投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月18日(土)14時15分51秒
「序章」の征夷大将軍に関する記述は「終章」の最後の最後、「あとがき」の直前に置かれた次の記述に対応していて、これが鈴木由美氏にとって長年の北条時行研究の到達点ですね。(p190)
-------
源頼朝の再来として
北条時行や彼を担ぐ者たちが当初目指したのは、鎌倉幕府と北条氏の再興であっただろう。北条氏が執権となり、持明院統の親王を将軍にいただく、鎌倉時代後期の体制をとった鎌倉幕府の復活を目的としていたと考える。中先代の乱で占領下にあった鎌倉で発給された文書の形式が得宗家公文所奉書に類似していたことから、北条時行自身が鎌倉幕府の将軍になるという発想はなかったことがわかる。
中先代の乱に敗れた後、時行や北条一族の目的は打倒足利氏にシフトしたものと考えられる。足利氏が接近し担いだ持明院統と再び手を組むことは不可能であるからだ。時行たちに、南朝のもとで鎌倉幕府を再興するという明確な意図があったかどうかはわからない。
一方、時行や尊氏の支持基盤である武士たちは、親王将軍を仰いで執権北条氏が権力を握る体制ではなく、尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めたのではないか。そのため時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱は、頼朝の再来である尊氏の勝利に終わったともいえるだろう。
-------
私自身は「時行や尊氏の支持基盤である武士たち」が「尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めた」のではなく、むしろ南北朝の対立の中で、足利氏の軍事力が全国を制圧するほど圧倒的に強大ではなく、また足利氏が依拠する北朝に南朝を凌駕するほどの権威がなかったために、足利氏側には「支配の正統性」を補強する必要が生じ、その補強策のひとつとして「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダが生まれたものと考えています。
つまり、「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは足利家が考案し、展開させたもので、一般の武士はプロパガンダの単なる受容者という考え方です。
山家浩樹氏は『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リプレット、2018)において、足利氏が「支配の正統性」補強のために考案した様々なプロパガンダを丹念に拾い集めておられますが、その中には例の家時置文のようにロクに世間に広まらなかった失敗例もあります。
「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは、足利家が考案した複数のプロパガンダの中では最も成功したケースであり、しかも『太平記』という当時最強のメディアによって、足利家の統制を離れて異常に拡大され、結果的に『太平記』によって、征夷大将軍という存在が極めて重いものだ、という認識が普及することになった、というのが現時点での私の見通しです。
山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8a490f48853111af52b74ef418ccbd
私はこのように考えるので、建武二年(1335)八月、「時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱」の時点では「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想自体が生まれておらず、それはもう少し先、尊氏が北朝から征夷大将軍に任官された建武五年(暦応元、1338)八月までの間のいずれかの時点に生まれたものと想定しています。
中先代の乱では、僅か二年前に親兄弟・一族・友人・知人を皆殺しにされて復讐の念に燃える時行側にとって、尊氏は絶対に許すことのできない卑劣な裏切り者です。
従って、共に天を戴くことのできない仇敵同士の両者の間には「鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰」などといったのんびりした情緒が介在する余地は全くなく、実力で相手を粉砕・殲滅する以外選択肢がない殺伐とした世界だったと私は考えます。
総じて鈴木著は「支配の正統性」に関する理論的考察が弱く、それは鈴木著が大きく依拠している『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)等の細川重男氏の著作でも同様なので、必要に応じて細川著への批判も少し行う予定です。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「書評会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ae96ccb2823387e39cc2c6ef107347a
「序章」の征夷大将軍に関する記述は「終章」の最後の最後、「あとがき」の直前に置かれた次の記述に対応していて、これが鈴木由美氏にとって長年の北条時行研究の到達点ですね。(p190)
-------
源頼朝の再来として
北条時行や彼を担ぐ者たちが当初目指したのは、鎌倉幕府と北条氏の再興であっただろう。北条氏が執権となり、持明院統の親王を将軍にいただく、鎌倉時代後期の体制をとった鎌倉幕府の復活を目的としていたと考える。中先代の乱で占領下にあった鎌倉で発給された文書の形式が得宗家公文所奉書に類似していたことから、北条時行自身が鎌倉幕府の将軍になるという発想はなかったことがわかる。
中先代の乱に敗れた後、時行や北条一族の目的は打倒足利氏にシフトしたものと考えられる。足利氏が接近し担いだ持明院統と再び手を組むことは不可能であるからだ。時行たちに、南朝のもとで鎌倉幕府を再興するという明確な意図があったかどうかはわからない。
一方、時行や尊氏の支持基盤である武士たちは、親王将軍を仰いで執権北条氏が権力を握る体制ではなく、尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めたのではないか。そのため時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱は、頼朝の再来である尊氏の勝利に終わったともいえるだろう。
-------
私自身は「時行や尊氏の支持基盤である武士たち」が「尊氏を源頼朝になぞらえることで、鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰を求めた」のではなく、むしろ南北朝の対立の中で、足利氏の軍事力が全国を制圧するほど圧倒的に強大ではなく、また足利氏が依拠する北朝に南朝を凌駕するほどの権威がなかったために、足利氏側には「支配の正統性」を補強する必要が生じ、その補強策のひとつとして「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダが生まれたものと考えています。
つまり、「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは足利家が考案し、展開させたもので、一般の武士はプロパガンダの単なる受容者という考え方です。
山家浩樹氏は『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リプレット、2018)において、足利氏が「支配の正統性」補強のために考案した様々なプロパガンダを丹念に拾い集めておられますが、その中には例の家時置文のようにロクに世間に広まらなかった失敗例もあります。
「尊氏を源頼朝になぞらえる」プロパガンダは、足利家が考案した複数のプロパガンダの中では最も成功したケースであり、しかも『太平記』という当時最強のメディアによって、足利家の統制を離れて異常に拡大され、結果的に『太平記』によって、征夷大将軍という存在が極めて重いものだ、という認識が普及することになった、というのが現時点での私の見通しです。
山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8a490f48853111af52b74ef418ccbd
私はこのように考えるので、建武二年(1335)八月、「時行と尊氏の直接対決となった中先代の乱」の時点では「尊氏を源頼朝になぞらえる」・「頼朝の再来である尊氏」といった発想自体が生まれておらず、それはもう少し先、尊氏が北朝から征夷大将軍に任官された建武五年(暦応元、1338)八月までの間のいずれかの時点に生まれたものと想定しています。
中先代の乱では、僅か二年前に親兄弟・一族・友人・知人を皆殺しにされて復讐の念に燃える時行側にとって、尊氏は絶対に許すことのできない卑劣な裏切り者です。
従って、共に天を戴くことのできない仇敵同士の両者の間には「鎌倉幕府開創者源頼朝の時代への回帰」などといったのんびりした情緒が介在する余地は全くなく、実力で相手を粉砕・殲滅する以外選択肢がない殺伐とした世界だったと私は考えます。
総じて鈴木著は「支配の正統性」に関する理論的考察が弱く、それは鈴木著が大きく依拠している『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)等の細川重男氏の著作でも同様なので、必要に応じて細川著への批判も少し行う予定です。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「いったんは成良を征夷大将軍に任じて、尊氏の東下を封じうると判断したものの」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64eae21672f1f4990d44ae4f277c59f5
「書評会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ae96ccb2823387e39cc2c6ef107347a
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます