学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その3)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)12時24分7秒

『皇子たちの南北朝』から『足利尊氏』に戻って、続きです。(p97以下)

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 このときすでに護良は、正式に「征夷大将軍」に任命されていた。②の護良親王令旨が「依将軍家仰、執達如件」と書き止められているのはそのことを証している。護良は「征夷大将軍」のポストを獲得して、武家社会を自らの手で統括しようと考えていたものらしい。尊氏がこのポストを欲しがったのも当然のことである。いずれにせよ、両人が志向する権力の性格から考えると、両者が早晩対立関係に陥り、やがて勝負をかけて対決することは火をみるより明らかであったろう。
 なお、現在約八〇〇点ほど収集することのできる後醍醐天皇綸旨のなかで、誅伐の対象となる以前の段階で尊氏の名前がみえるのは唯一右掲の①のみであること、護良親王の権勢は②の段階ではいまだ衰えていなかったこと、を付言しておきたい。
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いったん、ここで切ります。
森氏が「正式に」と書かれるのは、「将軍宮」と表記する護良関係の文書が既に六波羅陥落の直後から見られるためで、森氏を含め、通説(定説)はこれを護良が征夷大将軍を「自称」したものとしています。

四月初めの中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/929b03c5eaf5f936ea38589ab4530ffd
「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4778a51527604447c0e933ebcdadfbbb

さて、続きです。(p98)

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 護良親王の失脚は前項「後醍醐天皇との関係」でのべたように、すぐれて謀略的なものであった。その意味で、護良は政治的な罠にはまったともいえる。尊氏との関係でいえば、護良の存在とその政治的動向は、源氏の棟梁としてかつ武家社会の棟梁として武家社会のトップの座にいた尊氏にとって目障りなものであったに相違ない。目障りは排除するに越したことはない。護良が後醍醐に扇動されて尊氏追討の兵をあげて失敗した事件をとらえて尊氏は強力な政敵=護良を失脚させるのに成功したのである。
 ちなみに、このとき、尊氏が後醍醐天皇の寵妃阿野廉子の後援を得られたことは幸運であった。『保暦間記』には「御子成良親王ハ本ヨリ尊氏養ヒ進セタリケレバ、東宮ニ立テ奉リケリ」という記事がみえ、これによると尊氏は成良親王(建武二年には数え一〇歳)の乳父〔めのと〕だったことになる。となると成良の母廉子はおそらく継子護良との競合関係からも尊氏を支援する立場に立ったろう。廉子は後醍醐の寵妃であっただけに、後醍醐と尊氏の関係をうまく取りはからったに相違ない。ふりかえれば、元弘元年一二月成良が数ある皇子のなかで鎌倉府の主帥〔しゅすい〕に選ばれたのも、こうした成良と足利氏との由縁によろう。
-------

うーむ。
「元弘元年一二月成良が数ある皇子のなかで鎌倉府の主帥に選ばれた」とありますが、それは元弘元年ではなく元弘三年(1333)の出来事です。
ちなみに「主帥」は、少なくとも中世史では史料用語としても講学上の分析概念としてもあまり聞かれない表現で、成良親王の地位をどのように呼ぶかに苦慮した森氏が考案した独自の表現のようですね。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

ま、それはともかく、「後醍醐に扇動されて」は、

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宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座有りけるが、「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」と御独言有りけるとぞ承る。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

という『梅松論』にしか存在しないエピソードに依拠しており、森氏が「『梅松論』史観」の徒であることが分かります。
また、森氏は「寵妃阿野廉子」の影響力を極めて重視されますが、阿野廉子の役割を『太平記』以外の信頼できる史料で裏付けることは可能なのか。
まあ、それが無理であることは研究者の常識では、と私は思っていました。
更に『保暦間記』の記述から、森氏が「尊氏は成良親王(建武二年には数え一〇歳)の乳父だったことになる」と断定されるのは本当に馬鹿げていますね。
鎌倉に居住していた幕府御家人の尊氏が成良親王の「乳父」になれるはずがありません。
ということで、緻密な古文書分析に定評のある森茂暁氏が、この短い叙述の中で、建武新政期の基本認識については自身が「『太平記』史観」・「『梅松論』史観」の徒であるばかりか、信頼性の点では『太平記』に劣るとも勝らない『保暦間記』を妄信する「『保暦間記』史観」の徒でもあることを自白されている訳で、ちょっと吃驚ですね。
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信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その2)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)10時36分52秒

以前、『足利尊氏』を通読したときは「丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札」云々の記述の奇妙さに気づかなかったのですが、今回、なんじゃこりゃ、と思って『鎌倉遺文』を見たところ、問題の文書は、

-------
   〇三二三〇八 某禁制<〇丹後金剛院蔵>
(木札)
    禁制
     丹後国志楽庄内鹿原山
 (花押)
     金剛院美福門院御願所

    右、到于当庄内地頭下司以下人々等
    任自由、彼寺山木切取輩、背
    勅制歟、然者、可処重科之状如件、
      元弘三年六月 日
-------

というものでした。
金剛院は丹波ではなく、丹後の寺院ですね。

金剛院 (舞鶴市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E9%99%A2_(%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82)

さて、この制札を見ても、何故にこの制札から「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」できるのか分かりませんが、たぶんこの花押が護良右筆の「某定恒」のもので、森茂暁氏は「護良は当時【丹後】国の知行国主の地位にあったのではないかと推測」されたのだろうと推測できます。
そこで『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)を見たところ、次の記述がありました。(p50以下)

-------
 定恒については、いま一つ注目すべき史料がある。丹後国志楽〔しらく〕荘内鹿原〔かはら〕山(現在京都府舞鶴市字鹿原)の真言宗寺院金剛院に所蔵される、元弘三年六月日禁制木札である。
 この木札は本書で初めて紹介するものではなく、たとえば昭和六十一年に京都国立博物館で、「丹後・金剛院の仏像」と銘打った特別陳列が開催された際に作成された図録には、写真と読み本および簡単な説明が付されている。しかしそこにはこの禁制を発した者に関する言及はない。ちなみに、縦長の将棋の駒のような形をしたこの木札の寸法は、底辺二五・五センチ、頂点までの高さ四六・二センチ、左右の側辺三九・五センチである。
 この禁制は美福門院(鳥羽院の皇后藤原得子)の祈願所である金剛院のために、同院の所在する志楽荘内に地頭・下司以下がはいりこみ、勝手に寺の山木を切り取ることを「勅制に背く」として禁止、犯過人を重科に処すことを布告したものである。注目すべきは、七行にわたって墨書された文面の真上中央にすえられた一つの大きな花押が、まごうことなく護良親王側近の一人、定恒のそれであることである。禁制木札の花押の主〔ぬし〕定恒の立場を、いかに考えるかはいくとおりかあろうが、さきの隆貞の例を参考にすれば、あるいは定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない。
 この禁制木札がかかげられた元弘三年六月は、護良が意気揚々と入京した月で、いわば護良勢力の絶頂期にあたっていた。その木札のかしらにすえられた堂々とした定恒の花押は、主君護良をうしろ楯にした定恒の威勢をうかがわせている。
 以上のように、丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる。京都に近いこれらの国々の知行を完全委任された護良が、都の動静に重大な影響力をもったことは明らかであろう。
-------

うーむ。
この記述を読むと、確かに森氏が「定恒は丹後国の国司(あるいは守護)の立場にいたのではあるまいか。もしそうであれば、同国の知行国主も、護良であった可能性が高いといわねばならない」、「丹後を護良の知行国と考えるなら、護良は和泉・紀伊に丹後を加えて、三ヵ国の国主権を保持したことになる」と推測されることは理解できます。
しかし、森氏はこの禁制木札の例から、「右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない」とされる訳で、ここには若干の論理の飛躍がありそうです。
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信濃国伴野庄に関する二つの古文書(その1)

2021-09-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月13日(月)09時09分32秒

吉井著の紹介を始めたばかりですが、建武の新政が始まったばかりの時期、護良親王が信濃国の知行国主だったとすると、尊氏との関係でそれなりに興味深い文書があります。
ま、私のように当初は尊氏と護良は格別仲が悪かった訳でもないのでは、と考える立場からすれば別にどうということのない文書なのですが、護良の信貴山立て籠りを史実と考える通説、というか不動の定説に拠る研究者にとってはなかなかの難問を惹起する文書です。
そこで、そのような立場の代表格である森茂暁氏の苦悩を知るため、『足利尊氏』(角川選書、2017)から少し引用します。
まずは前提として、尊氏・護良の基本的関係についてです。(p95以下)

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護良親王との関係
 鎌倉幕府を倒壊に導いた元弘の乱の殊勲者は先に述べた尊氏ばかりではない。むしろ最有力クラスの鎌倉御家人であった尊氏が後醍醐側に転身した最大のきっかけをつくったのは、尊氏の転身以前から地道な討幕活動をリードしていた護良であったことはいうまでもない。その点では護良が同じ討幕の殊勲者としては尊氏の先輩格の立場にいた。その様子は前述したように、『保暦間記』(『群書類従二六』所収)が「(護良は)元弘ノ乱ヲモ宗ト御張本有シゾカシ」と描くとおりである。
 尊氏と護良との対立は、元弘三年六月五日に後醍醐天皇が二条富小路の内裏に還幸して天下が静謐に帰したのちも、護良は容易に入京しようとしなかったところからすでに表面化していた。『太平記一二』によると、護良は大和の信貴山に拠って尊氏の排除を要請したという。さらに同書によると、この護良の独走に困惑した後醍醐は、右大弁宰相坊門清忠を勅使として護良のもとに派遣し、「世已〔すで〕ニ静謐ノ上ハ急ギ剃髪・染衣ノスガタニ帰リテ、門跡相続ノ業ヲ事ト給ベシ」と再び仏門に戻ることをすすめたが護良は承伏せず、結局、同十三日に護良の将軍宣下を了承するかわりに尊氏誅伐の企てをすてるという条件をのませて、護良の平和裡での入京を実現させた。このように公家一統政府が成立した直後から、尊氏と護良との間は波瀾ぶくみで、早晩のっぴきならぬ険悪な状況が到来することは誰の目にも明らかであった。
-------

このように森茂暁氏は『太平記』十二巻の「二者択一パターンエピソード」を完全に史実と考える立場です。
そして、森氏は西源院本を用いておられるので(p26)、護良の帰洛は六月十三日とされていますが、西源院本によれば、もともと護良の帰洛は十三日と予定されていたものの、護良が尊氏討伐と征夷大将軍任官を後醍醐に要求し、尊氏討伐など絶対不可とする後醍醐との間で坊門清忠を介しての交渉が続いて、結局、護良は征夷大将軍任官だけで納得して帰洛したことになっています。
ただ、極めて奇妙なのは、後醍醐・護良間の交渉が本当に存在したのならば、護良の帰洛は当初予定の十三日より相当「延引」されるはずなのに、何故か西源院本では当初予定通りの十三日に帰洛しています。
この点、明らかに不合理なので佐藤進一氏は流布本の六月二十三日帰洛説を取っていますね。

四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeac37a77f5bef1dc46ab4fab0e07184

ま、それはともかく、肝心の文書は次に出てきます。(p96以下)

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 両人の関係を考える上で興味深い史料がある。まず関係史料をあげよう。

  ①信濃国伴野庄事、先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了、小宅三職事、去々年当知
   行之上者、不及被下 綸旨、所務不可有子細歟之由、被仰下候也、仍執達如件、
      七月三日    中納言(草名)
    宗峯上人御房
  ②信濃国伴野庄、任綸旨、管領不可有相違者、依 将軍家御仰、執達如件、
      元弘三年七月六日          左少将〔四条隆貞〕(花押)
    宗峯上人御房

 ①は、大徳寺の宗峯妙超にあてて信濃国伴野荘ならびに播磨小宅〔おやけ〕三職を安堵するという内容の後醍醐天皇綸旨(『大徳寺文書一』七三頁)、また②は、同荘を綸旨に任せて妙超に安堵した大塔宮護良親王令旨(『大徳寺文書別集 真珠庵文書七』一五九頁)である。文書の役割のうえでは、まず①が出て、これを施行したのが②であるという関係である。問題となるのは信濃国伴野荘に関わることであるが、①に「先御寄附寺家之由、被仰高氏朝臣候了」とあるところからみると、後醍醐は信濃国伴野荘を大徳寺に寄附したことをまず尊氏に申し伝えていることが知られる。ここに尊氏の名が登場するのは尊氏が信濃国に一定の影響力を及ぼしていたからであろう。しかも①の伴野荘の部分は②によって施行されているから護良もまた信濃国に公的権限を有していなくてはならない。筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが(中公文庫『皇子たちの南北朝』六六頁)、右のように考えると、尊氏もまた同時期信濃国に対して何らかの公的な権限をもっていたのかもしれない。
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いったん、ここで切ります。
この部分、一箇所、極めて不可解な記述があって、それは「筆者はかつて、丹波国金剛院所蔵の元弘三年六月日某定恒禁制木札(『鎌倉遺文四一』三二三〇八号)によって、護良は当時信濃国の知行国主の地位にあったのではないかと推測したことがあるが」ですね。
丹波国に護良親王右筆の「某定恒」が書いた禁制木札が存在することから、どうして「護良は当時信濃国の知行国主の地位にあった」と推測できるのか。
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