学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)

2020-06-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月 1日(月)09時07分51秒

野口実氏は『承久の乱の構造と展開』の「あとがき」において、次のように書かれています。(p237)

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 もうすぐ、承久の乱から八〇〇年を迎えることもあってか、最近つぎつぎと、この事件に関する一般向けの本が刊行されるようになった。坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書)は、政治過程の理解において、私とは見解を異にする部分が見受けられるものの、本書の執筆に参加された研究者たちによる最新の知見も多く取り入れられていて、わかりやすく整理された好著だが、他の本は「公武対立」や「討幕」といった旧態依然とした公武対立史観に塗り固められている。こうした状況からも、学術的レベルから「承久の乱」を論じた書籍の刊行は意味を持つと思う。
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野口氏から見れば、東大史料編纂所の古狸である本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)などは「旧態依然とした公武対立史観に塗り固められている」本の代表格なのでしょうね。
ただ、近時の学説も「義時追討説」一辺倒ではなさそうです。
本郷氏より若い世代の「倒幕説」として、田辺旬氏の「第3講 承久の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』、ちくま新書、2020)を紹介したいと思います。
この論文は、

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はじめに
後鳥羽院と源実朝
実朝暗殺の衝撃
後鳥羽院の挙兵
北条政子と義時
北条政子の演説
幕府の戦後処理
おわりに
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と構成されていますが、「はじめに」には次のような指摘があります。(p56)

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 公武政権が協調関係にあったことを重視して、近年、承久の乱における後鳥羽院の挙兵目的は、討幕(=鎌倉幕府の打倒)ではなく、執権北条義時の追討であったとする議論がさかんになっている(長村二〇一五、坂井二〇一八、野口二〇一九)。こうした見解では、後鳥羽院の義時追討命令は、義時個人の排除を目指したものであり、鎌倉幕府を打倒する意図はなかったと理解している。院の挙兵目的をどのように理解するかは、承久の乱の性格を考えるうえで重要な問題であるが、院の挙兵目的を討幕ではなかったと考えてよいのだろうか。本講では、近年の研究を踏まえて、承久の乱の性格について検討したい。
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長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)は未確認ですが、坂井・野口氏の場合、「義時個人の排除」だけで満足する純度100%の「義時追討説」ではなく、何らかの幕府への「コントロール」を想定されていることは注意しておきたいと思います。
さて、田辺氏は、承久の乱が起こる前の朝幕関係について概観した後、次のように論じられます。(p61以下)

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後鳥羽院の挙兵

 一二二一年(承久三)五月十五日、後鳥羽院は、北条義時追討の命令を出して挙兵した。承久の乱の勃発である。院は在京武士を中心に畿内近国から軍勢を召集したが、佐々木広綱・三浦胤義・加藤光員といった在京御家人の多くは召集に応じている。在京御家人は、幕府と主従関係を結びながらも院の命令で軍事活動を行っており、院の召集命令に応じるのは自然なことであった。後鳥羽院の挙兵は、公武政権の協調のもとで在京御家人を含む京都の武士社会を編成していたことにより可能となったのである。京都守護の大江親広は、父は幕府重臣の大江広元であったが、院の命令に従っている。一方で、もうひとりの京都守護であった伊賀光季(北条義時の妻伊賀の方の兄)は、院の召集命令を拒否したために、院方の軍勢に攻められて自害した。後鳥羽院の軍事作戦は、院が召集した畿内近国の武士で京都を制圧したのちに、東国御家人に蜂起を促して鎌倉の北条義時を討つものであったとされる(白井克浩「承久の乱再考」『ヒストリア』一八九号、二〇〇四)。
 五月十五日に「五畿内諸国」に宛てて発給された宣旨では、幼齢の三寅を擁立した北条義時が「天下の政務」を乱しているとして、その追討を命じている(『鎌倉遺文』二七四六)。宣旨は諸国に宛てられてはいるが、東国の御家人たちに対して義時追討の軍事行動を起こすことを命じるために出されたと考えられている。
 一方で、慈光寺本『承久記』は、後鳥羽院の近臣の藤原光親が奉者となって、鎌倉の有力御家人に宛てた院宣が発給されたとする。光親の子息葉室定嗣の日記『葉黄記』には、「承久乱逆、故殿(光親)に追討の院宣をお書かせになられた」と記されていることから、院宣の発給は史実であると考えられる(長村二〇一五)。『承久記』によれば、院宣は北条時房(義時の弟)や三浦義村といった幕府中枢の有力御家人に宛てられており、「義時朝臣奉行」の停止を命じたという。院宣は、有力御家人に対して院方に帰参することを促すために出されたのであろう。
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ということで、長村氏は官宣旨とは別に院宣が出されたことを明確にされるなど、史料面では承久の乱研究の進展にずいぶん貢献されたようですね。
ただ、田辺氏が要約引用されているところによれば、長村氏の見解には些か奇妙なところもありそうです。
続けます。(p62)

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 前述したように、近年、院の挙兵目的は討幕ではなく義時個人の追討であったとする議論がさかんになっている。こうした議論では、討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはずであり、後鳥羽院には幕府そのものを打倒する意図はなかったとする(長村二〇一五)。しかし、そもそも幼児や女性が追討対象となることはありえない。後鳥羽院による義時追討命令は義時個人の追討を目的としていたとする見解が妥当であるかは、当時の幕府における義時の政治的立場を踏まえたうえで改めて検討する必要がある。
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まあ、確かに「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」というのは形式論に過ぎる感じがしますし、宛先となった武士たちにとっても、僅か四歳の幼児(藤原頼経、1218-56)や六十六歳の老尼(平政子、1156-1225)を追討しましょうと言われても、なかなか気分が乗らないでしょうね。
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