたという一通の院宣に注目したい。関東の大軍を率いて四辻の上皇の御所に迫った北条泰時に宛てられたそれは、次のようなものであった。

  秀康朝臣胤義以下徒党可令追討之由宣下既了、……凡天下之事於于今者雖不及御口入、
  御存知趣争不仰知乎、就凶徒浮言既及此御沙汰、後悔不能左右、……於自今以後者携
  武勇輩者不可召仕、又不稟家好武芸者永可被停止也、如此故自然及御大事由有御覚知
  者也、悔先非被仰也、御気色如此、仍執達如件、
     六月十五日       権中納言定高
   武蔵守殿

 いまだ治天の座に在った後鳥羽上皇は、ここで乱の原因を「凶徒」の介在に求め、二度と武勇を旨とする者を召し使わない、すなわち、武力を保有しないことを、幕府に対して誓っているわけである。
 奉者、文書の形式、言葉づかい等に格別の難点は見あたらないが、この院宣はあるいは後世の創作かもしれない。また真の院宣としても、これを直ちに変化の淵源とすることは妥当でないかもしれない。しかし乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない。乱の再発を警戒する幕府の監視のもと、朝廷はかつてのような強力な軍事力を行使することができなくなっている。この意味で本書では、この院宣を、重大な転換を示す象徴として位置づけておきたい。
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