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「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情

2020-05-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月16日(土)10時21分13秒

土御門定通のアユ釣り事件について、岩田氏は、

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 この事件については、これまでにもいくつかの研究で取り上げられている。本郷和人氏は、「この当時は実力で処断権を行使する者のことを広く「武士」と称する用法があった事に加えて、承久の乱の後には、武士に対して卑屈に成り下がった公家社会(土御門定通自身も含む)に対する痛烈な皮肉」が込められていたとする。また、高橋昌明氏は「武をもてあそぶ貴族」の一例としてこの土御門定通を挙げている。桃崎有一郎氏は、土御門定通が、承久の乱で幕府を勝利に導いた執権北条義時の婿となったことで、自分を甘く見る者を全員斬首しようという武士的な思考様式を開花させるに至ったとする。
 本郷氏の指摘は「武士」という語の定義および理解に無理があり、高橋氏および桃崎氏の指摘は定通とその周辺の人脈についての検討が充分になされているとは言い難い。「我又武士也」とする定通の自己主張が、北条義時との姻戚関係を誇示したものであろうことは疑いないが、かりにも「武士」を自称するに至った背景について、彼を取り巻く姻戚関係とそこから派生する縦横の人脈にも注目すべきである。その上で、彼が「我又武士也」と主張したことの意味を検討してみたい。

http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_017.pdf

と書かれていますが、注(4)を見ると、桃崎氏の見解の出典は「鎌倉幕府の成立と京都文化誕生のパラドックス─文化的多核化のインパクト─」(中世学研究会編『幻想の京都モデル』高志書院、二〇一八年」となっています。
相変わらず桃崎氏の言語感覚は華麗であり絢爛豪華でありバブリーですが、正直、阿呆だな、という感じを受けない訳でもありません。
ま、それはともかく、定通の発言は老儒者・菅原在高(当時六十九歳)との何度かのやり取りの最後に出てきたものですね。
在高は最初、関係者から「源大納言」と聞いたので権大納言正二位の源雅親(源通親の弟・通資男、土御門定通の従兄、四十八歳)ではないかと疑って雅親に問い合わせたところ、「於吉祥院前、釣魚事、老翁全非思寄事、天神定御知見歟云々」との返事が来て、その後、やっと定通だと分かり、定通と何度もやり取りを重ねます。
定通からしてみれば、たかが魚くらいで面倒くせーことを言いやがって、みたいな気持ちになって、最期に「俺だって武士だぞ。ガタガタ言うならその神人どものところに行って、全員首をたたっ斬ってやる」みたいなことを言い出した訳で、これを聞いた在高は、「ヤバい人に関わってしまった」と恐れをなして交渉を止めた訳ですね。
こうした経緯を考えると、酔っぱらいの戯言に類するような「我又武士也」という表現を本当に真面目に分析してよいのだろうか、という感じもしますし、「定通の自己主張が、北条義時との姻戚関係を誇示したものであろうことは疑いない」と言えるのかも若干の疑問が生じてきます。
でもまあ、この表現に一抹の真実が秘められているとすると、岩田氏は特に触れておらず、また、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)にも出ていませんが、私はこの土御門定通の発言は承久の乱の記憶がまだ生々しい時期のものであることを重視すべきではないかと思います。
承久の乱に際して、定通はそれなりの軍事的活動をしていることが『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ていますが、原文を見る前に坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書、2018)で当時の状況を確認しておくと、

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 同じ六月八日、京方の藤原秀康と五条有長は、傷を負いながら帰洛し、摩免渡での敗戦を報告した。院中は騒然となり、坊門忠信、源(土御門)定通・同有雅、高倉範茂ら院近臣の公卿も、宇治・瀬田・田原方面の防衛に向かうことになった。
 追いつめられた後鳥羽は、比叡山延暦寺の僧兵に期待をかけた。土御門・順徳両院、雅成・頼仁両親王らと、院近臣二位法印尊長の邸宅で評議を凝らした上、六月八日の夕刻、比叡山に御幸した。甲冑を身につけた源通光、藤原定輔・同親兼・同信成・同隆親ら公卿・殿上人と尊長を従え、西園寺公経・実氏父子を囚人のように引き連れた。
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といった具合です。(p182以下)
この部分は『吾妻鏡』同日条の、

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寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

という記述にほぼ対応していて、「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に派遣されています。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
こうした経験は、興奮したときに「我又武士也」と言う程度の話の背景には充分なると思われます。
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