学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

吉井功兒著『建武政権期の国司と守護』(その1)

2021-09-12 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月12日(日)10時52分55秒

それでは吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)を見て行きます。
念のため書いておくと、同書は三十年近く前の著作なので最新の研究成果に反する記述も多々あり、後述するように信濃国についても重大な誤解があります。
ただ、「建武政権期の国司と守護」の全体像を描く最新の著作はまだ現れていないので、この時期の信濃の状況を概観するために参考にさせてもらいます。(p69以下)

-------
信濃国
 建仁三年(一二〇三)九月、当国守護比企能員が滅び、北条義時が当職を獲得してより、当職は義時子息重時の系統が相伝、幕末の守護は六波羅北方探題北条仲時だった。弘安七年(一二八四)に当国は興福寺造営料国だったが、鎌倉後期の当国知行国主が久我家嫡流だったとの推論がある。
 新政期における当国国司の初徴は、元弘三年八月三日信濃国宣(市河文書)である。信濃国人市河助房に対し、同年七月廿日官宣旨(いわゆる七月令)に任せて、某左兵衛督致治が当知行安堵の国宣を執達している。右国宣の書止は"者依 国宣執達如件"とあり、致治が当国国務管掌者ないし国務管掌国司の家司の立場にあった事が判る。奉者致治の地位の高さ(従五位上相当)から、彼の主人がかなり高官の公卿だった蓋然性を示唆する。新政府の新国司人事は同年八月以降に集中的に行われているが、致治の主人たる当国国務管掌者は、同年七月二十五日以前からその地位にあったように思われる。森茂暁氏は、元弘三年七月六日大徳寺開山宗峰妙超(大燈国師。同寺は正中二年=一三二五=に後醍醐の祈願所となる)充護良親王令旨(真珠庵文書)に拠り、該時、護良が信濃知行国主の地位にあった事を推論された。護良は、同年八月末には征夷大将軍職を剥奪されており(紀伊国項参照)、彼の当国での権限は短期間で終わったらしい。彼が新政当時の当国国務管掌者なら、護良家司の四条隆貞あたりが信濃守で、某到治も護良家人だった可能性がある。森氏の推論を採りたい。
-------

いったん、ここで切ります。
「某左兵衛督致治」に付された注(135)を見ると、

-------
(135)『信濃史料』第五巻(’54)215頁に載る同信濃国宣の釈文は、奉者を左兵衛佐〔すけ〕致治とするが、相田二郎氏に拠れば(同『日本の古文書』下=’54=198頁)、左兵衛督〔かみ〕致治が正しいようである。
-------

とあります。
また、「該時、護良が信濃知行国主の地位にあった事を推論された」に付された注(136)を見ると、これは森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」(小川信編『中世古文書の世界』所収、吉川弘文館、1991)という論文ですね。
森論文には、後醍醐と護良親王の関係について、

-------
 さて、両者のこのような関係は幕府の滅亡後どのようになるのだろうか。「綸旨」という文字を文中にふくむ、次の二通の護良親王令旨をみよう。

①信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
    元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
  宗峰上人御房
②紀伊国且[〔来庄〕]、任 綸旨、可被[  ]者、依 将軍家[〔仰カ〕  ]如件、
    元弘三年七月十三[〔日〕]      [    ]
  主税頭殿

 右の二通の令旨はいずれも後醍醐天皇綸旨を施行したものであって、発給者同士の関係は発令─施行の安定した様相を呈している。日付の接近した両令旨は、元弘三年の時点で、後醍醐と護良の政務上の関係が一時的ではあれ調整・修復されていたことを示すものではあるまいか。
 信濃国伴野庄と紀伊国且来(あつそ)荘の知行にかかる綸旨を施行した護良の立場も当然考慮されなければならない。①は、唯一の信濃国関係、しかも大徳寺領荘園にかかる令旨である点に大きな特色がある。②は、当時護良が知行国主であった紀伊国に関しての令旨である。綸旨の施行がもしその権限にもとづくものであるとすれば、①の信濃国についても同様のことがいえるのではあるまいか。ともあれ、元弘三年七月の時点で、護良が東国方面にまで支配権を及ぼしていたとみられる点は注目に値しよう。
-------

とあります。(p208以下)
吉井氏は注(136)において、森論文を紹介された後、

-------
ただ、元弘三年七月廿五日官宣旨案に対応して同年八月三日に信濃国宣を執達せる某致治が護良親王令旨発給の奉者として一切見えない事(当注A森論文所引)および令旨イ奉者の名が不明である事を考えると、護良信濃知行国主説に一抹の不安もあるが、今は森説に従いたい。
-------

としていますが(p237)、「某致治」が四条隆貞より一段下のレベルの家人と考えれば「護良親王令旨発給の奉者として一切見えない事」は別に不思議ではなく、また「令旨イ」(森論文の②)の「奉者の名が不明である事」は単に史料の汚損・虫食いで名前が読めないだけで、おそらく四条隆貞や「某定恒(左少将)」、中院定平あたりの名前が書かれていたでしょうから、私は「護良信濃知行国主説に一抹の不安」は感じません。

平田俊春「四條隆資父子と南朝」
http://web.archive.org/web/20130212213433/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hirata-toshiharu-sijotakasuke.htm

結局、建武の新政の初期、護良親王が信濃国の知行国主であったとする森茂暁説は信頼に値すると私は考えます。
ただ、私自身は護良親王について一般的な理解とは相当に異なる見方をしており、五月七日の六波羅陥落直後に「将軍宮」を称し始めた護良は、別に「自称」ではなく正式に後醍醐の了解を得て征夷大将軍に任官し、また、九月上旬に「将軍宮」を使用しなくなった理由も、別に後醍醐から一方的に「解任」されたのではなく、後醍醐と合意した上での辞任の可能性もあると思っています。

四月初めの中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/929b03c5eaf5f936ea38589ab4530ffd
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

従って、私見では吉井氏のように「護良は、同年八月末には征夷大将軍職を剥奪されており(紀伊国項参照)、彼の当国での権限は短期間で終わったらしい」と考える必要はないのですが、しかし、九月以降に護良が信濃の知行国主であることを示す史料が存在しないのも事実です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする